どれほど嘆こうと、もうこの声は届かない。 えいえんに。
うつくしいひとだった。 金の髪はとろけるように白く透け、陽の光をたっぷりと吸い込んだ瞳は夏の空のような青。身につけるすべてがきらめかしく、花一輪すら恥じるように艶やかにこうべを垂れた。差し出す方が後悔して、けれども貰うそのひとの手は嘘のように真白で、ありがとうと惜しげもなく甘い声を零す唇に思わず頬が赤くなる。そのようなひとだった。 ラジェは走る。 衣の裾をからげ、幾度も転びそうになりながら、それでも走った。 いつか、あのひとが一粒だけの涙を流していたことがある。ぽつり、と零れ落ちる様は息を呑むほどうつくしく、しかし身体中が金縛りにあったかのように哀しかった。 哀しかった。 そう、哀しかったのだ、ラジェは。あの日、あの時、何も言えずにただあのひとの握りしめた拳を、血の滲む前にほどくことしか出来なかった。それが。それが、哀しくて、痛くて、たまらなかった。 てんしさまがないている。 雷に打たれるように思った。あの瞬間。 ラジェは自分の愚かさと無力さを思い知った。
『花が好きなのですか』 尋ねたラジェに、あのひとは穏やかに微笑んで、ただ睫毛を伏せた。髪と同じ、今にもとけてしまいそうな、繊細な睫毛。どこもかしこもうつくしい芸術品のようだった。手折った百合の花の茎が目を逸らしたくなるほど眩しく、庭園に充満する甘い匂いに酔いそうだったことを覚えている。 『芽吹き、咲き落ち、枯れ逝く姿が良いのです』 つまりはすべてが、ということだろうか。 ぱちん、と剪定をしながら、ラジェはそんな風に思った。首を傾げると、そのひとはふるりと瞼を押し上げた。白いガーデンテーブルの上に並んだ色とりどりの焼き菓子や蜜菓子、砂糖菓子の類がこれほど似合うひとがどこにいるというのだろう。そこに佇むだけで世にも稀な絵を堪能しているような気分になる。 『咲き誇り、ではなくてですか?』 『花は、咲くことで一度、死ぬのですよ。そうして枯れる時にもう一度眠りにつく』 どきりとした。 まるで死を望むような口調だった。 ラジェはそれが少し怖くなって、天使を無理に引き止めるように豪奢な金の刺繍がなされた袖を掴んだ。そうするとうつくしいひとは驚いたような表情になって、困ったように微笑う。はなのはなしです、とこのひとにしてはたどたどしく宥められた。何だか余計に胸がざわめいて、ラジェはただ肩を落とした。きゅ、と唇を噛み締め、迷い、そうしていつもは呑み込む言葉を、そのときばかりは口にした。 『しなないでください』 陳腐な言葉だった。思った通り、吐く息のように白い沈黙が降りくる。何を言っているのだろう、とラジェの冷静な部分が嘲った。けれどもラジェは袖を掴む力を強くする。 『死ぬときは、どうか』 どうか? 自分が何を続けようとしているのか分からなかった。だというのに口は勝手に言葉を紡ぐ。 落とす。 『誰かに言ってしまわれてください』 自分に、とは言えない己がほんの少し、苦かった。相手も同様に感じたのか、近くで苦笑する気配がした。 『あなたに、ではなくてですか』 『……あなたが、言っても良いと思える相手が良いのです』 だって、きっと、言ってくれない。 そういうひとだと、ラジェは知っていた。それほど自分に対してこのうつくしいひとが感心を持ってくれているとも思えなかった。 強がりは痛くて、苦しくて、それでも微かに幸せでうっすらと唇に笑みを刷く。よわい吐息が耳朶を掠め、テーブルに並ぶ菓子よりも甘い声が、ちいさくつぶやいた。 『……あなたは、眠る骸よりも高潔ですね』 ラジェには、未だにその呟きの意味が分からない。
ばしゃん、と泥水が跳ねた。 革靴も衣服もどろどろに汚れ、走るたびに地に跡がつく。は、は、と荒くなる息が苦しい。それでもラジェは走った。 ——嘘だ、とは思わなかった。けれども、間に合えとばかり願った。 ラジェは神を信用しない。それでもたったひとりの天使を信じている。 「……っ、」 ぼろ、と何か脆いものが目の端から溢れた。それは雫になって、昨日の雨で溜まった水たまりに紛れていく。 うつくしいひとがいた。 白い布がふわりと風に浮かび、そのひとを運ぶ男達の手をわずらわせ、金の髪と混じった赤黒いものを覗かせる。——ああ。 「アルバート様……っ!」 彼女は無我夢中でその天使のようなひとのもとまで駆け抜けた。驚く男達が輿を置き、彼女の肩を押しやろうとする。けれどもラジェは止まらなかった。 「アルバート様、ある、アルバートさ、ま……っ」 「君、おやめなさい、彼は、」 彼女は聞かなかった。 ぎゅう、と白い布の上から彼にしがみつく。無様に泣き叫んでいると、誰かが何事か怒鳴った。それでもラジェは止まらなかった。そうしている間にいつの間にか誰もいなくなり、彼女はうつくしいひとと二人きりになっていた。 「……どうして、誰にも、言わずに、」 詰るように呻く。ひっく、と喉が鳴った。喘鳴に声が溶ける。 言えるわけがない。いつ死ぬのかなんて、彼にだって分からなかっただろう。それでも言わずにいられなかった。 ひどい。 こんなのは、あんまりだ。 「そりゃあ、あなたは、ろ、ろくな、死に方、しないって、思ってました、けど」 それでも、誰かに何か言って欲しかった。私でなくても良かったのに。誰だって。 あなたに、あなたが大切に想う、最後の一線のようなひとがいたら良かった。 「アルバートさ、ま……」 「…………ぅ」 ——微かな声が聞こえた。 いつもの甘い声ではなく、どこかひびわれた、ひどい声だった。 ラジェは目を見開いた。 「あ、アルバート様……?!」 ばっと白布を剥ぐ。もう目も開かない様子の彼は、血に汚れた唇を震えるように動かした。 「あなた、に、いいたか、たん、です……が……」 「……っ、やめてください! 今、人を、」 「さいご、まで言えません、でした、が」 「やめ、」 さいご、なんて。 凍り付く彼女に、うつくしいひとは、この上なく綺麗に微笑んだ。 「あいしていました。はなのように、ひどく、高潔で、つよい、あなたを」
あいしていました。
そう、彼は天使のような顔で、繰り返した。呆然とするラジェの前で金の睫毛ははたりと閉じ、汚れた腕はぱたりと地に落ちた。 ——どうして、そんなことを言うのですか。 「や、……アルバート、さま……ま、って」 ぼろぼろと嘘みたいに透明な雫が溢れ落ちる。ぽた、ぽたと地に染みを作った。 ああ。ひどい。
私もあいしていたのに。
声もなく泣くラジェの背に、羽根はなかった。 だから彼についてなんていけない。 何もかもが混濁する頭の中で、彼女は想った。
————しなないで、ほしかったんです。ずっと。
ずっと、あなたがすきだった。
ラジェがあいした天使のようにうつくしいひとは、もう微笑んではくれない。ただ眠るように静かに瞼を降ろし、声すら届かぬ場所へととけた。 枯れ逝く花のように、酷く。
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