夏 と 吐 息




 三次さんは無口なひとだ。義姉さんの従兄弟で、わたしよりひとつ年上の、高校二年生。なのだという。それにしては、なんというか、そう――覇気が足りない、と思う。
 白いコテージの、海側に出っ張った白木のベランダで、今、わたしはそんな男のひとと、午後のお茶なんぞを楽しんでいる。
 優雅だ。
 少し、気まずいぐらいに。
 三次さんはぼんやり黙ったまま、ぼんやり海を眺めている。義姉さんが用意してくれた紅茶はもう湯気もない。わたしはなんともいえない心地で、気を紛らわすようにひとくち、ふたくち、華奢なティーカップに口をつける。ああ、うっかり取り落として割ってしまいそうで怖い。とっても怖い。
 ちらり、と唯一の同席者を見やる。視線は合わない。
 わたしの肩が落ちる。
 三次さんとわたしの関係は、少し複雑だ。
 まず、わたしと義姉さんは、夫の妹、兄の妻、という関係だ。兄さんと義姉さんが式をあげたのは、ほんの数週間前のことである。とは言っても、兄の彼女であった頃より、結婚の準備を進める間などなど、関わる機会はむしろ兄よりあったので、義姉さんとの仲は長い。
 そして、兄さんとわたしは、再婚相手の連れ子同士なのである。ここのところが、とくに面倒臭い。母の息子が兄であり、父の娘がわたしだった。まるで家庭科の教科書の再婚例のように、ありがちな関係図だ。これを説明しなければいけないとき、わたしはいつもげんなりする。
 それはさておき、わたしと三次さんは、間接的ないとこ――と言える、のだろうか? 分からなくなってきたけれど、そうであったとしても、つまるところ、顔を合わせたのは兄さんたちの結婚式が初めてだったのである。
 だから、そう、言葉を交わしにくいのも、ぎくしゃくするのも、どうにも戸惑ってしまうのも、まあ、仕方ない。
 仕方ない、けれど、しかし、あんまりにも会話がない。
 無言だ。
 いや沈黙だ。
 困る。
 そう思っても、石のように固まってしまって、わたしも何も言えずにいるのだけれど。
 だけど、このコテージに連れてこられて数日、いちおう、顔を合わせて生活しているのである。普段はもう少し、会話というものがあった、はずだ。朝でくわせば、おはようぐらい言うし、夕食の時間は、そこのしょうゆを取ってくださいとか、お箸お願いしますだとか、……いちおう、会話は成立している。
 それがどうして今、こんなに、逆に耳が痛くなるくらいの沈黙が続いているのか。おかげで沈黙は白いのだということを知った。
 と、三次さんが振り向く。
 骨張ったなめらかな白さを誇る――誇る?――長いゆびが伸びる。
 小さな籠に積まれたマドレーヌをひとつ摘む。
 食べる。
 わずかに傾いた頭のつむじの形が、よく見えた。
 そしてようやく、彼は紅茶に口をつけた。
「……」
 どっ……と大粒の汗がふきだした、気がした。どうやら今、わたしはとても緊張しているらしい。
 なぜ、こんな、どう遠慮しい言い方をしても他人同然のふたりが、同じコテージにいるのかといえば、すべて兄さんのせいである。
 わたしの兄さんは、今年で二十六歳になる。社会人だ。わたしたちの父母はわりと年の差夫婦だ。いやそういうことではなく。
 社会人であるはずの兄は、二年前から小説家である。一年前、そろそろ新人とは言えないかな、という頃合いを過ぎ、少しの不評を終え、大ベストセラーなどではないものの、それなりのヒット作を出した。めでたいことである。
 そんなめでたい兄は数日前、筆の進まなさにぶち切れた担当さんによって、カンヅメを命じられた。
 近くのホテルにでも行けばいいというのに、そこで夫婦旅行を企てるところが兄である。
 その兄の監視のため、道連れ――つまり自分以外の同行者を増やしたのが、義姉だった。
 わたしと三次さんは、そういう、そう、犠牲者同士なのである。
 いや、というより、兄の背を蹴るには妹が上手い、というより容赦なくてよい、というところを知っている義姉が、遠慮するだろうわたしを引っ張り出す口実に「うちの従兄弟も呼ぶから! バカンスだと思って!」と連れてこられたのが、彼なのだ。もしかすると、三次さんがこのベランダでたいそう暇そうに貴重な時間を食いつぶすことになった直接的な原因は、わたしなのだろうか。
 ……ああ、さらに気が重くなってきた。
 ふたつめの菓子に手を出す相手と反対に、どんどん食欲をなくしていくと、その彼がふと視線をあげた。
 目が合う。
 今日、はじめて、である。
 こんなに長い時間一緒にいて、はじめて、だ!
「香苗さん」
 思わずあんぐりと口を開けてしまったわたしの名前を、これまたはじめて、三次さんが呼んだ。
 青天の霹靂。
 とは、こういう気持ちのときに、使うのだろうか。
「食べないんですか」
 ひとの眼玉とは透明にかがやくのだなあ、とそんなばかなことを思っていたわたしは、うっかり、せっかくのお言葉に反応しそびれた。
「……あ」
 冷や汗、再び。
 ごくり、と唾を呑んで、再挑戦。
「た、食べ、ます」
(――――よし!)
 多少ぎこちないが、返事できた。返事をできたというだけのことにこれほど安堵を覚えるばかばかしさについては、考えてはいけない。
 いきおい身をのりだしたわたしに向かって、あっそう、というように彼は頷いた。わたしは今の言葉を事実にすべく、菓子籠に手を伸ばし、彷徨わせる。さて、何を食べよう。
「……えっと、では、いただきます」
 抹茶のフィナンシェを選んで、さくりと噛み割る。美味しい。むぐむぐと咀嚼に集中してしまい、また沈黙が落ちたことに、呑み込みながらわたしは大いに慌てた。なぜだ。食事と会話は相性抜群のはずなのに。
「……あ、あの」
 話しかけて、そのさきがとくに出てこない。
「……」
 気まずい!
 視線を感じる。
 とても訝しげだ。それはそうだ。用はなんだと言いたいところだろう。
「……、…………な、なんでも……」
「香苗さん」
 なんでもないです、と負けかけたわたしの言葉を遮り、何か考えるような顔で、三次さんが呟いた。首を傾げられる。
「具合、悪いんですか」
「……え?」
「……さっきから、様子が」
「あ……えっと、だ、だいじょうぶ、です! 三次さんはっ」
「はい」
「お、お元気ですか!」
 一瞬の沈黙。いや静寂。
「……はい。元気です」
 表情の読めない声だった。
(しまった――――っ!)
 だらだらだらだら、と冷や汗が増量する。お元気ですかって何を聞いているんだ自分は。手紙じゃないんだから。
 あー、うー、と視線をぐるぐる泳がせていると、三次さんはなんだか拍子抜けしたような顔で瞬き、それから、ふっと微笑んだ。
 わたしは驚いた。今までの一連の動揺より、もっと自然に、もっとたやすく、もっとごくありふれた感覚で驚き、うろたえた。
 三次さんは、笑うと普段より優しい印象になるようだった。親しみやすさと、落ち着いた穏やかさを感じる。覇気がない、などと少々やつあたり気味な感想を抱いていたさきほどまでの私を殴ってやりたい――いや、そもそも失礼だったのだけど。
 海辺から押し寄せるやわらかな風に、今更気づく。海猫がみゃあみゃあと鳴く声。山の方をとんびが飛んでいる。潮の匂いが鼻先をくすぐり、乾いた暑さにつうと汗のつたう頬。雲の動きで陽が遮られ、濃い影が降りてはまたひかりにめくられていく。
 夏だ。
 夏なのだ。
 唐突にそう思った。
「暑くないですか」
 これも唐突に三次さんが言った。
 はい、と頷く。それを受けて、三次さんもひとつ頷く。
「やっぱり、咲子姉は、考え無しだ」
 ぼやくようなひと言。咲子、とは義姉さんの名前だ。思わぬ攻撃的な批評に目を丸くする。
「……えっと。なぜ?」
「夏にクーラーもないベランダで、真ん前に海を見つつ紅茶は、暑い」
 すごく、と低く付け加えられる。それはまあ、確かにそうだ。もしかしてそれでずっと無言だったのだろうか。このひとは、あまり喋らないひとだと思い込んでいたけれど。
「中に入りましょう」
「あ、え、でも」
「どうせ、咲子姉もそろそろ、香苗さんの手を借りたがってます」
「あ、……兄さん」
 どうやらいとこ殿にも、兄の性格は把握され始めているようだ。情けない。恥ずかしくなってきた。身内の恥はおのれの恥。
 さっさと立ち上がって片付けをする三次さんを手伝い、籠とティーポッドを持つ。三次さんはというと、危うげにティーカップとソーサーを片手にがらがらと硝子戸を開け、さきに一足入り、無造作に手を差し出してきた。
 きょとん、と見上げる。意図が掴めない。
「ん」
 ひょい、と軽く手を振られて、やっと理解する。
 わたしは反射的に手を重ねてしまった。
 引っ張られる。
「わ、」
 段差を乗り越える瞬間、よろけてつんのめったわたしににんまりと笑った三次さんの顔を、わたしはかなり長い間、忘れられなかった。
 今も、目を奪われる。
 それから彼は真顔になり、じっとわたしの様子を眺め――そう、海を観ていたときよりもはるかに読めない表情で眺め、何か違う緊張感に襲われるわたしにこれまた何か違う沈黙を与えたのち、なにごとかに納得したよう、うん、と頷いた。彼はよく頷く。ひとつ、彼について今日知れたことだ。
 三次さんは、ぽつりと呟いた。
「……香苗さんは、面白い」
 ふしぎで、と。
 それこそフシギな態度で三次さんが言うので、唐突さのあまり、わたしは反論する言葉を失った。
 



「――――なんって失礼な! と、あのとき思ったんですよ」
 だいぶ今更ながらの苦言を呈すと、ふうん、と気のない相槌が返ってくる。その目は窓の外でころころ転がっているでぶなポメラニアンを興味深さそうに見つめていて、こちらを向く様子はない。欠片もない。わたしは少し腹を立てた。こんなことはいつものことだ。慣れているので、もうおろおろしたりはしない。だが、慣れると、ちょっと腹立たしい。
 むう、とむくれて唇を尖らせる。三次さんはポメラニアンの行動に夢中だ。気づかない。
「でも、あのときわたしは、三次さんに遠慮していたので、何も言えなかったんです」
 それで、とわたしは声も尖らせた。
「あのあと、義姉さんはにやにやしてるし、にやにやしながらも兄さんを何とかするよう急かしてくるし、兄さんは全然仕事進んでないし、夕食は変な空気だし、」
 ひとつひとつ思い出して、聞いていないのをいいことに、べつに三次さんのせいでもないことをさも三次さんのせいのようにあげつらう。
「あれから三次さんはひとのことを珍奇な希少生物みたいに観察してくるし、何か言いたげにしたかと思えば失礼なことばかり言うし、あのときの口数はなんだったのかってくらい無言度上がるし、」
「……違う」
 べらべらと喋っていたら、ぼそりと三次さんが何かを否定した。違う? 何がだろう。三次さんはこちらを向かないまま、続ける。
「香苗さんは、遠慮していたんじゃなくて、びっくりして何も言えなかっただけ」
「…………って、そんな前の話題ですか!」
 びっくりは今の方だ。
 呆れのあまり、脱力してしまう。と、三次さんが立ち上がり、のっそりとこちらに寄ってくる。あんなに熱心にポメラニアンを凝視していたとは思えないほど、あっさりとわたしを見た。
 どきりとする。
 背の高い三次さんが少し身を屈め、わたしの顔と距離を縮める。白くて骨張って血管の色すら見えそうな手が、羽根のようにあわくわたしの髪を撫ぜる。
 視線。
 ふしぎなものを見るような目。
「……香苗さんは、」
 やっぱり覇気のない声だ。わたしの最初の見解は間違っていなかった。
「そんなに失礼だと思った男と、なんで一緒にいるの」
 でも、チョコレートがとけるように甘く耳に届く。それを心地良い、と思ってしまうから、わたしはきっともう駄目なんだろう。
 一歩。
 わたしはわたしから距離を縮めた。
「だと思った、じゃなくて、間違いなく失礼だった、んです」
「……そう?」
「そう! です!」
 そこは譲れない、と語調を強くすると、不可解そうにされた。まったく失礼な。わたしはちらりと窓辺を見て、その穏やかな庭の様子に目を細める。そこでは締め切り明けの兄と義姉が、のどかに隣り合っていた。寄り添う姿はあまりに自然で、それが少し羨ましい。
 やっぱり家庭科の教科書の例のように、理想的な家族の景色。
「……三次さんはとっても失礼ですけど」
「うん」
「でも、わたしは、残念ながら、三次さんを好きなので」
 へえ、とまた気のない返事。
 腹立たしい。
 もうちょっと、構ってくれたっていいのに。
「……理想的じゃないですけど、だから、仕方ないんです」
 三次さんと一緒にいるんです。
 ふてくされたような声になってしまったけれど、まあ、三次さんは気にしないだろう。マイペースなひとだし。
 思った通り、それほど気にした様子もなく、むしろどちらかというと――そう、嬉しそうに、彼は、ふうん、と頷いた。
 額がこすれあう。くすぐったくて、目をしばたたいた。
「……じゃあ、仕方ないね、香苗さん」
 俺も香苗さんが好きだから、
 一生一緒にいないとね。
 あの日の海猫の鳴き声みたいに暢気で含むところがまるでない。わたしはそんな三次さんにやっぱり呆れ返りながら、
「望むところです」
 そうっと彼の背中に腕を回した。
 ふかく、息をつく。
 鼓動がはやくなる。
 春の日差しを感じながら、目を閉じる。

 でも、三次さんは、夏の匂いがした。




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