常闇は過たず明けゆく。
 もう数刻すれば、朝が訪れる。絢爛な夜は終わり、世界はしんと静まり返って、足許は水のように暗い。オニキスのような光沢をもったピアノは、しかしよくよく見ると、覆いを取り払った屋根の上に、微かに埃が積もっていた。照明を当てれば、細かに舞う粒子が見えることだろう。軟らかなネルの布でていねいに拭き、畳んでおいた長方形の布を取る。鍵盤の形に合わされたそれを広げれば、白と黒の歯を取りこぼしなく覆ってくれる。数秒の黙考ののち、彼は少し微笑んだ。もの憂い色は頬からすべり落ち、代わりに浮かんだ安らかな笑みは、見るものの心を仄かにざわめかせる。酔いつぶれた客達の寝息が音楽のよう。宮廷より俗っぽい音楽だ。そう、たとえば、自分が奏でる愛の曲より。
 椅子の背もたれにこつんと肩をつけ、細い息を吐く。灯りは途絶え、火はない。夜長の寒さが扉の隙間から入り込み、火照りをたしなめるように冷やしていく。夜中弾き続けたせいで、腕がだいぶ疲れている。だらんと落ちた腕をそのまま、丸い天井に描かれた建国画を何とはなしに見つめる。神に跪く英雄王、迫りくる悪魔を払う戦女神、天使は慈愛の眼差しを民草へ向ける。まったく、堕落の宴になんと相応しくない神々しさ。
 ああ、冷たさが気持ち良い。
 輝かしき夜会、熱狂の夜。飛び交う睦言は一夜で消え、肌を灼く熱は夜明けに冷めて、人々を飾る華やかな衣装はすでに乱れて見る影もない。彼の音楽に恍惚とした表情も、今は静かな寝顔。幾百の夜を騒ぎ暮らし、湯水のように金を遣い、ためらいなく淫蕩にふける、それでいて朝は高潔気取りの貴族たち。彼らのために奏でる曲は、いつだって耳には残らない。つまるところ彼らの望む音楽とは、踊り狂うに適切で、その一瞬の高揚を得られたならば、それでいいのだろう。愚かしいことだ。しかし、彼はこの愚かしく馬鹿馬鹿しい世界が、嫌いではなかった。甘ったるい旋律も、高慢に傲慢に吐き出される賛辞も、生存しない音楽も。宗教曲よりもずっと、胸が踊る。教会で厳かにうたわれる音楽にだって、もちろんこの心は動くけれど、けれどもより貪欲に、より淫蕩に、激しく甘い熱が欲しい。夜を明かすほど奏で続けることこそ最も彼の望むところ。望んでもらえるなら、いつまでだって、どんな音楽だって提供しよう。
「フィヒター」
 酩酊を断つ声が、酔いのかけらもなく彼を呼んだ。瞬きをして振り返ると、銀盤に水を落とすような、あの美しい声の通りの、凛と清廉な雰囲気を持つ女が近寄ってきていた。
「シャルリーヌ嬢。珍しいですね、まだいらしたのか」
 彼と違い、夜会嫌いの潔癖な少女が、このような時刻まで居残っているのは、けっこうな珍事である。思わずつぶやいてしまったが、言い方が悪かったらしい、彼女はむっと眉を寄せた。
「いない方が良かったような言い草です」
「い、いえ、そのようなつもりは……すみません。驚いたものですから」
 冷たい響きにたじろぎ、つっかえながら弁明すると、いちおうはそれで納得してくれたらしかった。仕方ない、とでも言いたげに肩を竦める仕草が、彼女の近寄り難い印象を和らげる。
 シャルリーヌは汚れのない手袋を外し、ピアノの蓋に触れた。やさしく撫でる手首が月光のように白い。無言は音を呑み込む雪と同じだ。彼は思った。痛いほどの沈黙。静かな夜明け前。こういう時は、静かな曲を弾きたい。短調らしからぬ短調で、華やかではないけれど、落ち着いた、いたわりを孕む曲。幾つかの曲名を頭に思い浮かべながら、彼はじっと少女の動きを見守った。いったい何がしたいのだろう。というか、ピアノの素手で。折角拭いたのに指紋がつく。
 少女は、清らかな顔をしていた。社交界の毒をも拒み、言葉少なに佇む彼女の傍ばかりは、いつだって清冽な空気に満ちる。やがて薔薇の花弁のような唇がゆっくりと押し明けられた。窓辺から、淡い光が落ちてくる。月光。
「わたし」
 銀の睫毛がはためく。
「あなたのピアノ、好きよ」
 透き通る青の瞳は、こちらを見もしない。
 彼は少女を見上げた。彼女の意図が読めなかった。
 ただ、とても嬉しいことを言われた、と思う。じんと脳髄の痺れる感覚が起きた。酔いが回ったときのように視界が揺れ、世界は微かに幸福な色を振りまいた。
 シャルリーヌがようやく、視線を向けてきた。
「今日は、あなたのピアノを聞きにきたのです。あなたは最近、教会にはいないから」
「……シャルリーヌ、何かあったのですか」
 思わず訊ねた。彼女の声に、どこか切実なものを感じたから。
 そういえば、彼女の家は今、少しごたついていると聞いた気がする。真摯で真面目な彼女の一族はこの怠惰な宮廷の様相に不満があるらしい。そんなようなことを思い出した。まあ、さもありなん、というところである。腐敗甚だしいのは、雇われの奏者である自分にも感ぜられた。近々、王に進言をする心算なのやもしれぬ。
 シャルリーヌはいっとき目を伏せ、しかしすぐに開いた。いいえ、と彼女は首を振った。そして、強い目で彼を射抜く。
「いいえ、何も」
 それでもう、彼は何も言えなくなった。そもそも口のうまい方ではない、ピアノを弾くしか能のない自分が、何を言えたというのか。所在なくうなじの上を掻いて、少女から視線を逸らす。すると、小さな吐息が、ごく近くで聞こえた。知らず、どきりとする。
「一曲、お願いしても?」
 彼は深く考えずに首肯してから、はたとまわりを見回した。今弾くと、他のものたちを起こしてしまうかもしれない。彼のその考えを見透かすように彼女は声なく笑い、だいじょうぶ、と囁いた。ぐっすり酔いつぶれていらっしゃるから、ちょっとやそっとの音では目を覚まさないでしょう、と。しかし音楽とは元来、激しいものである。なぜなら、いと高き天におわす神々に捧ぐためのものだったのだから。けれども彼女はおのれの発言を覆すつもりはないらしい。ピアノを見つめたまま、微かな声で求めた。
「カズヌーヴの夜想曲一番を」
 はっ、とした。
 それは、彼の善き友、エマニュエル・カズヌーヴの曲だった。故郷を出て、この異国の地を踏んではじめて得た、心優しく大らかで、けれどその心を病むほど繊細だった友人。夜闇の立ちこめる外との間を隔てる、薔薇の飾り細工をほどこされた窓に視線をやる。今にも、いやあ遅刻した遅刻した、と気まずさも見せずにやってくるのではないかと、そんな幻想を抱いた。そんなことはあるはずもないのに。母国の響きとよく似た名に親近感を覚え、つきまとわれる鬱陶しさにも慣れて、素直に彼を友と思えた。エマニュエルの作る曲はどれも、本人とは似ても似つかぬ弱々しさと寂寞を持ち、どこか冬に吐く息のように哀しげだった。けれどもきっと、今にしても思えば、それがあの男の本質だったのだろう。曲に作者の影を探すのは、不毛に過ぎることやもしれぬが。いや、そんな感傷はともかく、彼の曲は、その通りであるからあまり知られてはいなかった。まさか、夜会嫌いのシャルリーヌが知っているとは。そう驚いた彼は、ふと気づいた。シャルリーヌ。彼女は、シャルリーヌ・フランセット・パダンテール。異国の王族に嫁いだ姉を持つ少女。高潔なるシャルリーヌ。
 ほんのいっとき、息が詰まった。さきほど褒められたときより、はるかに心を揺さぶる喜びが胸を襲った。同時にわき起こる、何とたとえようもない感情には目を瞑り。
 エマニュエル。我が友。きみの曲は、確かに残った。
 唇を、噛み締める。息を吐く。
 窓の外では、綿のような雪が降っていた。
「ウィ、マドモアゼル。本日の締めとして、心を込めて弾かせていただきます」
 エマニュエル・カズヌーヴ、夜想曲一番嬰ホ短調。
 ――我が太陽、ソレンヌ・パダンテールに捧ぐ。
 手書きの汚い譜面の端に書かれた言葉を思い出して、フィヒターは雪のように白い鍵盤に両手の五指を降ろした。ひととき離れて熱の引いた鍵は、ひんやりと心地良い。
 瞑目する。
 はじまりはピアニッシモ。八分音符がまばらに散らばる旋律は、ひどく弱々しく、繊細で、哀しい溜息のよう。けれど紡がれゆけば、震えるほどに甘いノクチュルヌ。去りゆく女を惜しむ、だというのに決して引き止めはしない、そのうつくしい音。
 永遠の別れの夜。
 二年前の今日に逝った友の曲を、彼が弾くのは実に二年ぶりのことだった。一音も間違えはしなかった。閉じたまぶたに浮かぶのは、ただ笑みを交わすふたりの男女。そこはおそらく俗世と離れ、淫蕩を知らず、夢を往くと違わぬ、完璧に幸福な世界だったのだと、彼は――そして、シャルリーヌも、思っている。けれど汚れ知らぬ世界などないことを、当のふたりがいちばんよく知っていたのだろう。さようなら、お姉様。シャルリーヌがつぶやく声がした。
 祈りと哀惜の丈を込めた音が、雪すら呑み込む闇に溶けていく。
 もう来ない夜のために。






アウト・オブ・ノクターン
 ( 夜を惜しむ )







 八日後、パダンテール家は浪費と放蕩の限りを尽くす王家に対し、反逆の狼煙をあげた。
 オスヴァルト・フィヒターは小さな教会で箱形ピアノを弾きながら、ああこのことだったのか、と少女の憂いの意味を知ったのだ。


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