彼の妻、由利子が悲しいような困ったような、ちょっといまいち区別のつきにくい表情で夫を見つめていた。琥珀は彼女に見つからないよう、外から低い窓を覗いて総十朗の様子を窺う。平べったい、布団なる寝具に横たわった老人は、まだ生きているのか、それとももうあの世とやらにいっているのか、よく分からない。数年前は黒く艶やかだった由利子の髪はちらほらと白いものが混じっていて、ほっそりした頬にはいくつもの皺が刻まれている。老いたな、と琥珀は思った。昔はつんけんしていた彼女も、今では良い母になり、穏やかな祖母になった。時とは立ち止まらないものだ。ランプの中で悠久を生きる琥珀をおいて。
 総十朗の部屋に、小さな足がのそのそと入ってきた。うん? と見やると彼らの孫である。可愛いんだぞう、と何度か自慢されたことを思い出す。遠くから見たことがあるような、ないような。興味をひかれて観察すると、口許のあたりが由利子と似ていた。瞳の色はどちらとも同じだ。もっとも、この国は大概黒い人種のようだが。
 子供は布団ににじりより、虫の息の祖父の頬を、おそるおそる叩いた。
「じいちゃ、ねんね?」
「ええ、そうですよ。香澄、あなたも寝ましょうね」
「う……」
 不服そうだ。しかし、常と様子の違う祖母に逆らえなかったのか、背を押されてとぼとぼと出ていった。部屋の外に控えていたらしい、総十朗と由利子の娘が、その子供を抱き上げる。あー、だか、うー、だか言いながら、子供が振り返る。ぱちり。と、目が合った気がした。まずい。琥珀は慌てて窓から離れた。いや、べつに、会っても問題はないのだが、なんとなくこれまで、主以外の人間とは関わらずにきたのだ。ここで翻してどうする。
「それではおじいさん、わたしも少し外しますよ」
 出会った当初より随分まろやかになった口調で、由利子も部屋を出ていく。ちいさな背だ。総十朗と由利子。ずっと見てきた。琥珀の主はなかなか願いを口にしない。そのせいだ。そうやって、間接的にとは言え、長く付き合ってきてしまったから、その背中を淋しく思ったりしてしまうのだ。ああまったく腹立たしい。ざわざわした触り心地の紙が貼られた窓を、からからと開けて部屋に滑り込む。血色の悪い総十朗の顔を真上から見下ろし、琥珀は低く吐き捨てた。
「狸寝入りはいいかげんにしろ、総十朗」
 ぱち、と皺に埋もれた目がどちらとも開いた。よろよろとおぼつかない視線が向けられる。座れ、と言われているような気がしたので、琥珀は断りなく腰を下ろした。長い髪を無造作に背に押しやり、あぐらになる。
「……はは、おまえには、お見通し、だなあ」
「当たり前。何年おまえに面倒かけられてきたと思っている」
「ふふ、楽しい人生だったぞ」
 由利子とも出会えたしなあ、と総十朗は呟いた。その様子があまりにも死に際らしくなかったので、琥珀は次の言葉は逃しかけた。
「それだけどね。おまえ、残りの願いを使うつもりなら、早く言ってくれないと困る。わたしは勝手に叶えることはできないんだから」
 主が言葉にして命じてくれないと、『みっつのねがい』は使えない。そう文句を言ったつもりだったが、総十朗は、うん? と僅かに首を傾げるだけだ。琥珀は眉をひそめた。
「うん? じゃない。さすがに死んでからでは使えないよ。条理に反する」
「ははは、おまえ、魔法なんてなんもかんも条理に反しているじゃないか」
「……そういう話じゃなくてな」
 言いかけたところで、総十朗が細かく咳をした。背中の傷が痛むのだろう、らしくもなく顔を歪めている。
「言わんこっちゃない。それともどう言えばいいのか、迷っているのか。ともかく、その傷をなくせば、少しはよくなるだろう」
「はは、ごめんだよ」
 さらりと総十朗が言った。
「……なに?」
 琥珀は固まった。意味が分からない。こういうときのために、願いを取っておいたのではなかったのか。怪訝げに老いさらばえた男の顔をいやいや凝視すれば、むりやり唇を震わせ、総十朗は若い頃と同じ、厭味ったらしい表情でにやりと笑った。
「傷なんぞそのままでいいさ。そろそろ死にそうなこの身体もな」
「……は? じゃあ、何に使うんだ」
「おまえの頭はそれだけか、ばかもん」
「……本当に死ぬぞ」
 だんだんと、鈍器で腹を殴られたような、不気味な感覚が足の裏から這い寄ってきた。じわじわと心臓を蝕むこれは、総十朗の死が現実のものとなる予感だ。
 総十朗が死ぬ。
 この男が? いつも何を考えているのか分からない、だが水に沈められても死ななかったこの男が、本当に、本当に死ぬというのか。終わるというのか、この男の、総十朗の、総十朗と由利子の、ふたりを見続ける自分の、変わらぬはずだった日常が。
 こんなに簡単に終わるというのか!
「ばっ……馬鹿か、おまえは!」
「単細胞のおまえに言われたかないわ。よいかね、琥珀。おまえに願いを言ってはやらないよ」
 楽しそうな総十朗に反して、琥珀は自分の感情がどういうものなのか、あまり理解したくなかった。ただ、手足が少しばかり寒く、それから、腹の底から何か途方もない苛立ちに似たものがぐつぐつと溢れ出して、けれどもどうもできずに持て余している。そのような感情。
 ぎり、と琥珀は歯を噛み締めた。嘘つきめ、と唸る。嘘つきめ。はじめて琥珀を呼び出した日、彼は言ったではないか。いつ願いを言うのかと聞く彼女に、言ったではないか。
「いつか、そのうち願いができたら言うと、おまえ、そう言っただろう」
「できたら、な。まだできていないから駄目だ」
「嘘をつくな! おまえは、何度も叶わない願いに落ち込んでは、わたしに言いもしないで捨ててきた。それが願いかと聞いてやれば、何もかも拒んできたくせに、最期までそれなのか。大概にしろよ、総十朗!」
「そう怒るな、血圧が上がるぞ」
「総十朗!」
 琥珀の恫喝にも心地よさそうに目を閉じて、総十朗はまるで頓着しない。
「ふふ、この単細胞め。まるで成長しないな、おまえは。そんなに願いが必要か?」
「当たり前だ。ランプに戻れない。いつまでもおまえに囚われたままだ」
「それじゃあ、自由になればいい。おれはもう死ぬからな、無理強いはできんぞ」
 自由?
 そんなもの、願いになんてならない。自分を自由にする魔法なんて使えるわけがない。そもそもこんなやる気のない願いがあって良いものか。
 だいたい、と琥珀は思う。どんなに自由であっても、結局、総十朗はいなくなるのではないか。それでどうして、自由を望めるというのだろう。いないのに。
 自由になったそのとき、もう、隣に、総十朗はいないのに。
 琥珀は途方に暮れた。魔神に多くの言葉は必要ない。必要なかった。このけったいな主に捕まるまでは。
 だから、どう言えばいいのか、琥珀にはうまい言葉が思いつかない。
「……願いは、もういい」
「お?」
「せめて、傷を消させてくれ。そんなに簡単に、逝こうとするな」
 柔らかい掛け布団の端を掴み、琥珀は人間なんかに心底願った。総十朗が驚くのが分かった。それから、彼はいっとう優しく微笑んだ。しわくちゃの、じじいのくせに。
「なんだ、えらくまっとうだな。嬉しいね。……ありがとう、琥珀。おれの魔神。だけど、こればっかりは駄目だ。なんたっておれは、人間だからな」
「由利子はどうする。おいていくのか」
「朝子もいるし、香澄もいる。淋しくはないさ」
 急所をついてやっても、びくともしない。
「ひとは、替えがきかないんじゃなかったのか」
「そうだな。おれの穴は、きっと空いたまんまにしてくれるだろう。でも、由利子は大丈夫だ。あれは意外と、肝が据わっている」
 酷い男だ。琥珀は思った。総十朗がいなくなるということは、由利子にとって重大な損失だ。従軍していたときだって、由利子は決して泣かなかったけれど、それでも琥珀は知っている。彼女が必死に堪えていたことを。どれほど、彼の無事を切望していたかを。総十朗だって分かっているのだ。
 琥珀、と総十朗が呼ばう。ちょいちょいと手招きされるから、彼の口に耳を寄せた。
「おれはな、琥珀。秘密だぞ? おまえにね、願いを言うつもりは、実に初めて会ったときから欠片もなかった。まさかあんなに名前を嫌がるとは思わなかったから、ひとつばかり消費してしまったがな。うん、願いはとくになかったが、なんだか欲しい願いが叶ったみたいな気持ちだよ」
「なんだ、それは」
「自分で考えろ、大馬鹿ものめ」
 に、とたっぷり含みをもって笑う。本当に嫌な男だ。
「やっぱり願いを先延ばしにして良かったよ。おまえと一緒の人生は、なかなかよろしいものだった」
 不遜な遺言を残して、総十朗は灰になった。この国が火葬だったことを、琥珀は今更ながらに実感した。骨だけになって箱に詰められる前、ほかには死人だけの部屋に由利子が戻ってくるその前。息を引き取った、その刹那。
 琥珀は覚えている限りおそらくはじめて、からく泣いた。
 はめやがったな、総十朗。そうして荒い言葉を使うのも、久しく忘れていたことだった。
 どうやら魔神の涙もしょっぱいらしい。頬を汚したなまぬるい水がわずらわしかった。総十朗。
 自由をくれると言ったくせに。










「琥珀―、アイス買ってきたよー」
 たんたんたん、と安っぽいサンダルを鳴らして、香澄が庭に入ってくる。コンビニの名前が印刷された透明なビニール袋を高く掲げる。がさがさ鳴る袋から、香澄は二本カラフルで細長い袋を取り出した。
「ソーダとコーラ、どっちが良い?」
 に、と唇を三日月にして笑う香澄の顔は、総十朗に良く似ていた。
「チョコはないのか」
「ない」
「じゃあ、コーラ」
「あいよ」
 琥珀の答えを受けて、香澄が明るい茶色の袋をひょいと投げてよこす。なんなく受け取り、ばりっと袋を開け、棒アイスを口にくわえた。うむ、美味しい。香澄がよく買ってきてくれる最近の菓子類は、少し不健康そうだが、かなり琥珀の好みに合った。なかでもぽてとちっぷすなるものはかなり美味である。
 ソーダ味をがりがりと食べる香澄が大きな石の上に座る。ふはー、やっぱり夏はアイスだねえ、などと幸せそうだ。総十朗が死んだ日、まるっこくて小さかった子供は、随分と成長し、琥珀と他愛ない話をするほどになった。あんなに舌ったらずだったのに、やはり時が過ぎるのは早い。
「ん、食べないの?」
「食べる」
 物欲しそうに手許のアイスを見られ、琥珀は慌ててかぶりついた。きん、と冷たい氷の塊が頭を冷やす。香澄は意外と、油断ならない。食欲魔人である。
 そういうところは総十朗に、ときどき繊細めいたことを言うのは由利子に、もっとときどき、鋭いところは二人に似ている。ざっくばらんで懐の広い朝子の性格は、果たしてどちらのものか。
 ふたりと過ごす日々は、胸に空いた穴を優しく撫でて、それから違う場所に花を咲かすような、不思議な毎日だった。洗濯を手伝って、布団を畳んで、香澄の危なっかしい料理をはらはらと見守って。それから、ふっと総十朗のことを思い出す。そらみたことかと嬉しげに、したり顔の彼の姿がまるで鮮やかに目に浮かぶ。まったく、おまえは本当に腹の立つ男だったよ、と琥珀はひっそりと思ってから、コーラ味のアイスをがりっと噛んだ。
「んー、美味しいねえ」
 香澄の平和な顔が眩しい。香澄も朝子も、総十朗や由利子のように、琥珀をおいていくのだろう。それでもいいと少し思う。ほんの、少し。未だ、あの男に対しては、腹が立ってばかりだけれど。
 琥珀は燦々と照り輝く太陽に、そっと目を細めた。
「ああ、至福だね」

 これを自由と呼ぶのはかなり癪だ。
 けれどたとえるならば、かなりの幸福だと言えるだろう。







夏の日の魔神  INDEX CLAP!



inserted by FC2 system