光ひとつない闇にも君はいるのだね






 レイフェは目が見えない。

 とは言っても生まれた時から見えないのではなくて、つい二年程前の戦で傷を負ったというだけのことだったが。どうしてだと悩むことなど欠片もなく、ああ怪我したせいで見えなくなったのだな、といとも容易く納得出来うる失明だ。ひかりも、いろも、誰かの肌と目の色も見えぬ瞳の上で瞬きすればおぼろげながらも思い出せる。そのような目だ。
 だからレイフェは実のところ、それほど苦しいわけではなかった。
 だから、というのはおかしいかもしれない。先日同じ戦場で耳を、そう文字通り耳を失ったという男と会ったが、彼は酷く絶望しているようだった。それも分かる。レイフェだとて、まったく何の感情も沸かないのではない。少しは暗澹たる心持ちになることもしばしばある。けれどもやはり大したことのようには感じられなかった。自分に対する執着が薄いのかもしれない。昔、誰かに言われたことがある。あなたは自分に殊更酷い、と。愛の反対を無関心と言います、というなんとも哲学的な前置きあってのその言葉は、特に深い意味もなく何故か耳に残っている。
 未だ化膿の恐れがあるとか何とかいう医者の言いつけで、ぐるぐると両目と後頭部を覆う包帯がかろうじて感じられる筈の光の温度すら弾く。レイフェの視界は真っ暗闇で、白んで明けることはない。それが途絶えることもないから、もしかすると彼女は光すら感じられなくなっているのかもしれなかった。それもあまり思い煩うことでもないのだろう。ただ、触れる石の冷たさがほんの僅かに淋しいと感じたりするのが、妙な気分だった。
 冷たい石の部屋は花なんぞで飾られた鉄格子があって、寝る場所も息をする場所もところによってざらつく何らかの石だった。ひとつだけ開いた天窓が月光やら日光やらを降り注いでくれているそうだが、生憎レイフェには分からない。彼女にとって確かなのは光ではないのだから。
 かつん、と軽やかに響く音があった。ぴくりとこの二年で随分鋭敏になった聴覚が反応する。これは爪が鉄か石を叩く音だ。そうしてこのどこか気負うような音は。
「リゼル」
 レイフェは吐息のように呼ばわった。は、と瞬間的になされる呼吸音に耳を寄せる。心地よい匂い。彼女はこの匂いを知っている。裸足のまま導かれるようにして立ち上がり、ぺたぺたと石室の内を進んだ。手探りに。いち、に、さん、し、ご、ろく、――七歩。ぴたりと止まる。ずる、と少しだけ包帯がずり下がった。鬱陶しいな、とそのようなことをレイフェは思った。珍しく。
「リゼル?」
 もう一度、呼びかける。もし間違えていたならとんだ労苦だ。ここまで歩くのすら面倒だと言うのに。
 そう落胆しかけた時、風のくすぐるような声が彼女の名を呼んだ。レイフェ。微かにあまいこえ。レイフェ。ほんの少しくるしげに。レイフェ、レイフェ。泣き出す寸前の子供みたいなこえで、何度も。
 リゼルが彼女の名前を呼ばう。
 がつ、と鉄格子が揺れた。振動が膝の裏まで伝わる。レイフェは首を傾げ、そうっと手を伸ばした。けれどもどこにも届かない。どうしようかと悩んだせいか、僅かに震えてしまったらしいその両のてのひらを、柔らかい感触がかき抱くようにして掴んだ。レイフェより余程震えたその手は吃驚するくらい温かく、痛いくらいに強かった。ぎゅうう、と握りしめられて、正直苦情を言いたかったレイフェは、けれど言葉にならずに口を噤む。涙の味がした。彼が醸し出す微量な空気が、涙のような苦塩っぱさを彼女に味わわせた。
 だというのに、どうしてかレイフェは死にそうなほど嬉しくなってふうと笑う。おぼつかない身を乗り出して、二年前の時点で彼女より頭一つ分大きかったリゼルの肩に頭を寄せる。けれども触れることはなく、ただ冷たい鉄格子にこつんと額がぶつかった。
「リゼル、大丈夫なのだよ」
 微笑みとよく似た声で彼女ははっきりと囁いた。どうして、と彼が言う。どうして、そんなことを言うのです、と彼が詰る。
 ああ、そう、そうだった。彼女に、自分に対する執着が薄いのだと嘆いてきたのは彼だった。
 そんなことを今更ながらに思い出して、彼女はいっそうくすくすと笑い始めた。丁寧なリゼルの声が、彼女に届く何よりも優しくて、柔らかなリゼルの手の感触が、彼女に触れる何よりも温かかった。
「毎日、君の声と手の温かさを思い出す。毎日、君がわたしに向ける言葉の数々を反芻する。毎日、」
 君はわたしの側に在る。
 睦言めいた口調で落とせば、彼はいっそう悔しそうになってさらに握るてのひらの力を強める。それがおかしくて、しあわせで、彼女はそっと彼の名を呼んだ。
「君がいるから、わたしはこのつめたい真っ暗闇の中でも安心して生きていられるのだよ」
 だからどうか、覚えておいてくれないか。
 わたしにとって君のこえとてのひらとそれからわたしに向けてくれる君のことばが、たったひとつこぼれおちるひかりのようなものなのだということを。

 どうか、心の片隅にでも、覚えておいてくれないか。





・・・








 色素すら抜け落ちた真っ白な少女は今日も無骨な包帯を巻いて、ぼんやりと鉄格子の内側に座っていた。
 天窓からこぼれる光もまるでものともせず、盲目の少女はただ、冷たい石の感触を思っているのだろう。そういうひとだと彼は知っていて、それが堪らないほど憎たらしかった。
 このひとは、とリゼルは思う。このひとは、いつもそうだ。いつだって、自分に対する関心が薄い。こんな場所に放り込まれて、ひもじい思いも淋しい思いも月の光すら詠えぬ思いも、すべて何事もなかったかのように無視している。ひどい、と思うのはきっとリゼルが勝手なのだろう。彼女は別に自暴自棄になっているわけでも、生き物に対して非道なわけでもない。彼女が彼女をどう扱おうとそれは彼女の勝手だし、リゼルがいちいち口を挟むことでもない。それでも。
 それでも、あの瞳がもう光を通さず、もうそらのいろすら確かめることが出来ないのだと思うと、二年経った今ですら彼は悔しくてならなかった。
 かつ、とわざと鉄格子に爪をぶつける。ひっかけるような音。ついと少女が顔を上げ、ゆっくりと、とても危うい足取りで歩き出した。リゼル、と微笑むようなこえで彼女が彼の名を呼ばう。ほんの少しの不安を滲ませて。もう一度。
 ああ。
 リゼルは泣きそうになった。レイフェ、と我ながら情けないにもほどがある声で彼女の名を呼ぶ。何度も、何度も。レイフェ。いきどころのない苛立ちが一瞬で募って、彼はがつ、と鉄格子に拳を叩き付けた。レイフェはゆるりと首を傾げた。やせ細った両手が不器用に伸びて、おそるおそる鉄格子に近づく。けれど不意にぴたりと止まった彼女の位置からはあと数ミリのところでその鉄格子にすら触れやしない。仄かにそのてのひらの先が震える。リゼルは喉の奥がひやりと冷たく燃えるような感覚を覚えた。小さな小さなてのひらを乱暴に掴む。ぎゅう、と握りしめる。リゼルは医者ではない。だからこの鉄格子の内側に入ることは許されない。毎日、毎日ここまで通う彼に幾人かの警備兵は同情と憐憫の眼差しを送り、時には励ましの言葉をくれるが、それでも中に入れてはくれない。ただ、この格子越しに手を握り、彼女の死人のような冷たさにおののくだけしか許されない。ろくに満足のいかぬ食事のせいで今にも折れそうなその身体を、むちゃくちゃに抱きしめることすら出来やしない。
「……リゼル、大丈夫なのだよ」
 不意に彼女は口を開いた。仄かに微笑んだ唇が、動く。緩慢に。どうして。彼は胸までせり上がってきた何かを耐えて、詰るように言った。どうして、そんなことを言うのです。責めるみたいに。言ってから後悔する彼と違って、彼女はくすくすといかにも楽し気に笑いはじめた。うたうようなこえで、レイフェは続ける。すうっと彼の側に頭を近づけて。……ああ、いつの間にこんなに近くまで来ていたのだろう。歩く力すら萎えているだろうに。
「毎日、君の声と手の温かさを思い出す。毎日、君がわたしに向ける言葉の数々を反芻する。毎日、」
 ふと息を吸うように彼女は止まった。けれども、そっと彼女は彼をすくう。
「君は、わたしの側に在る」
 救いあげる。
 悔しくて、悔しくて、彼は唇を噛み締めた。どうして。どうして、そんなことを言えるのだろう。こんな牢獄と変わらぬ場所に押し込められて、ずっと、ひとりで。呼吸するだけのように生きながら。リゼルが側にあるなんて、そんなのは幻想だ。彼はいつもままならなくて、彼女がリゼルをすくいあげるように救えない。なのに彼女はひかりにとけるようなこえで言うのだ。
「君がいるから、わたしはこのつめたい真っ暗闇の中でも安心して生きていられるのだよ」
 彼女こそが、まるでひとひらのひかりのように。


title by alkalism. INDEX CLAP!





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