アンバランスな心 合わせたてのひら 言葉より息が詰まる



 あ、また、あの子のこと、見てる。
 そのひとは、普段の底抜けに明るい姿が嘘のように、どこかふわふわした心ここにあらずの様子で、熱のこもった眼差しを教室の隅に向けている。そこにはもの静かで大人しくて、少し引っ込み思案の、栗色のふんわり揺れる髪を垂らした、レースのカチューシャをつけた女の子がいる。伏せた睫毛は長くて、化粧もしていないのに真っ白で、頬はうっすら桜色。唇はやわらかそうにまるい。すごく、可愛い。でも、彼女が可愛いってことを、ちゃんと知っているひとは、たぶん、けっこう、少ない。何せ、普段からあんまり喋らず、俯きがちで、ありていに言えば、クラスの中では地味な女子、という立ち位置のようだから。あんなに可愛い子が、浮いた噂ひとつもないなんて、随分平和な話だ、と輪島曜子はそう思う。でもきっと、そのことに彼はたいそう安堵していることだろう、とも。机にだらしなく突っ伏しながら、目を逸らすように窓の向こうへ頭を動かした。ふわふわした栗毛に、伏せた長い睫毛の奥できらめくまなこ。とびきり可愛い自分の従姉妹を見つめる彼をどうして憎らしいと思ってしまうのか、そんなばからしいことは、小指のさきほども考えたくなかった。
(ばっかみたい。振り向かない相手を想うなんて)






 雪深い国。そう聞いたとき、彼女は目の裏に思い浮かぶうつくしい景色を夢見て、いつか行ってみたいものだ、とひそやかに願った。でも、きっと無理だろう。篤い病、おのれの身分、その国とこの国の関係。理由は色々ある。そのどれもが理由で、けれどもそのどれでもなく、慢性的な諦め癖が無理だと告げていた。だというのにその国に対する憧れは消えなくて、ゆっくりゆっくり喋る相手に、そっと、何度も、問いかけた。彼はやっぱり、ゆっくりゆっくり考えて、ゆっくりゆっくり答えてくれた。ああ、雪の匂いがする。彼女は思った。そのひとの声はとても静かで、やさしくて、ふわりとこぼれおちるようで。自分は、本当は、雪深いその国を知りたいのではなくて、そのひとの声をたくさん聞きたかっただけの話なのだ、ということに気づくまで、そう時間はかからなかった。雪のようにしんしんと降る穏やかな声。ぽつり、ぽつりと喋るひと。おさない自分と同じ、おさない頬。でも、彼はどこか希薄で、ふっと目を離した隙にどこかへ行ってしまいそうだった。それがたまらなく恐ろしくて、いつもいつもひっついていた。名前を呼んで、と願いを込めてつぶやく。あなたがいなくなってしまわないよう。私の手の届かないところまでいって、しまわないよう。それがたいそう我が侭で、きっと故郷に帰りたいだろう彼を困らせるだけの願いだと、分かっていたけれど。そんなこちらの胸のうちなど知らぬげに、彼はゆっくりと微笑んで、寝台にふせる彼女の手を握った。そっと合わせられた手は、男のものとも思えぬほどやわらかく、けれど彼女が思うより確かにあたたかな熱を持っていた。
(とけて、いなくなってしまう、雪のようなひと。でも、あなたの手はあたたかいから、こうして触れていれば、あなたがいると確かに感じていられるのよ)






 おろかもの、と詰る声とちいさな手が彼の頬を張り倒した。見上げると薔薇色の唇を噛み締め、やわらかそうな頬を真っ赤にして、幼いながら将来を思うと末恐ろしくなるような美貌を兼ね備えたこどもが、きりりと柳眉を吊り上げていた。張られた頬はそれほど痛くはなかったけれど、なんとなく、彼女は痛がっていてほしいのだろうと思ったので、さも痛そうな顔で頬を押さえてみたところ、しらじらしい演技をするなと怒られた。かといって、何の反応もしなければ、やはり違う言葉で怒られていただろう。理不尽である。いったい、なにがどうしたっていうんですか、と面倒ながら尋ねてみると、おまえはおまえはおまえはいつもそう! と急に怒鳴り出した。彼女は、相変わらず、脈絡がない。ベルベットをふんだんに使った重たそうなドレスを引きずり、ちいさな足が擦れてしまいそうなかかとの高い靴をカツカツ鳴らして詰め寄ってくる。おまえ、また、勝手に出ていくのでしょう。わたくしのゆるしもなく。おまえは、わたくしのものなのに! うつくしい真紅の瞳が怒りを燃やして爛々と輝いて見えた。まったく、なんてうつくしい生き物なのだろう。そんな風にぼんやり見蕩れていると、かかとから蹴りつけられた。これは、さすがに痛かったので、素直に顔をしかめる。おまえ人の話を聞いているの、と怒鳴るこどもはしかし、目のふちいっぱいに涙を溜めている。透明なそれはきらきらと光って、彼女をよけいうつくしくする。眼差しは言葉より雄弁だ。せいいっぱい怒った風を装った表情をしながら、必死に淋しさを押し殺している。ばかなひとだなあ、と彼は笑った。まったく、どうしてそう、あなたってひとは短気なんです、ちょっと行ってすぐ戻ってきますから、そう心配なさらないでください。そういって彼女の頭をふわふわと撫でると、さきほどまでの勢いはどこへやら、いきりたっていた肩は落ち、口端は下がり、何か言いたげに視線を彷徨わせてから、彼女はふっと俯いた。帰ってこなければおまえを殺してやるわ、と、やがて物騒なことを呟く。やめてくださいと訴える間もなくにじり寄られ、ふいにこめかみのあたりにくちづけられた。おさなく、あまいくちづけは遠くに咲く花の匂いがする。彼は苦笑しようとして、けれども知らず詰めていた息を、ただ静かに吐き出すばかりだった。
(まったく、なんて心臓に悪い)





もう遠い彼方、    

 咲き枯れぬきみの声



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title by 『アンバランスな心・合わせたてのひら・言葉より息が詰まる』 http://shindanmaker.com/67048
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