子どもというのは、なんてもろくて壊れやすそうな生き物なのだろうと思った。
 彼の前でぼうっとこちらを見上げてくるちいさな顔、ちいさな唇、ちいさな――けれど大きく見開かれた両目。きらきらと陽のひかりを反射して、濃紫から菫色への階調をゆらめかせる、不思議な濃淡の瞳。うっすらと黄緑の混ざるその目が、彼のよく知る人間とそっくりで、だから、彼はほんの少しだけ胸が詰まって泣きそうになる。細くてふんわりした手足は、まだ新しそうな皮膚で覆われ、それと同時にところどころ清潔な包帯に巻かれていた。髪の毛は燃えて傷んだところを切ったのだろう、少年のように短くなっている。一面焼けきって封鎖された屋敷の前で、彼と彼女はしばしまなざしを交わし合った。
 そうして彼はようやく腹を決め、子どもの目線に合わせるように膝を突いた。今度は相手をわずか見下ろす形になった子どもが、ゆっくりと瞬く。金色の長いまつげが上下する。重たい羽のように。
 彼は子どもの名を呼んだ。彼女は首を傾けた。
「僕と家族になろうか」
 やわらかい声で彼は言った。微かに震えてしまったことを、この子どもが気づいていなければいいなと少し思った。いささか唐突な提案をされた子どもの方はといえば、よく意味が分からない、というような困惑めいた表情になっていた。彼はそっと彼女の手を握った。よわく、よわく、子どもの力でもすぐにふりほどけるほどの力で。
「つまり、きみは僕の妹になって、僕はきみの兄になる、そういうのは、どうだろう。ということなのだけど」
 夕焼けに染まる地面に、ふたりの長い影が落ちている。彼女はしばらく無言で、茫然と、何も考えられないような、そういう顔で、じっとしていた。微動だにもしなかった。彼は返答を待ち続けた。手は、どちらからもほどかれなかった。
 やがて、彼女の唇が、言葉を生むべく開かれる。
「はい」
 強い意志の籠もった――けれどどこか懇願するような、痛みを伴う声だった。そのとき彼女の内側にどのような感情が渦巻いたのか、彼には分からなかった、けれど。
 うん、と微かに目を伏せて、地に膝をついたまま、彼はちいさな頭を引き寄せた。顔を隠すように抱きしめる。どうすればいいのだろうとばかりにとまどっていた子どもも、いつしか同じように彼の背へと手を回していた。どちらも壊れものにふれるかの如き慎重さだった。なんて不格好な抱擁だろうと彼は思った。自分たちの、このぎこちなさを、あいつは笑うだろうか、と。紫の瞳の高潔さ、そのまなざしでもって身のうちへと隠すあふれるほどの感情。悲しいほど、彼の友人を思い起こさせる妹を、この日、彼は確かな喪失の自覚とともに得たのだった。
硝 
子 
の 
器 
に 
君 
の 
雫 









柔 
ら 
か 
い 
頬 
 
 暖炉の火があたたかったからか、彼の背中を枕に少女は眠りに落ちてしまった。いくらか年を経て大人びてきた彼女だけれど、こうして何の含みもなく寝入っている顔は、出会ったばかりの頃のように幼かった。ふわふわした頬をつついてやれば、なにやらむずがゆそうに眉をしかめるところも変わらない。髪もずいぶん伸びたから、もう友人の面影を見つけるのは難しくなってきたけれど。けれどもうちにそっと燃える感情の強さや頑固な目、その瞳のきらめきはやはり、どこか重なるものがあった。血は争えない、ということなのかな、と現在の兄であるはずの自分はほんのすこし複雑に思ったりするのだが。
 彼女は寝相がいい方で、というよりあまり寝返りを打たない子どもだった。ひたすら、寝た体勢のままじっとしている。寝ているときだけではない、そもそも彼女はこちらがとまどうほどおとなしいのだ。その、表面上は。見た目ではいまいち感情の動きが見えないからか――まあ、自分には分かるけれど!――近所の子どもたちは、はじめ、どう接すればいいのか、子どもたちなりに悩んだようだった。本人はよその気持ちなど知らず、けろりとしたものだったのがまた、頭の痛い話である。
「まったく、きみはけっこう、たいへんなお子さまだよね」
 まあ、この子につらいことが少ないならば、僕にはそれで充分なんだけど。
 結局、彼女のそういうところを愛おしんでしまうのだから、自分もだめな兄なのだろう。こういうのを、兄バカ、というのだったか。白いなめらかな頬を優しく撫ぜて、彼はほんのり幸せそうに苦笑した。









 わたしには、ふたりの兄がいる。
 彼女はそのことを、おそらく、ほかの人間が思っている以上に強く胸に刻んでいた。キャラメル色のきれいな髪に穏やかな深緑の目を持つ、どこかのんびりした方が、今の兄。自分を引き受け養ってくれた、尊崇すべき相手だ。彼女は、このひとに一生をかけて恩返しをするのだと、十を過ぎた頃には決めていた。そんなことを言えばきっと彼は困ってしまうだろうから、普段はその素振りも見せないようにしているけれど。
 そして、もうひとり。
 焼け落ちた生家から必死に逃がしてくれた、二親を同じくする亡き兄。義兄の親友。わたしと、そっくりの色を持つひと。
 このひとのことを、たいへん口惜しいことに、彼女はあまり覚えていない。なにぶんあんなことを起きたのは、自分が今よりずっと幼く小さな頃のことで、そしてその時分の記憶として強く残っているのが、唯一、屋敷を猛火が焼きつくす光景ばかりなのだ。義兄は、彼女がそのことを気にしていると察して以来、何かにつけ、ぽつぽつと実兄との思い出話をしてくれるようになった。そのたび、彼女を通して懐かしむような目をされるのには、どうにも複雑な思いを抱いたりしたものだけど。とにかく、彼女にはそのようにして、ひどく間接的にしか、実兄のことを知らなかった。
 それでも、毎年の花に、かのひとの好きなものを選ぶことができるくらいには、彼についての知識を蓄えていた。
「兄さん、遅いです」
 目的の墓の前で振り返って、彼女は少し冷めた声を出した。
「ちょ、ちょっと……待って……はあ、はあ。はー、兄は、きみと違ってもう若くないんだよ……」
「兄さんのは、ただの運動不足でしょう。ひきこもってばかりいるから」
「うう、つめたい」
 だいたい、いうほど年は離れていないはずだ。何も二十も三十も違うというわけではあるまいに。いいわけがましいのである。
 墓石とそのまわりをていねいに掃除して、花を供える。義兄と並んで黙祷する。目を閉じると、夕暮れのほのかな闇が瞼の奥に広がった。あわい花の匂い。湿った風が頬をすべる。
 そのとき唐突に、彼女は思い出した。
 穏和そうに見えて、まっすぐに射られれば好戦的だと感じる紫の瞳。きらきらと階調を刻むそのまなざしが一直線に自分へと注がれる。義兄より固い骨張った手が乱雑に遠慮なく頭を撫でる感触。花咲く庭でのことだった。そのひとの口許はうれしげな笑みをおしげもなく晒して、他人の機微に疎い彼女ですら即座にわかるほど、彼女のことを誇らしく思っていることを感じさせた。彼は、彼女を、彼の全力で誉めていた。
 たった、それだけの、記憶。
 何について誉められたのかも、そのあとのことも、まったくわからない。けれどそれは確かに、自らの力で手にした実兄についての思い出だった。彼女は茫然と目を見開き、唇をわななかせ、言葉もなく立ち尽くした。目の端からひとしずく、何の気なしに涙が伝い落ちる。
 あにうえ。
 受け取ってくれるもののない呼称が喉元に突っかかる。あにうえ。わたしは。わたし、あなたを。動揺が嵐のように彼女の内側で暴れまわり、的確な言葉を心の中でさえ紡げない。息が詰まって、もどかしいほどに苦しかった。ああ。あえぐように喉を震わせる。
 不意に、彼女の頭をあたたかな手が撫でた。それは今さっき思い出したばかりの雑な手と違い、微かな遠慮といたわりと優しさに満ちた、おだやかな撫で方だった。ぎこちなく視線を向けると、静かな目をした義兄が、珍しくも彼女のことを見ることもなく、ただひたすらに墓石に視線を向けていた。その、彼女の中の嵐と何の関わりもないのどかな姿を見た瞬間、すっと混乱が引いていく。彼女はそっと唇を噛みしめて――それから微笑んだ。
 兄上。あなたのことを、思い出しました。高潔で、穏和なようでいて頑固で、意外と負けず嫌いで、顔に出さない激情家。……わたしと、そっくり。ほとんど、兄さんから知ったことだけど。
 あなたを尊敬する。
 わたしの、大好きな、兄上。
 かなうならあなたとわたしと、それから兄さんの三人で、一緒に笑いあってみたかった。
 らしくもなく甘い夢を見て、彼女は苦笑を飲み込んだ。自分のせいでという自責は今もときおり胸を切りつけるけれど、それこそあの兄にとっては侮辱であるとも、もうわかっている。それに、義兄を悲しませるのは二度とごめんだ。けれども胸の中で謝るくらいはさせてほしい。それから、きっと、おそらく、たぶん、――とても愛してくれたことに、感謝するのも。
 あ、と兄がつぶやく。
「雨だ」
 気づくと夕暮れは夜に沈み、薄い紺色に染まりはじめた空から、まばらな雨が降り始めていた。まっすぐに落ちてくる滴が頬に当たる。涙はもう乾いたけれど、雨は何度も彼女の顔を濡らした。ぼうっと空を見上げ、一滴が目の縁にあたったとき、彼女は義兄に目をやった。そうして口許を綻ばせる。
「帰りましょうか」
 雨足はさほど強くはない。きっと、夜が明ける前にも止むだろう。でも、今は、まだ、降り続ける。
 義兄は一拍のち、何もかもわかっているみたいな腹立たしい笑みを浮かべて、そうだね、と頷いた。まったく腹立たしい――ほんとうに、このひとにはかなわない。
 兄さん、と呼びかける。手をつないでもいいですか、と。彼はたいへん嬉しそうに相好を崩した。もちろん、いいよ。そう言って。
「いくつになっても、おまえはかわいいねえ」
「うるさいですよ」
 この甘えん坊め、と見当違いなからかいをいやにでれでれとしてくる兄の手を握りしめながら、彼女は彼の足を蹴りつけた。
 もう、喪失の涙は流れない。




 







お題は『硝子の器に君の雫・柔らかい頬・涙はいつか止まるもの』です。 shindanmaker.com/67048

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