ふーこの腕にはいつもくまのぬいぐるみがある。洒落た風に言えば、テディ・ベアというやつだ。学校でも、家でも、歩いている時だって、ふーこは、蜜の色の、かなり古ぼけたくまを連れている。
 彼(つまり、わさわさと人工の毛を生やしたくまのことだ)の名前は、コージィ、というらしい。どこぞのケーキ屋のようで微妙に似合っていない。コージィはつぶらな目で、ぽこんと腹を出し、足のひらにでっかい布をつけて僕を見る。ふーこはだらしなく机に突っ伏している。
「ふーこ」
「なぁにぃ、コージィ」
「いや喋ったのコージィじゃないから。つーかコージィ喋んないから。もう陽も暮れてきたし、帰ろうぜ」
 ぶー、こーすけはいけずですねー、ねーコージィ、などとまったくもって失礼極まりないことをのたまい、ふーこはくいくいとコージィを揺する。話しかけているらしい。ふーこは昔から、ことあるごとにコージィと喋る。ひとの方はちっとも見ない。つきあいの長い僕にすらそうなのだから、初対面の相手なんぞとは欠片も目を合わせない。かといって、まあ、さすがに、初対面の相手の前でコージィと喋ったりはしないが(そこまでやるともう失礼どころの騒ぎではないし、というかふーこがそんなことしたら僕は絶交する)。おもむろに、ふーこが身体を起こした。ごそごそと鞄を探り、コンビニパンを取り出す。ミルクストロベリーパン、と書かれたビニール袋をべりっと破り、中から縦長のパンを取り出すと、ふーこはむしゃむしゃ食べ始めた。帰ろうっつってんのにこいつは。たくもう、と溜息をつき、それ終わったら帰るぞ、と言いやるとふーこはこっくり頷いた。伏しがちの目をはたりと動かし、子供みたいに素直に。昔からこうだ。いつまでたっても子供。来年は受験だっていうのに、コージィがいなければ幼馴染みの僕とすらまともに会話できない。子供のような女。いや。違う。
 子供でいたがり。
 ふーこ、と僕は幼馴染みの方へ身を寄せた。椅子の前足が浮く。ふーこの机に肘を置き、頬杖をついて、ふーこを見る。もそもそとあまったるそうなパンを食べる少女を見る。ちいさな黒い頭があがり、まるいまなこがそうっと僕の方を見た。長い睫毛は、もしかすると彼女の視界を狭めるために一役買っているんじゃないだろうかとときどき思う。肩口ほどまで伸びた髪の毛はさらさらと滑り、つまるところもう子供には、さすがに見えない(いや、こども、ではあるのだ。僕らはまだ。けれども『子供』が許される年齢でもない)。
 手を伸ばす。髪を掬う。黒い前髪。ふーこが動く。身じろぐ。強ばる。
 しばしどちらも黙り込む。ふーこは片手にパン、片手にコージィ、その体勢のまままたたきもしない。僕の片手はふーこの髪を掴んだまま、むろんもう片方は頬杖のまま。夕陽が影を深めた頃、ふーこがくちびるを噛み締めた。それを見て、ふっと唇を引き上げてやる。
「ふーこ、」
 嘘吐きだな。
 そうこぼすと、彼女はひどい顔をした。くっきりと眉を八の字にし、くちびるをひん曲げ、泣きたそうに目尻を歪める。コージィの手を握る指が白まる。彼はつぶらな目でされるがままだ。彼はずいぶん我慢強い。僕らの中で、もっとも大人なのは彼で間違いない。僕は一度瞑目してから、ふーこのさらさらした前髪から指を引いた。なめらかな髪はすぐさま、ふわりともとに戻った。早く食べろって、と呟くと、ふーこはまたこっくり頷く。俯いた顔はきっと何もかも分かっていて、きっとだからこそ子供のような顔をする。子供でいたがりの顔をする。
 いっときの衝動のようなものはすぐに消え、僕はなんともなしに窓外をぼんやり見つめた。日暮れは赤い。教室の影は刻一刻と濃くなっていく。
「……の、ね」
「は?」
「あのね、こー……」
「またコージィか」
 つい途中で遮るとパンの最後のひとかけらを食べ終えたふーこが、珍しく睨んできた。ちがう、とそのあかいくちびるが動く。声は小さい。
「こーすけ」
 え、と僕は目を見開いた。これまた珍しい。ふーこから明確に話しかけられるとは。と、思ったらぱたりと頭を机に落とした。おい、続きはどうした。ふーこはしばらくコージィと熱く見つめ合ったのち、ふかふかした彼の腹に目から鼻までをうずめた。残ったくちが音になりそこなった声を吐く。読み取れと。端から端まで面倒臭い幼馴染みだ。
 ごめん、でも、ごめん、
 ……かろうじて読み取ったところによるとこうだった。それから、たどたどしく、つづく。僕は眉をしかめた。
「う、」
「なに。ゆっくりでいいから、しゃんと言いな」
「ごめ、」
 あやまらなくていい、そういう言葉は、たぶん、うまいこと伝わらない。だからただじっと見やると、彼女は少しだけ、コージィをずらした。ちいさく目が覗く。
「ごめん、こーすけ、」
「うん」
「……もうすこし、だけ」
「うん」
「…………ご、め」
「べつに、責めてないだろ」
「うん、」
 ひとがこわいよ。
 いつだか彼女はそう言った。そう言ってコージィを抱きしめた。そのときの僕と彼女の距離といえば、拳ひとつぶんくらいだった。距離っていうのは精神的なものでなく物理的なものだ。ソファがあるのにわざわざ床に座ってソファによりかかり、本を読みつつ盗み見たコージィが、少し哀しそうに見えたときのことだ。僕とふーこは同一じゃない。いつでも一緒ってわけでもない。何があったかとかそういうことを聞くほどの勇気もない。だいたい何かがあったなんて決まったわけじゃないし、ひとをこわいと思うことがそれほど異常なこととも思えなかった。だから、ただ、ふうんと頷き、伸ばしかけた手を戻し、そう、とだけ返す。ふーこは何も言わない。コージィもだんまり。
 でも、コージィがいるじゃん。
 どうしてか分からない、だけどそのとき、何故か僕はそんなことを言った。直後、ふーこが息を止めたのが分かった。じれったいほどの時間をかけて、うん、と返ってくる。より強くコージィを抱きしめて。
 今のように。
 ふーこ、と僕は静かに彼女を呼んでみた。ふーこ、触ってもいい。
 こっくりとふーこは頷いた。頷いたということは許可でいいだろう。そういうわけで、そうっと彼女の頭の後ろに手をやり、ゆっくりと引き寄せる。それからへたくそに撫ぜてやる。抱きしめはしない。それが許されているのはコージィだけだから。
「……ごめんな」
 ぽつりと僕は謝った。僕らは謝ってばかりいる。高校になってから、その頻度は増したように思う。ふーこは少しして、
「…………ふふ、こーすけったら、へんだねぇ、ねぇコージィ」
 そんな風にいつもの調子に戻ってしまった。ねぇコージィ、と焦がした蜜の色の彼に笑いかける。ようやっと笑った。そのことにすこしほっとする。コージィには感謝してもし足りない。偉大だ。
 子供でいたがりのふーこ。僕の幼馴染み。大人になることを嫌う子。コージィがいなければ笑いもしない。ふーこ。色んな感情を忘れたがる。ままごとみたいに生きている。人嫌いのくせに、僕の傍にはやってくる。どうしようもない。どうしようもないけど、でも、それは僕も同じだ。大人になりきれない。子供を脱ぎきれない。ぬるま湯にどっぷり浸かって甘えきったまま、持て余した感情の行方を決めかねる。進めないのは、僕も同じだ。だけど。
「食ったなら、帰るぞ」
「もー、せっかちですねー、ねーコージィ」
 だけど、少なくとも、僕らは本当は知っているんだ。見ないふりも、知らないふりも、気付かないふりも、もう追いつかなくなるほど。僕も、ふーこだって、知っている。ふーこが厭うこの感情。コージィが持たないそれ、継ぎはぎだらけの世界を壊すような、言葉。
(ふーこ、)


 
こ ど も ご っ こ すきだよ、




 

(すきだよ、)
(ほんとは、)
(手をにぎりそこねたあの日から、ずっと)




thanks title by トロールとスヌスさま




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