――――――それで? と問うた声はひんやりと冷たく湿り、そしてどこか乾いてひび割れた。




ナイトは君だと信じたかった






 古王国、と呼ぶ。
 そこはしんしんと雪の積もる、森深い国だった。何千、何百と長く続いてきたその国は、王権の移り変わりが激しく、一族内で何度も二転三転することはもちろん、幾度も政権交代が起こり、連綿と続く王家もあれば、一代三代で途絶える家もあった。理由としては血が絶えたり、革命によったものであったり、遠い親族へと移っていくに連れての結果であったりと、様々だ。そうして受け継がれてきた冠は、今、まだ女のにおいもしない、おさない少女のちいさな腕のなかで、そろそろ眠る時間だろうかと微睡んでいる。 
 淡くけぶる、金というよりは白に近い、真っすぐで長い髪がまるい頬を滑る。冬の陽は柔らかだ。玉座の間にためいきのように注ぎ込む陽光が、そうっと彼女の髪をきらめかせた。
 白と黒の古い大理石がはめ込まれた床の中央を、真紅の細長い絨毯が伸びている。玉座から、正面の扉まで。端がほつれてなおうつくしい、いっとう上等な絨毯だった。その赤くやわらかな毛を踏み、彼女はぼんやりと王冠をもてあそぶ。複雑に光を屈折させる、部屋の両脇にそれぞれ五つずつある縦長の硝子窓の向こうで、不意に、白い鳥がはばたいた。
 きい、とノックの音もなく、大扉が開いた。彼女はもちろん気付いたけれど、振り向きはしなかった。微動だにもせず、じっと睫毛を伏せている。憂いの色はなかった。どこか淡々とした悟るに似た何かが、そのおさない顔を彩っていた。
 こつ、こつと軍靴が鳴る。硬い踵が大理石を打つ音。絨毯の上を通ればいいのに、と彼女は思った。今ではもう古い型のドレスはなだらかな線を描き、少女の病的なほど華奢な身体を、より細く見せている。遠目に窺っても背の小さい彼女が、彼女たち以外誰もいないその部屋のなかで、ぽつんと立っている様はどうにも頼りなげであった。
「……きたんだね」
 そっと、王女は呟いた。
 騎士は黙ったまま、彼女の許に跪いた。
 いつか、どこかで目にした、古い絵画のようだと、そんなことを思う。高貴な姫と、孤高の騎士の、誓いの儀式。そういう絵。……自分が高貴な姫の役どころとは、なんだか皮肉のはなしだけれど。
「……不浄の身で、御前にまかりこしますご無礼、お許しください」
「卑屈な言い方、しないで欲しいのだけど」
「いえ……事実ですので」
 はたと彼女は気付いた。ああ、嘆息する。鉄錆に近い匂いがすっと鼻先を過る。うん、そっか。と、囁く。でも、それは不浄とはまた、違うと思うよ、と。騎士は答えず、跪いたままだ。王女は手のなかの大きな冠をくるりと回す。こんなものが一体なんだと言うのだろう。望みなんて星のまたたきひといき分もなかった。ただ、同じ日常が続いてくれたなら、それで良かった。暗い、城の最奥、地下深くの石室のうちに一日中住まわされていても、ひとり、騎士がいたならそれで良かった。
 それで良かったのに。
「人払いをね、」
 微笑みが口許で遊ぶ。染み付いた、感情のこもらない、ゆるやかな笑み。
「人払いを、したから。しばらく邪魔は入らないよ」
 はい、と騎士が頷いた。
 冬だった。空は珍しいほど晴れていた。それでもおそらく暖かくはないのだろう。事実、室内でさえひんやりと冷気が漂っていた。
「顔をあげてくれるかな。話がしにくくて、仕方が無い」
 そう言うと彼は漸く顔をあげ、王女の金がかった深い緑の双眸をひたと見つめた。まるで網膜に灼きつけるよう直ぐに。少々どころか非常に居心地が悪い。極端なのだ。いや、今だからこそ、なのだろうか。
「立たないの?」
「それは、許されません」
「いつでもどこでも跪かれていちゃ、みんなやりにくくて困ると思うけど」
「恐れながら、我が君。私はあなたより背が高いのです。臣下が主君を見下ろすなど、あってはならないことですゆえ」
「……その発言の方が、充分不敬だと思うけどね」
「なにより、私が跪くのはあなたにだけです」
 呆れと一緒に放った非難の言葉はさらりと無視して、彼はそんなことを言った。どうしようもないなあ、と苦笑いする。誰がいちばんどうしようもないかって、それは、そんな言葉にすら胸ときめくのではなくどこか引き攣れるような哀しみで喉を痛くさせてしまう自分なのだけれど。
 おもむろに、気紛れを装って、王女は騎士の名を呼んだ。是、と彼が応じる。久しく呼べずにいた名前は、くちにだした途端、仄かな熱を帯びて舌の先から体内に巡る。
「わたしの騎士」
 子供のような声が出た。すこしだけ、すがるような響きもあった。同時に放り出すようでもあった。彼女の騎士はけれどこれにも生真面目に、是と応じる。王女は少し微笑った。
「まさか、わたしに王冠がまわってくるとは、ついぞ思わなかったけれど。人生、分からないものだね」
 古き神々が愛したその国の、崩壊は近い。
 新たに起きた西の部族が、足並み揃えてやってくる。
 いいや、やってきている。すぐ、そこまで。
「城の者たちは、」
「大丈夫、聖堂の地下から逃がしたよ。それにあちらが言うには、抵抗しなければ何もしない、ということだからね。前王の子たちも、最後の命令として、無為に逆らわないよう言いつけていたようだから、たぶん大丈夫」
 安心させるように言ったのに、どうしてか彼は気難しげに顔を歪めた。
「……あなたの、ごきょうだいでしょう」
 彼女は微かに笑った。声を立てない静かな笑みだった。
 きょうだい。確かにそうだ。そうなのだけど、あまり実感が沸かない。それに繋がった血は半分だけ。わたしは厄介な余りだからね、と返すともっと苦い顔をされる。あまり――いいや、ひどく喜ばしくないことだ。記憶に灼きつけておく表情は、なるべく痛みのすくないものが良い。彼女はいちどだけ、陽光を浴びるように眼を伏せ、唇を引き結び、それからいつも通りのものやわらかな微笑に戻った。
「あなたがほふったのは、どちらかな」
「……人の心を犯したものは、皆平等に」
「随分皮肉な平等だ。神も嘆いていらっしゃろう」
「恐れながら、我が君。私の神はあなたです」
 王女は黙った。細い息が、ちいさなくちびるから洩れいでる。まったく困ったことを言う男だ。最後まで。苦笑混じりに首を傾げる。長い髪が揺れ、光の粒がきらきらとまとわりつく。それを眩しそうに見上げてくる自分の騎士の、この国にはない色をした瞳。崩壊は近い、そう思ったのは、そう最近のことでもなかった。自分と騎士で、等しく――ではなかったかもしれないけれど、ふたり、鼻つまみものだった。疎まれ厭われた厄介者。どちらもおそらく、流れる血のなす業だった。
 感傷を振り払う。時は刻一刻と削り去っていくのだ。
「西方はうちよりもさらに信仰心が強い国ではなかったかな。間違っても、二度とそんな戯れ言はくちにしない方が良い」
「それでも事実です。一生、変わることはございません」
「強情だね」
「我が君。ひとの心のいちばん深い場所にあるものには誰の責めも土足で踏み入ることなど赦されないのです。誰に変えることができるものでもない。自分にさえも」
 酷いことを言う、と思った。いつだって、彼女の生真面目な騎士は、主の逃げすら許さない。何もかもを突き刺すように差し出してくる。刃に似ている。彼のひとふりの長剣は、遊びのような忠誠の儀に用いられて以来、長らく鞘にしまわれたままだったのだけれど、このたび日の目を見るに至ったらしい。
「……あなたは一目で私の血を見抜いていらっしゃった。それだというのに今日までずっと、お傍においてくださったことに、私がどれほど感謝申し上げているか、お分かりですか」
 ぽつりと、思わずといった様子でこぼされた呟きが、あまりにも大げさだったものだから、彼女は分からないよと減らず口を利いた。分からないよ、何しろわたしはあなたではないのだから。そう言う王女の姿に彼は何か懐かしむような表情になった。ほんの数日で全てはひっくり返ってしまったけれど、まだそんな風に遠い記憶にするような時でもあるまいに。
「行くんだね」
 王女は問うた。
 騎士は頷く。
 彼女はすすけた重い王冠を、玉座に乗せた。背筋を伸ばす。
「どうやら、わたしは王になるようだよ」
「はい」
「けれどもこの冠を戴く王国は、直にその名を失うだろう。そう、あと、数刻後くらいにはね。だからその前に王を立てておかないと。最も安全に、最も被害の少なく、最も変わりない日常を、この国に生まれてくれたたくさんのひとたちが送れるように」
「はい」
 にっこりと彼女は笑って、玉座を指差した。
「わたしの頭に、授けてくれるかな。王冠を」
「私でよろしいので」
「他にいないからね。前王の第一子に、一応、いやいやの顔で託されたからまあ、それだけでも良いのかもしれないけれど、さすがにひとりで勝手に被っていたら、簒奪者と言われても仕方が無い」
 王女の朗らかな言い様に、彼は少々呆れたようだった。慣れた嘆息が響く。けれどもそれ以上文句は言わず、滑らかに立ち上がった彼の無骨な両の手が、至高の冠を慎重に掴んだ。
「あ、乗せるだけでいいから。祈りも誓句も省略」
「………、……残念ながら私も知りませんので」
「わたしたちは、ずっとじめじめした地下で生きてきたからね。さながらカタコンベから甦るようなものなのかな」
 冗談を言ったつもりだったけれど、困ったことに騎士は動きを止めて黙り込んでしまった。怒ったのだろうか。少しばかり、不安になる。と、不意に騎士がくちを開く。
「あなたは、今、逃げ出そうとはなさらないのですね」
 哀しみの色をした声だった。
「……それは、あなたにも言えることだよ。ともかく、早くそれを乗っけてくれるかな。もう時間がない」
 ただひととき、かりそめの王を立てる為に。
 彼は今度こそ、静かに冠を掲げた。いまだおさない少女の姿の新たな王は、軽く腰を屈める。彼女は瞼を下ろした。ずしりと重い感触が頭に当たる。これが、何千何百の重みだろうか。
 ばかばかしい。
「あなたに、この世の最もうつくしい幸福が訪れんことを」
 けれども、震えることもなく淀むこともなく、続けられた子供騙しのような祈りは、彼女の冷えた胸の奥まで容赦なく、じわりとやさしいあたたかさをもたらした。
 瞼を押し上げると、騎士は立礼し、深くこうべを垂れていた。ばかだなあ、と思う。それでも口許に洩れるのが、最後まで苦笑なものだから、自分も充分ばかものだった。新王は耳を澄ませる。足音が、する。
 古王国の、終わりを告げる足音だ。
「できればうちの国に優しく接して欲しいものだけど」
「当然です。その為に私は行くのです。あなたのお傍を、離れてでも」
 騎士が顔を上げた。真っすぐな眼差しは、まったくどうしたことだろう、いつまでたっても彼女ばかりを見つめる。何もかも自分で決めたくせに、よく言うものだ。それが一番良い方法だったのだとは、知っているけれど。
「……あなたが、全てが壊れてでも、傍にいろと仰ったなら、今からでもお傍に参ります」
 王は目を見開いた。その男にしてはあまりにも感情的な言い分だった。思わず凝視してしまってから、疲れたような心地になる。どうやら本気でそう思っているらしい。けれども彼女がそうは言わないと、彼は分かっている。それも事実だ。
「それで?」
 少しばかりつめたく湿り、乾いた声になった。それで、一体どうやって生きていくと言うのだろう。時はあまりに過ぎてしまったし、だいいち、彼女はこれ以上の重責も悔いも、負いたくはなかった。荒々しい足音が、扉のすぐ傍までやってきている。こんな時間までよく保ったものだ。いいや、それとも、自分が思っているよりずっと、短い時間だったのだろうか。とてもどうでもよいことなのだけど。
「いつまでもくすむことなき忠誠を、我が君」
 彼は哀しそうに、堪え難いように、けれどもどうしてか誇らしげに、眩しさに目を細めるような表情で、囁いた。その手が剣帯に伸びる。静かに鞘が払われる。
 扉が開く。一斉に銀が閃いた。
「――――うつくしき降伏を、いにしえを統べし王よ。抵抗しなければ、誓って誇りを穢す行いは致しませんゆえ」
 耳慣れた声の主に向けられた剣先を見ながら、古王国の最後の王はいっとううつくしく微笑んだ。

 いにしえの神々に愛された王国の歴史は、そうして眠るように静かに途絶えていったのだった。
 









 まるで罪人の住居のような、みすぼらしいその部屋のなか、光の粒をまとう、金の髪のこどもがつまらなそうに揺り椅子に腰かけていた。彼女が椅子を揺らすたびに、その髪もまた、ゆらゆらと揺れる。不思議な金緑の双眸が、ちらりと動く。跪いたまま、ぴくりとも動かない少年の方へ。
『ふうん、いやなところ、押し付けられたんだね』
 ためいきのように、こどもらしくもなくそう言って、彼女は背表紙の破けた本を放り捨てた。ごつ、と木の床に本の角がぶつかる。
『無理に仕える必要はないから。面倒だし、不愉快だろうけど、日に一度でもきてくれたらそれでいいと思うよ。それも嫌だったら、まあ、第二王女にでも言えば、使ってくれるんじゃないかな』
 わたしはあまり上のことは知らないから、よく言えないんだけど、と呟く。少年は戸惑ったように、少しばかり白い顔をぱっと上向けた。そんな、と弱々しい声が洩れる。
『僕、では、やはり、ご迷惑、ですか』
『……そんなこと、ひとことも言ってないよ。それはあなたの方じゃないの、っていうこと』
『そんな、』
 古王国の血筋にはついぞ類を見ぬ、夜よりも深い黒瞳が大きく広げられる。金のこどもがきょとんとした顔で振り向いた。黒い瞳と緑の瞳がかち合う。
 少年がぼうっと見蕩れる。はじめて宝石を見たこどものような顔をした。相手の眼差しが訝しげになったところで、漸く慌てた風に勢い込む。
『い、一生懸命、あなたに仕えます! 僕の、手も、足も、何もかも、ぜんぶ、捧げます!』
『……重い。いらない』
『えっ、そんな、でも、あ、せめて、忠誠と、名前を、』
 ぎゅ、と両手を握りしめ、彼は腹に力を込めて懇願した。
『生涯、あなたに忠誠と、その証に僕のひとつきりの名を捧げます。だから、どうか、お傍において、ください……!』
 血を吐くような必死の叫びを金のこどもは驚いた顔で見つめた。彼のつむじを、何か珍しいものでも見るかのように、じいっと。
 気の遠くなるほどの時間をおいて、彼の小さなこぶしが震え始めたころ、ようやっと彼女が息を吐く。
『いちいち、重たい』
 ぐ、と彼は詰まった。跪き伏せられたその顔がぐしゃりと歪む。謝罪の言葉がそのくちから吐き出されかけたとき、ふたたび細い声がかけられた。
『――――それで?』
 ひんやりと冷たく湿り、けれどどこか乾いてひび割れた、僅か水滴ひとすくいの緊張を孕んだ声だった。え、と少年がこどもを見る。彼女はただ真っすぐに彼を見ていた。
『それを受けるには、まず名前を教えてもらわないといけないんじゃないかな』
 自信のなさそうな、こわごわとしたその口調と対象的に、少年は徐々に、ゆっくりと、そのほんの少し前まで泣きそうだった顔に溢れるような喜色を浮かべ始めた。はい、わがきみ、とたどたどしく応える。
『お目通り叶いましたこと、御礼申し上げます、我が君。僕の名は――――――』


 それは未だ、金の髪のこどもと、黒い瞳の少年が、いつしか暗い地下から出るよりも遥か遠い過去のはなし。








thanks a lot !! : Judyさま
INDEX CLAP!









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