少女、あるいは微睡む小鳥







 リシュリュー。わたしは呼びかける。リシュリュー。
 わたしのうつくしいひと。



















 リシュリューは静かに微笑んだ。
 わたしは瞼を何度か開け、何度か閉じた。部屋の窓が開いている。白い壁に陽が落ちていた。もうすぐ夜になるところだ。さきほどまで、彼は本を読んでいたらしかった。その組んだ足に立てかけられた分厚い本の頁が、微風に揺れ動いた。頁の端を指で押さえ、しかし彼の視線は、えんえんと続くような文字ではなく、開け放たれた窓の外に向く。唇に刻まれた笑みを見つめながら、何を見ているの、とわたしは尋ねた。星を、とリシュリューは言った。星を見ている。わたしは瞬きをして、視線を同じくさせた。けれども視界に映る空は、ローズピンクと紫色をした雲が淡くたなびき、黄昏の朱色が溶けるばかりで、夜空を彩る星など見えない。まだ、夜ではない。リシュリューはわたしの気持ちを見透かしたみたいに僅かな動作で首を振った。そうだね。まだ、星は見えない。でも確かに、あの空にはあるから、それを探している。砂糖とバターをたっぷり使ったパイのように甘い、心臓を幸福に締め上げる声だと、わたしはまったく関係ないことを思った。しかし彼の猛毒よりも甘く、無垢な優しさを錯覚させる声は確実にわたしの脳に浸透し、奇妙な疼きを与えた。かくも罪深い感情を植えつけてくるその男は、もうわたしのことなど気にも留めていない。灰色の絨毯に薄い影を伸ばして、ただ、じっと星を探している。








 夜のことだった。うつくしい銀の滝が、わたしの顔のまわりに落ちていた。それはリシュリューの髪だった。男のくせに、妬ましさも忘れるほど艶のある、極上の髪を彼は持っている。いつもはうなじで軽く結んでいるのに、寝る前だからか解いていた。星の川のようだった。しかし、なぜ彼はわたしを覗き込んでいるのだろう。寝ぼけた頭で、ぼんやりと疑問に思う。さらに顔が近づく。まったく、なんてきめ細かく、なめらかな肌をしているのか。そんなことを軽く腹立たしく感じながら、つい魅入られたように鑑賞する。リシュリューのひたいがわたしのそれにこつんと当たった。それから、鼻先が擦れ合う。わたしは微かに驚いた。角度が変わり、唇が、彼の唇が、あとほんの紙切れ一枚ぶんほどの距離をもって、近づいた。触れる。そう直感したと同時に、彼は止まった。リーシュ、とわたしは半ば反射的に、本能的に、酸素を求めるように呼ばわった。リーシュ。するとリシュリューの微笑の気配が生まれる。結局、彼の唇は、わたしの口端のほど近く、頬の下に羽根のように触れるだけだった。







 朝、わたしはリシュリューの寝所へと、ベーコン入りのオムレツと三角に切ったオレンジと薄切りのレモンのプレートを持って侵入する。あらゆるところに光の粒をまとう美貌の彼は、あまり寝起きがよくない。首筋におはようのキスをして、よく伸びるほっぺたを引っ張る。それでようやく、リシュリューは瞬きをする。でも、起きない。わたしはしばらく彼の寝台に腰掛けたまま、じいっと寝顔を眺める。五秒ほど待ってから、おもむろに身を寄せ、彼の耳元にこう囁く。――起きないと、レモンを両目の上でしぼるわ。実際、起きなかったら本当にしぼるつもりでいるので、それが伝わるのか、防衛本能が働くのか、はたしてその両方か、彼はやっと目を覚ます。飛び起きる。彼の目は大事なものなのだ。白い寝衣の上から二番目までの釦が外れているから、直してやる。とはいえ、すぐ着替えるのだろうから、無駄なことでもあるのだけれど。リリュシューはまだ意識のはっきりしていないぼやついた顔をわたしに向け、それからプレートに向ける。ああ、と彼は頷く。やわらかい、赤子よりも素直な笑みが広がる。そうか、朝食の時間だね。リシュリューが言うので、わたしはそうよと真面目に首肯する。ごはんよ、だから食べなくちゃ。お腹が空いてしまうわ。リシュリューは寝癖のついた銀の髪を一梳きし、わたしの頭を優しく引き寄せた。とても当たり前の仕草で、こめかみにキスを与えられる。一瞬の抱擁が終わると、わたしたちは一度目を合わせ、ごくふつうにオムレツにフォークをいれる。せっかくきれいに焼けた黄色い卵は、けれど残念ながら冷めてしまっていた。リシュリューは幸福の象徴のような顔で、美味しい、と呟いた。








 リディアランの祝祭がやってくる。わたしたちは二日目、屋台が賑わう通りまで繰り出した。果物に飴をかけた菓子を舐めながら、花賭博を行う人々の奮闘ぶりを見物し、白罅角牛の装い者が率いる、祭の行列に混じって歌い合い、夕焼けの前の時刻にはじまる輪舞を踊って、身体が火照った頃に抜け出す。人いきれに双方を見失いそうになるものだから、リシュリューは手を繋いでくれた。しげしげと彼に不似合いな大きな手を見つめる。でも、あんがい相応しい気もした。陽の落ち切った空は星が輝いている。わたしは隣を見た。リシュリューは首を傾げて微笑む。彼は、この満天の星を見上げない。リーシュ、星は見ないの。そう言いかけたけれど、それは音にならず、わたしは口ごもった。そして、再度、繋いだ手に目をやる。リーシュってば、簡単に女の子の手を繋ぐのねえ。代わりに出たのは空っぽなからかいの言葉だった。リシュリューはとくに気を悪くすることもなく、しかしどことなくわざとらしく、そうだよ、と鼻歌を歌う調子で言った。僕は女の子が好きだからね。何とも彼らしくない台詞だ。それに、リシュリューはわたしに好きだなんて、それが親愛の意味としてでも、言ってくれたことはないのだ。少し、腹立たしいことに。







 鬱屈した暑さと豪雨の降る季節は、いつも不思議な気持ちになる。普段は暑いのに、雨が降れば、吐いた息は白く、心が微かにさざなみ立つ。緑陰が暗く染まる午後、近くの喫茶店で雨宿りをしながら、わたしは小説を読んでいた。今日は、リシュリューがひとりで出掛ける日で、神殿に顔を出さなくてはいけない日なのだった。だから、わたしはひとり。雨はこの季節にしては大人しく、さわさわと降っていた。常緑樹の大きな葉から、透明な雫がしたたり落ちる。幾度も、幾度も。わたしは半分ほど中身のなくなっているグラスに口をつけた。南の国からきたという、いくらかの木の実と香辛料を使ったお茶は、蜂蜜を入れないと酸っぱい。小説を閉じる。三つ四つばかりの短編が入った薄い本だったのだけれど、なんだか暗く救われない話で、今は読み続ける気になれなかった。哀しい話を読むときは、リシュリューが部屋にいて、わたしが部屋にいないときがいい。哀しみに負けそうになったとき、走り出せばすぐリシュリューに逢えるのだと思えば、目を塞がずに済むだろうから。なかなか弱まらない雨足を見るにつけ、わたしは、諦めて帰ろうか、と考えた。つまり、ここであのひとの帰りを、忠犬のように待つことを。でも、わたしのその逡巡は無駄に終わった。俯きかけたところに、黒い影が射したのだ。顔をあげれば、少し濡れたリシュリューが立っていた。絹よりもうつくしい光沢を持った銀の髪から雫がつたう。見つけた。彼はやけに嬉しそうに言った。予想していたより早く、彼は出てきていたようだ。それにしても、わたしはこの場所を告げていなかったし、待っているとも言っていなかったのに、なぜ。リシュリューはわたしの顔に浮かんでいたであろう疑問はさらりと無視し、にっこりとねだる。さあ、何か喋って。僕は、きみの声をきいていると、とっても良い気分になるんだ。その勝手な要求にちょっと呆れたけれど、いいわよ、とわたしは言った。いいですわよ、リシュリューさま。さっき読んだ小説の話をするわ。偉そうなわたしの声には、僅かな安堵が含まれていることに、彼はたぶん気づいていた。でも構わないだろう。だってわたしはいつだって、許される限りこのひとのそばでさえずっていたいのだから。








 足音を立てずに、窓の下の長椅子に横たわるリシュリューに近づく。彼は珍しく眼鏡をかけて、何かの雑誌を読んでいる。中を覗くと、細かく小さい異国の文字がびっしりとはめ込まれた一角と美味しそうな食事の絵が載せてあった。どうやら料理の本のようだ。わたしはあからさまに顔をしかめた。彼は、料理が絶望的に下手なのだ。たぶん、そういう機能が欠如している。でもその自覚がないのか、無謀にも挑戦を繰り返す。努力するのは良いことだけれど、台所を大破させるのはやめてほしい。雑誌を上から取り上げる。彼は目を丸くして、わたしを見た。わたしは無言で彼の横腹に頭を擦りつける。リシュリューが静かな笑い声を立てた。雪を踏むようなささやかな音。わしゃわしゃと頭を撫でられる。その感触が気持ち良い。わたしはうっとりとした。リーシュ、とわたしは蕩ける思考を危ぶむこともせずに、おそろしいほど甘ったれた声を出した。うん。リシュリューが微笑む。その相槌は、どこか、困ったような、諦めたような色を孕んでいた。訝しく思って視線をあげたとき、リシュリューの長い指がわたしの頬を滑り、いつでも首をへし折れる位置へと移動し、そして銀の髪がすべり落ちた。おとがいを掴まれている、と気づいたのは、お互いの唇が合わさってからのことだった。一瞬の接触は、小指のさきほどの離別ののち、再び重なる。今度はより深く。全身がリシュリューの匂いに満たされる。そんな気がした。わたしたちはずいぶんとつたなく、何度も啄み合った。言葉もなく自白するように。







 久しぶりに外に出た。休日の公園では、風船売りや花氷を売る少女に子どもたちが群がり、それを遠目に見る大人たちがのどかな昼下がりを過ごしていた。黄色い花を咲かせる木々が、これでもかというほど枝を伸ばしている。わたしはといえば、いつになく狼狽えていて、落ち着きがなかった。なぜなら、妙に機嫌の良いリシュリューがわたしの手を、指のすべてを絡ませるようにして繋いでいたからだ。さらにときどき、何やら微熱めいた表情でわたしを観察し、満足そうに首を振る。ひとつ、空いているベンチがあったので、ふたりして座る。遠く正面で巻き煙草をふかしていた壮年の紳士が、にっこりと人の好い笑みを浮かべた。茶目っ気のある仕草で挨拶されたので、慌てて返す。その紳士の肩を、青い古風なドレスを着た女がはたいた。穏やかにくすくすと笑っている。なんとなく、幸せな光景だな、と思えた。絡まる指をそっと動かす。陽を浴びて気持ち良さそうに閉じられていたリシュリューの瞼が花開くように震えた。リシュリューの簡素なシャツはまたも第二釦が外れている。わたしは仕方ないなあとぼやきながら、片手で留めてやった。じっとわたしのつむじを見下ろしていた彼は、わたしが離れるとまた目を閉じた。このひとはなぜ、こんなに寝てばかりなのだろう。せっかく外に出たのだから、せめて景観でも楽しめば良いのに。もう昔と違って、行動を制限されているわけでも、外出を禁じられ、見張りを立てられ、眠れぬ夜を過ごしたわけでもあるまいに。まあ、そうは言っても、と考え直す。自由ゆえに、寝たいなら寝ればいいのだ。身じろぎひとつないリシュリューの前に立って、わたしはひっそりと彼の瞼にくちづけた。こんなに動いても、繋いだ手は剥がれない。








 神殿から急ぎの使いがきて、わたしたちの部屋の静穏は崩された。何やら難しい顔で話し合いが行われる。わたしは部屋の隅で膝を抱えて、美術館でもらった冊子を無言でめくっていた。でも、耳はずっと彼らの方を向いている。リシュリューに無理を言いにきたのだ、とわたしは思ってしまうのだけれど、そうせざるを得ないということなのかもしれない。わたしも、リシュリューも、人とは少し違う。でも、半分ほどはきちんと人なのだ。あなたたちの同類なのだ、と、そういう気持ちが湧くことに、我がことながら驚いた。ずっと、思いもしなかったことだった。どうやらわたしは、リシュリューといることで、だいぶ救われていたらしい。人間じみた思考を持てたことが、こんなときでも嬉しかった。皮肉ながら、神殿の人間によって、わたしが彼へと与えられなければ、わたしはよく分からないまま、無為にさえずっていたことだろう。そんなことは、一掃されたあとの今の神殿のひとたちは知らないかもしれないけれど。彼らが帰ると、リシュリューがわたしの喉をくすぐってきた。猫にするようなやり方だ。彼は穏やかな表情で、だいじょうぶ、と言った。僕の目が潰れるようなことにはならないから。洒落にならない言葉だ。わたしたち、危機察知能力が鈍ったんじゃないの。わたしは悪態をついた。けれども、いいことじゃないか、とあまりにも暢気にリシュリューがのたまうので、わたしもどうでもよくなってしまった。そうね。嘆息する。そうね、いいことかも。







 六日間の留守を経て、帰ってきたリシュリューは、さすがに疲労困憊といった様相だった。わたしは彼の腕を引っぱり、問答無用で寝台に放り出した。リシュリューがよろよろと手を伸ばしてくる。反射的に掴むと、ひどい顔をしているよ、と心配された。それもこれもすべて彼のせいである。それに、もっとひどい顔をしている者の台詞ではなかった。何か食べやすいものを持ってこようと立ち上がりかけたところで、腰からすくいあげられる。不意を突かれ、わたしは彼の腹の上に寝そべることになってしまった。リシュリューは、わたしが弱ることを――つまり、死の匂いをさせることを、極端に恐れるのだ。それがどういう感情かは、よく分からない。だって、何も言われてはいない。けれども、わたしの健康を不安がっていることは考えるまでもないことだったので、今日ばかりは文句は控えることにした。リシュリュー。わたしはあなたのものなのだ。あなたのためだけに、あなたの精神に寄り添うためだけに、さえずる鳥。わたしの声ではなく、わたしという人格の放つ言葉を求める、そんなどうしようもないあなたのもの。わたしの顔色をじっくりと検分して納得したらしい、リシュリューはよしというように微笑み、誉めるようにひたいにくちづけた。それから、今度はわたしの唇を食んだ。舌が絡まり、甘い吐息が混じり合う。濃厚な接吻を終えると、彼は眠りについた。わたしは彼のひたいに、鼻先に、頬に、顎に、首筋に、鎖骨のくぼみに唇を落としていってから、ころりと彼の横へ転がった。胎児のように丸くなり、目を瞑る。夢を見たい。もし選べるならば、彼に出会ってから今日までを描く夢を。







眠れぬ魚たち

 水の中で息をするのはとても難しい。昔、知人が水かきのある手で頭をかきむしりながら、そんなことを言っていた。なるほど、それは陸でおいても言える。少なくとも、わたしにとってはそうだった。冬の夜空の、きんと冷えきった壮絶な美しさに見蕩れながら、わたしはぱきんとクッキーを噛んだ。一枚ちょうだい、とリシュリューが言うので、分けてやる。それから、そういえば、と彼は続けた。視線で促すと、そういえば聞いてなかったけれど、と彼は微笑んだ。きみは、僕でいいの、と。わたしは瞬き、首を傾げた。つまり、キスをする相手ということ? わたしの問いにそうそうと彼は頷いた。今更過ぎる質問だ。そりゃわたしは良いけれど。リシュリューって、わたしのこと、好きなの? 素朴な疑問を投げかけると、彼は、うーんと悩み出した。好きというより、愛している、という方が正しい。執着でも、恋着でも良いけれど。わたしにはいまいちその差が分からない。あたたかいチョコレートを飲みながら、クッキーがなくなったので、菫とオレンジの砂糖漬けを食べる。寒さを燃やすほど甘い。よく分からないけど、じゃあ、わたしでいいのね。確認すると、彼はやはりうつくしい顔を幸福そうに緩めた。もちろん。真っすぐにわたしを見ている。目が合った。瞼が熱い。リシュリューがわたしの名を呼ぶ。僕はきみがいい、サフィニア。
 わたしは微笑った。






title by 約30の嘘さま INDEX CLAP!



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