はじめまして、おじさん。
 少女は囁いた。
 春の雨みたいな声だった。







あるありふれた春の朝、通り雨








 バーナード・オーウェンはまだ朝の早い時刻、露に濡れた青い花がつぼみをほどくほんの二分前に駅に着いていた。約束よりゆうに二十分は早かったので、あたたかいコーヒーを買い、駅中のベンチに腰掛けた。オールドフォーリース駅は彼の幼い頃よりずいぶんと傷やら落書きやら幾分の野暮ったさを増し、長く使い続けた皮財布のような様相を醸していた。駅舎の硝子窓の向こうからしだれる蔓が小さな薔薇を咲かせている。なんだかけだるげで、おしゃまな女の子が拗ねたみたいだった。彼はコートのポケットに突っ込んでいた小説を取り出し、ちらちらと出入り口を気にしながら読み出した。あまり集中はできなかった。しかし、数分もすれば彼の意識は紙の上の殺人事件に夢中になり、外界については全く頓着しなくなった。だから、しばらくは雨が降ってきたことに気づかなかったのだ。それは春の雨らしい、穏やかな小雨で、ぱらぱら粉砂糖を蒔くみたいにまばらに降った。薔薇の蔓はすっかり雨に濡れ、身じろぐように震え、ときに弱々しく雫を弾く。彼は少し眉をひそめた。彼は傘を持っていなかった。おそらく、待人も持ってはこないだろう。列車に乗っている間に止めばいいのだが。彼は数秒の間気難しげな顔をしていたが、すぐに、自然現象などに頭を悩ませても仕方なかろう、と生来の飽き性ぶりを発揮してまた小説に戻った。ぱらり、と紙をめくる音がおとなしげな雨音に紛れる。予定よりひとつ前の列車がやってきて、早起きの――いや、早起きを強いられた――人々をどっと吐き出した。一瞬で駅舎は喧噪に溢れ、雑踏が起こり、がやがやと忙しげな話し声と駅員の指示する声とが怒鳴り合うように混ざった。ちょっとどうかと思うくらいに騒々しかった。彼は人々の目から逃れるように俯き、のめり込む体勢で字を追った。ところどころ黒くつぶれた文字に目を細めつつ、懐中時計を出して時刻を確認する。約束の七分前だった。なんとなく気が重くなった。溜息を押し殺している間に周囲の人々が揃って慌ただしく駅舎を去り、あたりは再び静けさを手に入れた。ほっとして、飲みかけのもうかなり冷めたコーヒーを飲みきる。さあさあと降っていた雨はそろりと波を引き、きらきらと朝の空気をひからせて止む兆しを見せた。おや、と彼は機嫌を良くし、外の方へ目をやった。そして、息を詰める。
 ああ、とやわらかな嘆息がこぼれ落ち、彼は目を細めた。逆光で白む駅舎の入り口、その光から溶け出すようにして、彼の姉によく似たこどもが立っていた。鞄の取っ手をきつく握りしめ、ひどく緊張した様子で、躊躇いを捨て切れぬらしい、いまだあと一歩を踏み出せずにいる。バーナード・オーウェンは小説をポケットに押し込み、ついでに突っ込みそうになった両手をなんとかこらえて、ゆっくりとそのこどもに歩み寄った。近付くと、その面差しがあらわになる。雰囲気だけでなく、顔の造作まで姉に似ているものだから、彼はなんだかおかしくなってしまった。ちいさな姉が立っているみたいだった。ひとつ深呼吸をして、聞いていた通りの彼女の名を呼ぶ。おそらく、はじめてのことだった。彼女がおそるおそる顔をあげた。どうやら、名前を間違えてはいなかったらしい。そのことにとんでもなく安心してしまい、彼は近年稀なほど穏やかに微笑んだ。そして少し驚く。
 そのこどもは、おそらく自分では気づいていないのだろう。ちゃんと彼と会えたというのに、まるでたった今迷子の子のように宝石みたいな蜂蜜色の目から、一粒透明な雫がおさない頬をすべり落ちた。






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