「じゃあ、願いは叶わないの」
 ぱりっ、とポテトチップス明太子チーズ味の袋を豪快に開けてそう聞くと、うん、まあね、と気のない返事が返ってくる。それから、そんなことよりよほど真面目な表情で、それちょうだい、と手を伸ばされる。三枚ほどくちにくわえ、袋ごと放り投げると彼女はなんなくキャッチした。キャッチ。なんというか、とても似合わない言葉だ。淡いはしばみ色の長い髪がふわふわと宙を浮き、年代物の煙管をゆっくりと吸ってはやわらかい茉莉花の香りを漂わせる。中身は煙草ではないらしい。以前から気になってはいたが、なんとなく聞きそびれている。瞳は深い青。そんな見た目で着ているのはくたびれた大きめのTシャツとスウェットだ。あきらかに合っていない。
「あの憎たらしいくそばか主はにこにこと笑いながら死にやがってね」
 願いはあとふたつも残っているんだよ、無欲なんだか食えないんだか。諦めたようにそう言って、彼女は己の棲処であるはずの、薄汚れたランプをくるりと回した。金色がはげはじめているが、彼女はよく愛用のタータンチェックのハンカチで熱心に磨いていた。ランプにタータンチェックってどうよ、と思わなくもない。
 窓辺の風鈴がゆうらりと揺れて涼やかな音を鳴らす。夏も終わりだなあ、とふいに思った。そういえば来週末に夏祭りがある。いつも暇そうにしているし、このひとも連れてくべきかなあ。
 この、明らかに日本人離れした容姿の女の名を、琥珀という。本当はライラだかレイラだか立派で響き良いうつくしい名前があるとのことだが、最後の主に、せっかく日本にいるんだから、と勝手に名付けられたらしい。嫌がったらはじめの、つまり一つ目の願いが、この名を受け入れろという命令になったのだとか。なんというか、適当にもほどがある命令である。彼女は、曰くランプの魔神なのだそうだ。うさんくさい。うさんくさいが、彼女の髪はいつもふわふわしているし、足も浮いているし、なんとなくそれっぽい顔をしているから、まあ、本当なのだろう。アラジンかよ、と突っ込んだのは無論である。
 琥珀とは三ヶ月くらい前に、うちの池の前であぐらをかいてぼーっと空を見つめているところを見つけたことで知り合った。かなり不審人物だったが、それ以上にやはり彼女は七ミリくらい浮いていたので、そっちに気をとられていたら、いつのまにか一緒に暮らすようになっていた。意外に礼儀正しく、部屋や風呂の掃除や、料理なんかも手伝ってくれて、なんだかんだと世話になっている。布団もきれいに畳んでくれている。
 琥珀の主はふたつも願いを残して亡くなったらしい。三つ願いを叶えないと、自由になれないということで、彼女はもう一生彼女の望む『自由』を手に入れられないという。仕方ないのでこのあたりをふらふらしたり、うちの蔵のなかで眠ったり違う意味で自由に過ごしていたようだ。それでも、彼女には帰りたい場所がある。帰れないと分かっても。
「香澄、」
「ん?」
「ポテチなくなった」
「えっ」
 ぎょっとして彼女の手から袋をひったくると、確かにすっからかんになっていた。いつの間に。ほとんど咀嚼の音もしなかったというのに。恨めしげに睨みやるが、琥珀は素知らぬ顔でランプを回している。三枚しか食べられなかった。がっくり肩を落として袋をぐしゃぐしゃに丸め、ゴミ箱に捨てる。ばたんと畳に寝っ転がり、ちょっと目を細め、夏の気怠い空気を吸い込む。暑い。それから、ぽつりと、ねぇ、と呟く。
「琥珀の憎たらしいくそばか主って、じいちゃんのこと?」
 とけた蜂蜜のような長い睫毛がゆっくりと瞬く。ふう、と琥珀は茉莉花の匂いを吐いた。あわい薄紫の煙がふわりと浮きいで、すぐに消える。さあね、誰かなんて忘れたよ、と彼女はつまらなそうに言った。ふーん。こちらも気のない相槌を返す。ふと、思いついただけだ。聞かれたくないことを聞いてしまったなら、悪かったな、と少し思った。やがて煙管の背がこつんと窓の桟を叩いた。
「今日の夕食は?」
「カレー」
「またか」
「今日のはお母さんが作るよ。いる?」
「いる。朝子さんによろしく伝えてくれ」
「はいはい」
 細かいことを気にしない主義の母親は、琥珀のことも特に気にしていない。ときどき一緒に洗濯をしている。この暮らしは、なかなか好きだな、と思うのだけど、琥珀はどうだろう。やはりもどかしいものがあったりするのだろうか。いつもぼーっとしていて、なんだかどちらでもよさそうにしているけれど。ちらりと彼女を振り返ると、ひらひらと片手を振られる。さっさと行け、と言いたいのだろう。まったく、ふてぶてしい同居者だ。香澄は肩を竦めて部屋を出た。



 ふーっ、と細く煙を吐く。総十朗、と彼女はちいさく呟いた。ほけほけと明るく笑うもういないその男の顔が、煙につられるようにして脳裏に浮かんだ。記憶のなかの主は相も変わらず暢気そうで、軽くいらっとするものがある。
「総十朗、おまえの孫はなかなか鋭いな」
 よくもはめやがったな、と彼が死んだ日に泣いたときと、ほんの少しだけ似てしまった声音で、彼女はこの国でいうあの世で賑やかに暮らしているだろう男に向かって、腹の立つような呆れるような気持ちで囁いた。まったく、いつまでたっても、わたしの願いは叶わないよ、と困ったように続けて。



夏の日の魔神

(自由になりたかったはずなのに、ね)



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