良い天気だった。大きな屋敷の上で、鳶のような勇壮な鳥が旋回している。とりどりの薔薇が門前を飾る邸宅は、主人の優雅な品の良さを醸し出していた。箱馬車の窓を引き上げ、ぼんやりとそんな景色を眺めていると、お嬢さん、と話しかけられた。視線をめぐらせれば、庭師の姿をした男が立っている。
 はい、と応える。すると彼は目尻にやわらかい皺を寄せ、柔和というのにふさわしい笑みを浮かべた。
「お嬢さん、ヴァルトシュタイン家に御用ですかな」
「あ、はい。今、従者が取り次ぎをお願いしに……」
「残念ですが、今は旦那さまはいらっしゃらないのです。先日、エルガー家が襲撃されたでしょう。そのことで少し」
 まあ、と彼女は口許を手で覆った。間の悪いときに来てしまったようだ。
 彼女の様子に感じるものがあったのか、男はそっと眉を寄せた。申し訳ない、というような人の良さをうかがわせる表情だった。
「何か、急ぎのご用事ですかな」
「いえ……そうでは、ないのです。先触れもなくきてしまいましたから、当然ですね……」
 まったく、本当にその通りだわ、と彼女は心中でひとりごちた。気が急いていたとはいえ、無礼も甚だしい。そもそも、やはり、今の自分が訪れてよい場所ではなかった。父の言葉に従った結果だが、選んだのは自分だ。今、ヴァルトシュタイン家の当主が不在で、むしろ良かったのかもしれない。これ以上迷惑をかける前に、離れた方が良いだろう。
 顔を見られないよう布を被る。そうして自分の手で、馬車の扉を開けようと手をかけた。と、再び、男が口を開く。
「何か事情がありますなら、私が代わりにお聞きしますよ」
 彼女はきょとんとした。不思議なことを言う男だ。おそらく、彼はヴァルトシュタイン家の庭師で間違いないだろう。剪定用の鋏を黒い門にたてかけている。前庭ですらこれほどうつくしいなら、奥に隠れる庭の方は、いかほどなのだろう。それも全て、この男の手によるものなのだ。それはとても素晴らしいことだな、と彼女は思った。これから、自分は、その十分の一でも見習って、生きていかなければならない。
 男は返答を待っている。悩んだが、今迎えに行ってもすれ違いになってしまうかもしれないし、従者が戻ってくるまでの間に話してしまっても構わないだろう、と彼女は結論付けた。
「一昨日の、夜の話なのですが」
「ええ」
「少し、わたしの家で、えぇと――障りが、あったのです。それで、どうしても、屋敷にはいられなくなってしまって」
「ほう」
「父も母も、どうしているのか、今のわたしには分かりません。昨夜は、シュトュルフハイゼン教会の最下層にお邪魔しておりました。どうしようか悩んだのですが、よい考えが浮かばず、父の言っていた言葉に従おう、と思いました」
「なるほど、それで当家に」
「ええ。馬車は、幸い、わたしの従者が馬車の操縦をできましたので、辻馬車を失敬して」
「失敬?」
「ええ、その……御者の方に、少しばかり、握らせて。あとでお返しすることを条件に借りさせていただきました」
「それで、ここまでやってきた、と」
「はい」
「お父君の言葉、というのが、ヴァルトシュタイン家を訪ねるということですかな」
「ええ、あの……はい」
「お嬢さん」
 気まずくなって顔をそむけると、男がふと、首を傾げた。どこかひょうきんな仕草だった。口許がやわらかく微笑んでいる。
「あなたは、エルガー家のコルネリア様でいらっしゃいますね」
 断定だった。
 彼女は目を見開いて、いっとき、息を止めた。
 視線を彷徨わせてから、結局は観念して、睫毛を伏せた。
「はい」
 はっきりと首肯する。庭師の男は眩しそうに目を細めた。やはり、と彼は呟く。コルネリアは顔を覆う布を剥ぎ取り、今度こそ馬車の扉を開けた。目の前にいる、若い庭師にしっかりと視線を合わせる。逸らさない。
「押し掛けて、この上ご迷惑をおかけするご無礼を、どうぞお許しください。もしよろしければ――この馬車を、カールという男にお返ししてはいただけませんか」
「そうして、貴女はどうなさるのですか」
「わたしは、従者を連れて、城下を離れようと思います。わたし一人では野垂れ死ぬばかりかもしれませんが、優秀な従者がおりますから」
 甘い言葉だ、とコルネリアは心のなかで思う。自分が生きていける場所は、あまりに狭い。けれども、たとえ身を堕としてでも、ここまでついてきてくれた従者ひとりくらいなら、生かせるだろう。何より、あの子は自分などよりよほどたくましく、強いから。
 こつ、と石畳に片足を下ろす。この馬車は、思ったより段差があって、一気に降りるのは少し躊躇われた。
 もう一歩、といきかけたとき、ふいにかすり傷の多い手を差し出された。ゆっくりと瞬いて、男を見る。藁を編んだ帽子を首の背に下げて、土に汚れたシャツを着た、そのような姿なのに、その動作は息を呑むほど優雅だった。
「あの……?」
「ようこそ、コルネリア様。ヴァルトシュタイン家当主は不在にしておりますが、当主の長男はおりますので、代わりに当家にご案内致しましょう」
「……長男……?」
 何を言われたのか、咄嗟に理解できなくて、コルネリアはまじまじと男を見つめた。彼は相変わらず柔和に微笑んでいる。
「ええ、働き者の多いヴァルトシュタイン家で唯一の出不精だと怒られてばかりの、長男のディートハルトと申します」
 え、と思わず彼女は呟いた。まさか、次期当主が庭仕事をしているとは。コルネリアは今までの会話を思い出して、あまりにも気安く喋り倒していたことに気づき、真っ青になった。
「も、申し訳有りません、わたし――――」
「当主ほど役には立ちませんが、部屋を用意することぐらいはできます。よろしければ、我が家にお招きさせていただけませんか」
 コルネリアはまたも、意味をはかりかねた。けれどもすぐに、彼は自分たちを保護してくれると言っているのだ、と分かった。
「なぜ……、いいえ。後始末にご当主さまのお手をわずらわせてしまっている今、さらにご迷惑をおかけするわけにはいきません。血迷っていたのです。混乱、していて」
「混乱するのは当然です。混乱してなお、貴女の選択は間違っていなかった。コルネリア様、これは保護ではありません。私が貴女を招きたいと思った、それだけのことなのです」
 穏やかな口調だったが、けして有無を言わせぬ響きがあった。それに、保護では、ない、とはどういうことだろう。訝しむ彼女に手を差し出したままの姿勢で、ディートハルトは続ける。
「貴女の気高さを尊敬します。こんな目にあっても、庭師や辻馬車の御者、従者にすら心を砕く、最もあるべき貴族の姿勢を貫く貴女を尊敬します。だから、あなたにぜひとも我が家に滞在していただきたい」
 今度こそ、コルネリアは言葉を失った。なんて、ひどい誤解だろう。自分は、そんなたいそうな人間ではない。
「……いいえ、だって、それは、違います。だって、わたしは、当然のことすら、成せておりません」
 庭師の仕事ぶりは、前庭を窺い見るだけで分かることだし、辻馬車を返さなければいけないのは自分にできるせめてのことだし、従者は、ずっと、ずっと情けない主人に一心に仕えてくれていた。どれも、コルネリアが尊敬することことあれど、その反対はない。報いることすらできていない。
 それなのに、ディートハルトはくすくすと笑うだけだ。
「きっと、主人に恵まれた従者殿が聞いたら違う答えが返ってくることでしょう。さあ、傷まみれでよろしければ、この手を取っていただけませんか」
 きゅ、とコルネリアは唇を噛み締めた。そんなわけにはいかない、と言いたかった。けれども、コルネリアは一人ではない。恩を返さねばいけない相手がいる。
 彼女は顔を上げ、まっすぐにディートハルトを見下ろした。箱馬車を切りつけるように陽が差していた。
「わたしの手も、一夜で随分と汚れてしまいました。許していただけますか」
 そう言って、そっと、震える手を重ねた。手袋はない。屋敷からの秘密路を通り、教会の地下階層を歩き続けた半ばでなくしてしまった。
「私の趣味は庭いじりなんです。それに比べたらどうということもないですよ」
 ぐい、と手を引かれてコルネリアは体勢を崩した。落ちそうになった彼女を、ディートハルトが受け止める。
「……泣いてもいらっしゃらないのでしょう。もう、堪えなくても良いのではありませんか」
 耳朶を震わすやわらかい声に、涙腺が一気に緩んだ。視界が潤んで、泣いてしまいそうになる。目の端が熱い。お父様、とよわい声がこぼれそうになった。
 けれども、コルネリアはそのどれもしなかった。そっとディートハルトから離れて、こくりと唾を呑み込む。なるべく平静を装った声で言う。
「いいえ、まだ、できません。ここは、外ですから」
 ディートハルトは瞬いてから、また、眩しそうに微苦笑した。
「やはり、貴女は皇帝もたじろぐほど、誰よりも貴族らしい方ですね」
 導くように握られた手を控えめに握り返して、コルネリアは無言で首を横に振った。
「さあ、行きましょう。貴女の従者殿も、きっと待っていらっしゃいますよ」
 手を引かれて歩き出しながら、コルネリアはふと空を見上げた。鳶は未だ旋回を続けている。喉を苦しめた感情を吐き出すには早過ぎる。だから彼女はあふれだしそうなそれを胸に押し込めて、ほんのわずかに目を細めた。
 鳶が滑空する。
 もう、戻れない。
 





春は未だ遠く
(それでも、あなたの手を信じた日)



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