護衛とお姫様 

 

 

 

 

 

  

 

 唇がわななくのを止められなかった。

「……そ、んな」

 どうして、とは問わなかった。多分、無意識に分かっていたのだ。彼がそうしたのは、彼の意志ではなく、彼が従わざるを得ない誰かの命令だと。それでも。

 それでも、彼女は信じたくなかった。頑迷なまでに。

 嘘でしょう、と、意味もない言葉を紡ぐ。震える彼女の目の前で、彼はとても優しく笑った。その優しい顔のまま、言う。

「申し訳在りません、我が君」

 

 

 深夜、寝室に現れた彼は凪いだ水面の眼差しで彼女を見た。かつ、と寝台脇の机に思わず手をつく。目眩がした。一歩後ずさり、告げられたことの次第を思う。……ため息も、つけなかった。

 アンジェリナにとって彼は最も大切な人間だった。つい先だってその任を外されるまで、ずっと側にいてくれた人。……護衛と、して。

 幼い頃から守ってくれていたひとだった。ふわりと微笑む顔は優しく、いつだってアンジェリナを羽毛でくるむように守ってくれていたひとだった。ずっと、ずっと幼い頃から。彼も、自分も幼い頃から。まるで習慣のように。呼吸をするように自然に、それから当然に。だから、たぶん、そうなのだと分かる。彼が何かする時、それには必ずアンジェリナが関わっている。間接的だろうと、直接的だろうと。

 だから今回も、彼はアンジェリナの為にパレニアの第二王子を殺したのだ。

 ——ああ、だから。

「……わたくしの命を守りましたね」

 アンジェリナは諦めなくてはいけない。何故なら彼女はこの優しい男のただひとりの主だから。アンジェリナは分かっている。決して変わらぬその厳然たる事実を。……哀しいほどに。

 彼はゆるりと瞬き、それから困ったように微笑った。肯定も否定もしない。

「これからは、おそらくパレニアのお世継ぎがお守りくださいましょう」

 一番の有力候補を自分で殺しておいて、そんなことを言う。確かにパレニアにはもう一人王子が残っているはずだが、数が間に合うからと言って許されることではない。けれども彼の中の優先順位はアンジェリナが最も上にあり、それ以外は取るに足らぬたとえば道端を往く蟻のようなものに過ぎぬのだろう。この優しい顔で笑うひとに、そういうところがあることも、彼女は知っていた。

「殺されますよ」

 存外、冷たい声が出た。この場合どちらを指したのか、自分でも分からない。もしかしたら双方だったかもしれない。少なくとも彼は間もなく死ぬだろう。そして自分も、あと幾年生きられるか。何しろディオロスはパレニアとの和議の最中に次代の王だろう第二王子を弑したのだから。たとえそれがディオロス上層部の総意ではなくても。

 しらみつぶしに火種をあぶりだし、消し尽くしておくべきだった、という埒もない後悔が胸を圧す。今更、だ。どうしようもないこと。おそらくパレニアは激怒し、攻めてくるだろう。その度がどの程度かが問題だ。それで不穏因子を全て鎮圧するに至るか。こうなった以上なるべく派手な方が良い。下手に小規模では不満を無為に煽るだけだ。間違っても国土が全て火に包まれる事態だけは避けなくてはならない。

「大丈夫ですよ、我が君」

 不意に彼は暢気な声を出した。眉をひそめるアンジェリナの顔を覗き込んでくる。……血の匂いもしない、その目で。

「あなたが殺されることはございません。少なくとも、国としてのパレニアとディオロスは和睦する方が余程利益がありますし、何よりあそこの王子はあなたを殺そうとはしないでしょう」

「仇の国の娘だというのに?」

 どうやら彼は先程のアンジェリナの言葉を、彼女自身を指すものとしたいらしい。仕方がないので付き合ってやる。彼は幾ばくか前に人を殺したばかりの手で、赤子にするように優しくアンジェリナの頬に触れた。

「ちらりと窺っただけですが、彼はそのような無益な、特に女子供に対する殺生を好かぬ人間です。それにたとえ向こうで命の危機にさらされようと今以上に酷い目には遭いますまい。あなたが気をつけるべきはパレニアではなくディオロスです。過激派は変わらずあなたの命を狙っております故」

「……あちらにとっては、和睦推進派の矢面にある、いずれパレニアの子を産むだろうわたくしが邪魔で仕方ないのでしょうね」

「ええ。ですからお気をつけください。パレニアでは……そうですね、子を産むまではディオロスの穏健派が死ぬ気でお守りくださいましょう。それからはさすがに不安なので、向こうで充分にお味方をお作り下さいね」

 遺言のようだ、と思った。震えるような息が洩れる。

「……あなたがいないのに、わたくしが生き残れるわけないでしょう」

 実際的な意味で、彼がいなくては護身が成り立たない。彼女の知る中で——彼女を護衛する者の中で、最も強いのがこの男なのだ。

 ふと、気付いた。

 彼がアンジェリナの護衛から外されたのは、ディオロスにとって手放し難い存在だったからと聞く。パレニアに同行する護衛に彼がいないのは彼女にとっても不安ではあったが、その理由には納得がいったし、特段引き止めようとも思わなかった。これ以上彼女の人生に巻き込むのも忍びなかったということもある。けれども、それを彼は果たして良いことだと取っていたのだろうか。

「いいえ。大丈夫だと、信じております。どうかどんなに汚いことをしてでも生き延びてください。……それから、自棄になって手を貸したわけではありませんので、そんなに青ざめないでくださいね」

 ここでそれを言うのか。一瞬、彼女は二の句を継げなかった。彼女が最も青ざめていた時は今ではないのだが。

 ああ、でも。それはつまり、彼はこれで、この国に蔓延る危険因子を全て排除させるつもりなのだ。パレニアの第二王子ひとりの命を使い、無益に戦の起こらぬよう、派手だが不穏なきっかけを請け負って。泥を被るみたいな真似をして。情の欠片もないような手段だが、有効ではある。和睦してからも問題は起こるだろうが、初っぱなから大量に人死にが出ることはないだろう。そう考えると彼に声をかけた過激派はかなりの愚か者と見える。

 我が君、と彼はやわく彼女を呼ばわった。つられるように顔をあげる。とけそうな響きだった。

「骨の髄まで私の忠心を信じていただけて、これほどの幸福はございません」

 ありがとうございます、と彼は、本当に、心底嬉しそうな顔をする。

「我が最愛の君。……お別れです」

 自分は今、どんな顔をしているだろう。アンジェリナは喉が引きつるのを自覚した。心臓がひっくり返ってこつりと止まり、吐く息が消える。脳髄がひりついた。目頭が痛む。唇はわななく。

 身体の芯まで、冷えきった。

 優しい手が離れていく。そうして温度はますます失われる。夜明けに影が引くように、するりと彼は下がった。

「……フラビオ」

「はい」

「最後に、わたくしの命をおびやかすと脅した者の名を」

 こつ、と靴音が立った。とても珍しい。彼はいつも、全ての音を消している。

 そっと耳打ちされた名に目を伏せる。フラビオ、ともう一度、彼女は男の名を呼んだ。

「わたくしは、あなたがとても好きでした」

 きっとこれからもずっと。

 最後までアンジェリナを守ったそのひとは、今まで見た中で一番幸福そうな笑みを閃かせて、静かに彼女の視界から消え失せた。

 ————もう逢うことは、ない。

 それでもアンジェリナは泣かなかった。彼の死を知った後も。

 ずっと。

 

 

 

 

 

 ああ、あれは確かに恋だったのだ、と気付いたのは、馬鹿らしいことに婚儀に臨んだその時のことだった。これはもう、誰かをそういう風に見ることはないだろうな、という気付きたくもないことまで思い知らされ、さらにこのままならぬ想いは未だ消えず、おそらく当分失せぬようだ、とも痛感する。

 だからその自分とそう変わらぬ年齢の男と対面した時、彼女は酷く緊張した。和平の為と言えど、これから妻になる女がそのような心持ちであることは、かなり不道徳……というよりまずいのではなかろうかと一応そのように危惧したので。

 新たなパレニアの王は気怠気にアンジェリナを見た。そうして一瞬気遣うように眉根を寄せ、けれども欠片たりとも躊躇うことなく告げる。

「俺は一生愛する女がいた。そういうわけで、あなたのことをそういう目で見れないのだが」

 申し訳なさの片鱗も見えない。それを恥じもせず、そして謝りもしなかった。他の誰かが聞けば怒り、傷つくかもしれない。だがアンジェリナにはとても誠実な言葉に聞こえた。自然、唇が笑み綻ぶ。

「はい。わたくしも最も愛する者がおりました。一生彼を忘れることはないでしょう。ですからあなたのそのお言葉はとても嬉しゅうございます」

 彼はゆっくりと瞬き、はじめて嬉しそうに微笑んだ。無言だったけれど、まるで礼を言われたような気がした。良かった、と心底思う。この人とは、とても上手くやっていける気がする。

「オーガスト様。あなたの愛しいお方と、わたくしの愛した者に誓って、あなたの善き治世を終生お支えすることを誓います」

 善く治めよ、という幾分不遜な意味を含んだそれは、しかし彼女の中に根付いた願望だった。オーガストは目を見開き、アンジェリナを凝視し、そして吐息をつくようにひそやかに頷いた。

「ああ。俺も誓おう。俺の愛する女と、あなたが愛する男に」

 パレニア王は王妃の最も望む答えを囁いた。ともすれば、今にも消えそうな睦言の如く。

 いつでも変わらぬ清らかな微笑と一度も曇ることなく王を支えたその辣腕により、後に白蘭の君と讃えられる彼女は、その日久しぶりに含みのない幸福な微笑を浮かべたのだった。

 

 

 

  


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