時折、ゆるやかに微笑む顔が、ひどく綺麗なひとだった。
ひだまりに似た死もあった
窓辺から溢れるひかりにふわりと眼を細める。あたたかい、仄かに和んだ心で彼はそっとカーテンを引いた。紐で留め、舞い込む春風に揺れる布の端をぼんやりと眺める。寝台に身を横たえたまま、身体は起こして枕に背を預け、やわらかい温度にうっとりとする。ああ。そういえば、彼女に出会ったのも、このような春のことだった。 清冽な薔薇の匂いのするあのひとと。 リクハルド=エルメル=ヴェフカラハティが初めて彼女に出会ったのは彼がまだ少年と呼ばれる年齢の時代であった。 ひとつ国を隔てた、大陸の湾岸部に位置する母国から人質としてこの内陸の大国ランゲルゼに送られてきた彼は、城の生活に上手く馴染めずこそこそと文字通り所在なく王宮の庭園の茂みから顔を出したところで、かのひとに見つかったのだ。ランゲルゼの第二王女ロゼアンナ=イェーリエ=ファルセリナに。 木陰で本を読んでいたらしい彼女は、突然草の根から現れた同年くらいの少年にぱちくりと目を瞬かせ、 「……あら、まあ」 ただそれだけ呟き、じぃっと彼を見つめてきたのだった。 一方見つかったリクハルドはだらだらと汗を掻いた。彼女がゆったりと立ち上がり、近づいて手を伸ばしてきたのを知った瞬間、怒られる、と反射的に頭を覆って俯いてしまう。 「まあ、萎れた薔薇のようね」 だが意に反して彼女は可笑しそうに笑うだけだった。伸ばされた手は表を向いて、それが助け起こそうとしてくれたものだと気付くのに数秒の時を要した。気付いた瞬間彼は心底驚いたものだ。何故このひとは自分に親切にしてくれるのだろうか、と。彼はどう見ても敵国の息子で、このうつくしいひとはすぐさま、宮廷の女官達のように顔をしかめるだろう、と無意識の内にそんな風に思っていたから。 「なぁに? わたくしの手、汚い?」 どころか彼女はそんなことを言ってきた。彼は目を剥いた。まさか、と慌てて首を振る。彼女はほっとしたような顔で、それこそ薔薇のように微笑んで、今度こそ彼を茂みから引っ張り出した。 「わたくし、ロゼアンナというの。ロゼって呼んで? ――えぇと、」 楽し気に名乗った後、彼の名前を知らないことを今更ながらに思い出したのか、彼女は困ったように言葉尻を迷わせた。 彼は躊躇った。良いのだろうか、自分なんかが名乗ってしまっても。躊躇い、躊躇い、躊躇って。 「……リクハルド、です。ロゼ様」 けれども彼は名乗ってしまった。――この、うつくしいひとに。 たった一瞬でも己を刻んで欲しいと、乞うてしまった。 無意識の、うちに。 ねぇ、リクハルド。あれはなぁに? あれはエルトベーレです、姫様。 食べられるの? 食べられます。姫様も食べていらっしゃる筈ですよ。 そうなの? リクハルドは物知りね。ところで、その姫様というの、やめてくださらないの? ……ロゼ、様。 はい、リクル。ついでにもっとくだけてくださると嬉しいわ。 ……おそれおおいですから。 リクハルドは頑固ねぇ。 ふわりと揺れる星を含んだ夜のような髪と、宝石のような碧の瞳孔を持った琥珀の瞳。風になびいてどこか甘い匂いのする空気に溶ける、真っすぐな髪を目で追うことが、いつの間にか習慣になっていた。きらきらと、彼女が歩く後に宝石の粒が光って見えた。きらきら、きらきら。春が、ひだまりが、夏が、こもれびが、秋が、枯れゆく空が、冬が、降り積もる雪の冷たさが、すべて。彼女に手を引かれるだけで泣きたくなるほど美しく柔らかなものに変わった。四季のほとんどない母国はいつも雪で閉ざされていて、このランゲルゼの移り変わりの激しい天気に戸惑うこともあった。けれどもそういう時、すぐに彼女の微笑みに戸惑いはひかりへ変わる。そうなの? ランゲルゼとは違うの? どういうところなの? 屈託なく、けれどどこか大人びた表情で、深い声音で、彼女は尋ねた。ええ、違うのです。雪が。雪が降るのです。ずっと、一年を通して、長く。答えれば彼女は驚いたようになって、くすりと肩を竦める。まあ、じゃあ、ランゲルゼとはまったく違うのね。重なるのは冬くらいかしら。優しく、彼女は呟く。喋るのが得意でもない自分と、会話を続けることが、彼女には容易なようだった。そうなの、と穏やかに繋がっていく会話が、声が、冬でさえ彼の胸の裡をあたたかくした。ひだまりのような、ひとだった。宝石と、ひかりと、ひだまりで出来たようなひとだった。そして、彼女を飾るのは、薔薇。 祖国の景色が薄らぐのはそう遅いことではなかった。もとより幼い時分に売られた身。大して記憶に深く根付いているわけでもなかった。 けれどもやはりあの雪深い国を思い出す。ときたま。側に、彼女の側に在れない時、ふっと彼は、しんしんと全てを包み込んで埋没させるような雪を思い出す。世界と断絶する雪。彼と、外を。吐く息すべてが白く変わる。涙すら凍るから泣くことも出来ない。目を伏せ、目深に帽子を被り、襟巻きを引き寄せ、ただ耐える。耳と鼻を赤く染める、灰色の世界。白。 どうして彼女が自分のような、ひとつ扱い方を間違えれば大変なことになる類の人間に構ってくれたのか、未だに分からない。ただ、彼女は毎日、彼を探しにきた。ぼんやりと明るい空を見上げるリクハルドを捕まえて、躊躇うことなく手を握り、春に咲き乱れる花のように軽やかに走り出す。毎日、毎日。微笑みと、時には涙や憤りも携えて。 彼の“故郷”はいつしか、薔薇の茂みから彼女が救いあげてくれたあの日に変わっていた。 ねぇリクハルド。 なんですか。 ……わたくし、もう、子供ではなくなってしまったわ。 ロゼ様? ねぇ、リクハルド。ねぇ、そこに、いる? います、いますよ、ロゼ様。 ……お願い、リクハルド。ずっとじゃなくていいの。最期は、あなたが、手を握っていて。 瞬く間に時は過ぎる。どんなに他の人間に疎まれようと、彼女がこの世に存在しているだけで、彼は幸福だった。彼女が側で笑う。その柔らかな時間の中で、ずっと守られていた。彼女には、そのようなつもりはなかっただろうが。少年の時も、少女の時も、もうぎりぎりまで終わりに近づいていた。少なくとも子供とは言えなかった。彼女が、ひそやかに呟いたように。 それでも彼女は変わらず側に居て、変わらず笑ってくれていた。だから彼も変わらず彼女の側にいた。貪るように、ずっと。この時間はきっと、少なくとも自分が引き離される時まで続くのだろうと、そう思っていた。 けれどもひとは脆い生き物なのだと、彼は漸く思い出したのだ。 血を吐いて、彼女が倒れた、その瞬間に。 彼女はもともと身体の強い方ではなかった。元気に動き回っていても、不意によろめいたり、咳き込んだりすることが多々あった。 いや。忌憚なく言おう。 彼女は身体が弱かった。 ねぇ、リクル。どうしたの。 何がですか? あなた、泣きそうよ。わたくし、何か、したかしら。 ……いいえ。いいえ、ロゼ様。何も。 それは、祖国とこのランゲルゼが、とうとう和解することになったという報告が届いた日のことだった。 アプフェルの皮を向き、取り分けている時に受けたその言葉に、ほとんど動揺も驚愕もなかった。ただ、ああ、やはり、という思いと、思いのほか早かった、という思いと、――良かった、という思いがないまぜになった。大分沈静化してきていた為もあって、この和解は意外なものでも急なことでもなかったが、それでも無理にいがみ合い続ける必要などあろうものか。それほど犠牲も多くなく、そう、水面下のにらみ合いにも似た戦だった。だが、それでも傷ついた人はいるのだ。傷痕も、皆無ではない。戦などない方がずっと良い。 その日から彼は、正式にランゲルゼの賓客になることとなった。形として見せる和解の第一歩、というところであろう。一度帰国させられるか、それともどこぞの姫と婚姻させられるか。そんなことを、つらりつらりと考えていた時に、彼女はふと頬を綻ばせた。 「リクハルド、ねぇ、そうしたら、わたくしあなたと結婚出来るかしら」 彼は危うく小刀を取り落としそうになった。 国が云々より、そちらの方が余程驚愕であり、衝撃だった。けれどもよくよく考えればその可能性がより高いのだ。――そう、他の数人の王女はもう他国や他家に嫁いでいってしまった。ひどく身体の弱い、彼女以外は。 どくどくと心臓が高鳴った。恐ろしい勢いで走り出す。じわりと頬に血が上り、その己の命と引き換えにしてもあまりある、恐れ多いほどの幸福な可能性に、流されてはならないと瞬きでこらえる。 「……リクハルド、聞いている?」 「あ……はい、ロゼ様」 うまい返事の出来ない己が厭わしかった。けれども彼女はそんな彼の反応に慣れているように、ふふ、と微笑んだ。寝台に埋まったまま、彼女はそっと手を伸ばしてくる。彼は反射的にその手を握った。 「ねぇ、わたくしを、選んでくださる?」 震える声だった。彼はぞっとするほど胸を突かれた。ああ、そんな、ばかな。背筋を駆け上る歓喜に、そのような叱咤は意味をなさない。彼は顔をくしゃりと歪めて、必死に頷いた。 「ええ、もちろんです。ロゼ様。――貴女こそ、僕で良いのですか」 そもそも可能性の話だった。ままごとのような、願望だった。確証なんて欠片もなかった。 けれどもそうと信じて疑わなかった。他の可能性など、頭になかった。 「どうしてそんなことを聞くの?」 可笑しそうに、ひだまりのようなひとは微笑う。 「ねぇ、リクハルド」 ああ、自分を呼ぶこの声に、幾度、震えたことだろう。この声に、どれほど救われたことだろう。 その声がどんなにあまいのかなど、彼女は知りもしないのだろう。 「わたくし、あなたが、すきよ」 その日、彼女は死んだ。 葬送は呆気なかった。その別れと同じように、予定通り執り行われた。呆然と葬儀に参列し、墓前を弔い、永遠の別れを告げる。雨が降っていた。やがてそれは雪に変わり、春には珍しい悪天になったが、清く美しくそして儚かった第二王女への神の最後の祝福だろうと参列した人々は泣き笑いになっていた。 彼だけは、まるで祖国のようだと、思った。閉ざされた、雪の王国。己と外とを雪によって断絶される、あの極寒の地。もう、彼女はいない。 ぼんやりと過ごすうちに数ヶ月が経った。やはりというか何というか、婚姻を結ぶ予定だった相手は彼女だった。というよりも当人達の不服を聞かないですむよう、全ての準備は整えられていたようだった。いつの間にか、書類上リクハルドは彼女と夫婦の関係になっていた。皮肉なものである。だが、当の本人が亡くなってしまったのだ。その衝撃はいかばかりだったろうか。 だが、しばらくその彼女を偲んで沈んでいた宮廷も、そろそろ動かねばなるまい、と漸く思い腰を上げ始める。このまま彼を姻戚関係の直中、宙に浮いた存在として置いておくか、それとも国に帰すか。新たな妻をあてがうか。様々な意見が出たらしい。今まで不遇の身におかれていた相手国の息子を、――仮にも血筋上王子である彼を、和解の印だというのに他家に下げ渡すようなことをして良いのか。しかし、だからといって一生このままおいておくのは、彼自身から不満が起こるのではないか。そのような雲の上の話を、ぼんやりと小耳に挟んだ。 最終的にランゲルゼとしてはそのまま留め置いておきたい、というのが結論のようだった。 そうして、幾人かが彼に意見を聞きにきた。やんわりと、ご再婚なされとうございますか、とついぞ聞いたことのない丁寧な口調で。国に帰す、という意見は誰もが嫌がったようだった。今更新たな王子や姫を呼び寄せて面倒なことになるより、長くひっそりと暮らしていた彼にこのまま変なそぶりもなくひっそりと存在していて欲しい、といったところであろう。 彼はただ笑って、何も言わなかった。 その反応が不思議だったのだろう。少しは文句の一つでも言われるだろう、と構えていたらしい彼らは一様に奇妙な顔をして、それから疑いを抱いたらしい。すなわち、現王太子の転覆をはかっているのではないか、虎視眈々と、この国を狙っているのではないか、と。 そのような噂をされるようになって、彼は少しばかり困ってしまった。実のところ、彼はただ、何も言わなかったのではなく、何も言えなかっただけだった。 未だ、彼の胸にはひとりのひとの顔しかなかった。整理のつかぬ感情が渦巻き、ただ、ぼんやりと息をするしかなかったのだ。 けれども業を煮やしたらしい王太子本人が乗り込んできてしまっては、さすがにだんまりでいるわけにもいかないだろう、と腹を括るしかない。 それに、この方にだけは言うべきであろう。この方の妹君に抱いた想いだけは。 正直なところを聞きたい。貴公は我が位を狙っていらっしゃるのか。 要約して、そのようなことを真っ向から聞かれた。なんとも清々しい王太子だ、と一瞬答えに詰まってしまった。 だが、その王太子が眦を険しくさせるのを見て、彼はふと苦笑した。息を吸って、睫毛を伏せる。 いいえ、と彼は穏やかな声で言った。 「いいえ。僕は、あの方を愛しているだけです」 愛した相手と結ばれて、これほど幸せなことがありましょうか。 だから、不満など欠片もないのです。 迷うことなく答えた彼に、王太子は目を瞠って、微かに唇を震わせ、やがてただ、そうか、とだけ呟いた。喉元に切っ先を突きつけられるような問答は、それで終った。 そう。 彼はあいしているだけだ。ずっと。 あのうつくしい薔薇の匂いの中に在る、ひだまりのようなひとを。 ・・・ それ以後、誰かが彼に何か言ってくることはなかった。当然だが、王太子との対面時はあてがわれた自室の真ん中でぐるりと周囲を囲われ、多くの武官に話を聞かれていた。その為かもしれない、彼がそのように答えた噂はもとの不名誉な噂をかき消す勢いで広まっていった。そして何故か王太子は彼の部屋によくやってくるようになり、よく分からない世間話や、彼に聞いてもどうしようもないだろう政治上の相談やらをして帰っていく。その気ままな行動が、なんとなく妹に似ていなくもなかった。……もしかしたら、傷を舐めあうようなものなのかもしれなかった。意味は違っても、同じ大切な少女を亡くしたのだ。共感するところもあったのだろう。 あれから何年も経った。 気付けば彼は少年を終え、青年になり、大人になった。まだ他方で若いと言われるような年齢ではあれど、随分歳を取ってしまった。 おかしなことに、自分もそれほど身体の強い方ではなかったらしい。 一年前から妙に身体が弱り、悪い時には病が篤くなるようになった。数人の、おそらく友人と呼んで良いような人間が訪れては渋い顔をし、いつの間にか増えていった優しい知人達が悔しそうな顔をしていく。面白いなぁと思いながら、少々の申し訳なさを抱きながら、彼はそんな人々を感謝とともにのんびりと観察していた。 死期が近いな、と気付いたのは数日前のことだ。 自分のような類の人間には、そういうものが分かるものなのだろうか。だとすれば、彼女もあの日、分かっていたのだろうか。そのようなことが胸を過る。――こんなに時が経っても、想いはただ彼女のもとにある。 ロゼ。薔薇の紋章の王女。うつくしいひと。薔薇の茂みから彼を救い出してくれたひと。 リクハルドの、ただひとりのひと。 「……もうすぐ、お側にいけます」 ふわり、と紐がほどけてカーテンが風を含んだ。春の匂い。窓辺から柔らかなひかりがこぼれる。ああ、あたたかい。祖国と違い、この国は温かい時期がなんと多いことだろうか。 彼はそっと目を細めた。 遅くなってしまってすみません、ロゼ様。 ほとんど声にならない声で、彼は呟いた。瞼を下ろす。 枕にゆったりと頭を沈め、彼は穏やかに眠りについた。 リクハルド=エルメル=ヴェフカラハティの死は、ランゲルゼの宮廷、否や王国中に哀しみを呼んだ。 だが、彼の死に顔は、生前の彼をよく知る者が思わず泣き笑いをするほど、幸福そうであったという。
ひとりの少年と、ひとりの少女の淡い淡い過去の話。そして、少女の死後、彼を愛したひとびとの話。です。だいぶお蔵出し。
title by シュロ INDEX CLAP!
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