減 ら な い 月 を あ げ た か っ た






 しん、しん……と、雪が積もる。
 淡い藍の空を侵食する厚ぼったい雲の群れから、白く、重く、大きな雪が降っていた。どこかで淋しげに啼くけものの声が、雪音に紛れて消えていく。
 そこは、灰色のお城の奥深く、息を殺すよう秘された離宮。装飾の一つとしてない、簡素な建物だ。暗い木々に囲われ、降り積もる新雪に青い影を作る、四角くのっぺりとした屋敷。錠前だけは立派な鍵のついた扉がひとつ。はめ殺しの窓からは、仄かな灯りが漏れている。部屋の中には、大きな寝台に横になる、青白い顔の少女がひとりと、その脇にはべるけものが一匹、静かに在った。
 きゅう、とけものの喉が弱々しく鳴った。大切に大切にされた、銀青の毛並みがしおれている。ふさふさの尻尾が所在なげに揺れる。黒々とした鼻の下の大きな口がわずかに開き、赤い舌が覗いている。灰色がかったまん丸の青い眼は、どこか悲しく陰っていた。
 はた、はた、と尾を揺らす、彼は世に古く少ない銀狼の子であった。
 いつも少女がきれいに整えてくれる爪は、けれど少し伸びていた。その爪が毛布を破かないよう、おそるおそる両前脚を少女の顔の横へと置く。すると、けものの匂いに気づいたのだろう、彼女はすうっとまぶたを押し上げ、瞬き、ぼんやりとした眼差しを彼に向け――それから優しく、微笑んだ。
 フォル、と囁きよりも儚い声で、彼女が呼ばう。彼はぴくりと片耳を動かし、反射的に立ち上がった。名を呼ばれたことが嬉しくて、先ほどよりも明るく尾を振るう。無邪気なその仕草に、彼女の口からこらえきれない笑みがこぼれた。けれどその直後、乾いた咳が続けざまに彼女を襲う。うろたえたフォルが、焦りを表すようにくるくると回る。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ、よ、フォル……」
 少女は細くちいさな手を、いっぱいに伸ばして彼を撫でた。いちど、にど、さんど。ゆっくりと、彼のひたいを往復する。落ち着いたらしいフォルが、気持ちよさそうに両目を細めた。その姿に彼女の心がやわらかくほぐれていく。
 すべてが、気づかぬうちに消えてしまいそうなほど、白い娘だった。
 金糸の髪は、角度が違えば光を吸い込んでなめらかな純白で、不健康な青白い肌とやせ細った腕が闇に溶けていた。瞳もまた、僅かに紫を含んでいるものの、ほとんど灰白色といっていいほど、色味を感じさせない。
 フォルは知っている。
 もともとは、こんなにもかぼそいひとではなかった。
 色素の薄いことには変わりなかったけれど、彼女の頬が確かに薔薇色に染まることだとてあったし、腕にも足にも、もう少し肉がついていた。もっとずっと、生気に満ちていた。なのに。
 すん、すん、とフォルの鼻が湿る。フォルの心が、どんどんしぼんでいく。痛くて、苦しくて、悲しくて、つらい。フォルは再び座り直し、敷布の上に顎を乗せた。少女がフォルに向かって緩慢に体勢を変え、今度は両手でフォルの頭を捕まえた。ひとしきり触ると、満足げな吐息が彼女の唇から洩れいでた。そして、なんてことないようにつぶやく。
「ねえ、フォル……あのねえ。あの月が……満ちる、前に。ここから、出ておいき、ね」
 ね、フォル。
 やくそく、よ。
 やさしく、やさしく、彼女はなだめるように、諭すように、繰り返した。
 新月の夜からずうっと、彼女は何度も、フォルに言った。
 月が、満ちる、前に。
 フォルの耳は、そのときそのときの、いっとう穏やかで、愛情の籠もった、あたたかで残酷な声を、よく覚えている。きゅう、と耳を伏せて鳴いた、自分の響きも。
 ねえ、フォル。やくそく。して。ね。
 わたしも、ちゃんと、それまでは。
 起きて、撫でていて、あげるからね。
 うくく、と彼女は幼いときとまったく同じ、いたずらっぽい笑い方をする。その瞬間が大好きで、大嫌いだった。
 大嫌いになった。
「フォル」
 がんばったら、会ってくれるかなあ、彼女はよく、そう笑った。
 お城の奥深くに秘されたおひめさまは、運命を紡ぐちからがある。見えないものを見て、奇跡を喚び、人のねがいのために命を使う。
 気味の悪い化け物め、と彼女が待ち望んだひとは言った。だから、彼女はこんなところに隠された。ひっそりと静かに、息を殺して生きていた。
 悪夢を呼ぶ雪が降るまでは。
「フォー、ルゥ」
 時期を過ぎても止まず、嵩を増した大雪は、きっと悪魔に呪われていたのだろう、少しずつ人の心を壊していった。気の狂れることを恐れた人々は、王様にすがりついた。
 おひめさまがいるのでしょう、
 運命を解く聖人が。
 その命令がくだされた日を覚えている。綿のような雪が、ぼとぼとと陰鬱に降っていた。彼女は寒い部屋の中で、ぼろぼろの本を読んでいた。暖炉のそばで座って、フォルを抱き寄せて。
 その身のすべてをかけて、民を救いなさい。
 その命のすべてをふるい、民を正しなさい。
 それだけが、おまえにできること。
 おまえを産んだ汚名を、わたくしに返上させなさい。
 おまえの生に一度の名誉を下げ渡す。
(――よろしいわね、フェイトゥルーナ)
 はい、と一音も震えることなく、凪いだ水のように清冽な声音で応えた彼女の横顔が、うつくしかったこと。
 フォルはすべて覚えている。
 そして、その日からふたりぼっちの平穏が崩れ去っていったのだということも、わかっていた。
 くぅん、と力なく鼻を鳴らすフォルの喉を、つめたい指先がゆったりと掻いた。彼女はとても嬉しそうだった。
 雪の穢れは、彼女の尽力によってほぼ、取り払われたらしい。やったの、やったよ、フォル、と彼女がはしゃいだのは、もう数日前のことだ。季節は、事が起きた頃より、年の半分を過ぎる。だから今の雪は、ただの雪だ。ただ、静かで、暗くて、つめたいばかりのもの。
 けれど、彼女のささやかな願いは叶わなかった。
 そのことに関して、彼女は何も言わなかった。何もかもが終わり、随分と弱ってしまった少女のもとには、通いの世話役を除き、結局のところ誰もこなかった。彼女の中の満たないうろに、フォルは激しい怒りを感じた。どうして。どうして、どうして、どうして。あんなにも、がんばって。あんなにも、望まれて。あんなにも、ささやかな願いであったのに。
 あいされたいとすら、彼女は言いもしなかったのに。
 血管の透けるほど白い腕が、長くけぶるまつげが、はたりと落ちる。フォルは控えめに、彼女の指の端を舐めた。
「ふふ……くすぐったいよ」
 こぼれおちていく。
 彼女が、消えていく。
「フォル、だいすきだ、よ」
 でも、
 あなたは、
 ぼくでは満ちてくれないでしょう。
 窓を叩く、やわらかな雪の音。遠く、隣室の暖炉の火が爆ぜている。彼女はもういちど、まぶたを持ち上げる。乾いた唇が、微笑みをかたどった。フォルの耳は、彼女の息遣いを懸命に拾う。
 この世でいちばん大好きな声が、フォルの名前をそっと呼ぶ。
 どこか決然と、強い口調で。
「永遠に、おやすみだよ。……わたしは、もう、ひとりで大丈夫だから」
 ずうっと、一緒にいてくれて、ありがとう、ね。
 震える体を起こして、フェイトゥルーナはフォルの目の上に唇を寄せた。幼い頃から続く戯れに、フォルも舌で返す。ぺろりと彼女の頬を撫ぜ、フォルはゆっくりと身を離した。
 幾度も振り返り、振り返り、引き止めてくれるのではないかと期待して、けれど彼女の微笑みが変わらないことを確かめて、最後には駆け出した。
 銀毛がなびき、しおれた尻尾が扉の向こうへ消えていく姿を、少女は安堵とともに見送った。ちいさな唇が、ちいさく動く。
「さよなら……」
 さよなら、わたしのフォルモント。










 彼女の巧みな言葉によって世話役にゆるめられた鍵を噛みちぎり、フォルは離宮の外に出た。足跡ひとつない雪原をぽすぽすと踏みならしていく。寒さにぶるりと毛皮を震わせ、淋しい鳴き声をこぼし、淡く光る離宮の窓を振り仰ぐ。そうしてどれほどの時間が過ぎただろう、雲が大きく動き、満ちる間際の月が覗いた。ひげを揺らしたフォルは、やがてまた、とぼとぼと歩き出した。闇に染まる黒い森の奥へ、じれったいほどの速度で入っていく。彼のうつくしい毛並みを、月光が冷然と照らした。木々の合間を進んでも月明かりは止まなかった。ぐるる、とフォルは我知らず唸っていた。
(フェイ)
 古く少ない、世にも稀な銀狼は、たったひとりの群れのことを想った。
(フェイ、フェイ)
 フォルの群れ。フォルの家族。フォルの主人。フォルの、この世でいちばん、好きなもの。
(ぼくは――)
 満たされない、女の子。
 フェイ。
 フェイ、ぼくは、あなたに永遠に減らない月をあげたかった。
 四本の丈夫な足が、雪道をえぐるように駆ける。ずぼ、ずぼ、と雪に穴を空け、時によろめきながら、がむしゃらに走る。
 あなたを満たしたかった。
 あなたのうろを埋めたかった。
 あなたの永遠の月に、
(ぼくがなりたかった)
 もう引き戻せない場所まで走って、フォルは唐突に立ちすくんだ。引かれるように月を見上げ、細く長く哀切な遠吠えを響かせる。フェイ。フェイ。少女の笑みを思い浮かべながら、何度も。そうするうちに、フォルの体が緩やかに変化していく。鼻先がまろく、脚は細く、毛は減って。
 人の子と違わぬ姿になって、フォルは泣いた。
(ぼくの、たいせつな、フェイトゥルーナ)
 その格好は、わたし以外に見せてはだめよ、本当に信頼するひとにしか、決して――その意味を、フォルは今では、よくわかる。だから、変化するのはきっともう、これが最後だ。
 月だけがいま、フォルの無様な姿を見下ろしている。
 満ちきらない、欠けた月。あの子の心のように、足りない月。
 その光すら遮るように、吹雪は強くなっていく。
 フェイ。ぼくのフェイ。
 ぼくがあなたの満月だったなら、
 きっとすべてをあげられたのに。
 嗚咽に変わった遠吠えが、決して少女に届かないことを知っているから、人の姿の狼はただひとりで啼き続けた。
 空の月が、満ちて欠けゆくそのときまで。









title by 徒野さま INDEX CLAP!

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