ラズ=ベールズ

 

 

 

 

 ゴミ捨て場は何だか絶望的なまでに口に入れられるものがなかったので市場の安い林檎をひとつ盗んだ。

 

 あたしはラズ=ベールズ。昔読んだ本の主人公の名前を勝手に貰った。名前はなかったから。名前もないような一レーンでも売れない痩せっぽちな子供に何で識字能力があってさらに本なんて高級品を目にしたことがあるかと言えば、その昔金にしか目がない神父の体面だけを気にした慈善事業で読み物会が開かれた時に聴いたからだ。聴いたって言っても、いくら慈善事業だって、浮浪児には優しくない。だから大抵のあたしみたいな子供はそんなものお目にかかれないし触れないけど、寒くて死にそうだった夜に適当に忍び込んだ教会でその読み物会が丁度開かれていて、神父が居眠りして他の多分お金を握らせた神官に全部任せていた時に、こっそりひっそり勝手に拝借したって訳だ。ああ識字能力の方は、どうやらそういう然して役に立たない才能だけはあったらしく、とりあえず本の全文を覚えてその後花街で酔っぱらったお貴族様に擦り寄って簡単な文法を教えてもらっただけだから、本当のところいまいち内容は分かっていない。ただ、主人公の名前がラズ=ベールズってことだけは分かったんで、丁度いいしそれを貰ったっていう、これまたそれだけの話。

 あたしは孤児だ。浮浪児。なんにも持たない、貧民窟にいくらでも、掃いて捨てるほどいる痩せっぽちな子供。別にそれは大した問題じゃない。それを悲観ぶるほどあたしの人生に花はなかったからとりあえず生きているだけで御の字だろう。誰にかは知らないけど。もちろん神な訳はない。

 で、あたしが今、何に困っているかというと、言葉だ。

 ここは異国。あたしが生まれてゴミを食べて過ごした国じゃない。ゴミを漁るのは同じだけど、眼の色も髪も言葉も違う、いっとう生き難い場所。

 何で異国って訊かれたら、まぁ普通に人買いにうっかり見つかって攫われて異国まで連れてこられたは良いけど異国の検問を抜けたところで人買いどもが盗賊なんぞに襲われて、命からがら意味も分からず逃げ出したら、路地裏で死体の如く転がってたっていう、しょうもない理由でだ。ちなみにちゃんと奴隷の焼き印もある。もうめっちゃくちゃ痛かった。何であの時気を失わなかったのか、自分の無駄なしぶとさにうんざりした。ていうか今もたまにひりひりするし、背中をさすれば嫌な感触がするし、死ななかったのが不思議なくらいだ。人間って思ってた以上に丈夫らしい。結構なことだ。

 そうは言っても売られたり売られそうになったりで異国に来てしまう子供なんてざらに居る。もしかしたら孤児の半分はそういう奴らかもしれない。拉致するなら何も孤児じゃなくたって、ちょっと小綺麗な、それこそお貴族様の子供だって良いんだ。人買いにとっては売値が上がれば上がるほど儲けるんだから、そりゃ綺麗な顔したそれなりのの方が良いんだろう。それで売れなかったりあたしみたいに盗賊騒動なんかでこっちに流れちゃった子も多いと思う。まぁそんなもんだ。そのうち死ぬか悪党になるかだから、そうなっちゃったら元の身分は大して関係ない。ここは地獄か天国か。そんなことを言えるのは悪党の中の悪党の元締めみたいな儲け者か、花街で美女に鼻の下伸ばしてる親父くらいだろう。そりゃ天国だよ、少なくとも綺麗なお姉ちゃん侍らしてちょっとすんごいお金払っただけでさいなら出来るんだからさ。悪党の方はどうか知れないけど。

 まぁそんなことはどうでもいい。とりあえず真っ平らの胸と大抵の人間を見上げるしかない身長、それとそもそもの年齢からして娼館まで連れ去られることはないだろう。女とも知れない顔だし、美醜の区別もつかないほど汚れてるから。ていうか、じっとしてればきっとゴミか死体かと間違えてくれる。ゴミ。そうゴミだ。こういうきったない貧民窟には生ゴミやら何やらがごっそり路地裏に捨ててある。だから大抵あたしはそういうところを漁って、もう味とかさっぱりな不味いって言葉を使うのも失礼なくらいの一応胃に入れられるものを食べる。盗みってのは滅多にしない。道徳とかそういうふくふく顔の神父さんがもっともらしく説教する精神からじゃなくて、危ないから。大して食べてもいないあたしが果物一つ盗んで逃げ切るのは結構骨だ。実際何度も首掴まれて地面に叩き付けられたし、またもや売られそうにもなった。でも相手はただの売り物業だからそんなに力はない。ので、一応あたしは生きている。だけど危ないことには変わりないし、成功した試しはない。だから、たぶん、今日のあたしはめちゃくちゃついていた。ていうか、空腹と落胆と衝動的な憤りのせいでもうなんか死んでもいいやってくらいむちゃくちゃに突っ走ったから、林檎盗めたんだと思う。でももう既にあたしはへとへとで死にそうだった。林檎。林檎、一個だ。ひとつだけ。きっとあたし、これを一個丸ごと食べてもお腹は膨れない。でも少なくとも全部は食べないと明日には死んでいる気がする。

 だっていうのにあたしの運っていうのはまったく弱っちいらしい。

 目の前であたし同様死にそうな女の子が、何だか涎であたし殺されるんじゃないのってくらい物欲しそうにあたしの林檎を見てきていた。

 あたしは動けなくて、ていうか動く気力もなくて、地面にへばりついたまま、でっかいゴミ箱にもたれるようにして、ぽげらっと彼女を見る。彼女もあたしを見る。見る、見る、見る。見続ける。でもあたしより空腹で昇天しそうらしい彼女はぴくりとも動けず死んだ魚同然の眼で、いやむしろどうしてあたしあの子が死体じゃないと気付けたんだと自分を殴りたくなる様子で倒れている。

 ……ああ、もう。

 あたしはぼと、と横に倒れ、そのまま何とか這って彼女に近づいた。女の子の青い目は何の色も宿さない。昏い、なんて面白いことも言えない本当に何もない眼。

 あたしは爪を立てて林檎を割った。不格好な片方を女の子の口に押し付ける。そうする一方でがじ、と林檎をかじった。不味い。くそ、あんなになってまで盗んだのにこんなもんだなんて、割に合わない。でも食べる。ゴミよりマシ。

「……、……?」

 しゃがれた呻き声が聞こえた。かろうじて。あたしは億劫に声がした方を見る。もちろん女の子だ。ばらけた金髪。

「……ぁに」

 久しぶりに喋った。だからあたしの声も酷いもんだった。というより喋っただけで喉が酷いことになった。けほ、と軽い咳が出る。本当はもっと盛大にやりたいけど、そんな体力もない。頭がガンガンする。

「こ……た……て、……の?」

 これ食べていいの? だろうか。異国に来てもう大分経つ。最初はさっぱりだった言葉も、色んな人の怒鳴り声やら下卑た笑い声やらを様子や手振りを観ながら聴いているうちに、なんとなくなら分かるようになった。簡単なものだけだけど。

「……いい。だから、今、あげてる」

 それにしても上品な子だな、などとあたしは思った。孤児っていう奴は、食べ物とか金になるものを目の前に出されたら本能的に奪い取る。そんで、取り戻そうなんてされないように、礼も言わずにさっさと逃げる。なのにこの子は食べても良いのかなんて訊いてくるのだ。新入りかな。可哀想に。他人事のようにそんなことを思う。

 彼女はがっつく力もないのか震える顎をなんとか動かして林檎の半分を頬張った。あたしはぐるるるとお腹を鳴らしつつそれを見守った。正直、半端に食べてしまったせいで余計空腹がせっついてくる。このまま死んどきゃ良かった。馬鹿したな。今なら楽に死ねただろうに。

「…あ、……がと……う……」

 微かな声に、首だけで頷く。応えは求めないで欲しい。あんまり口を動かしたくない。面倒で、疲れる。

 でも当分は生きれてしまうだろう。もう暫くすればまた生ゴミも捨てられてくるだろうし、生存本能なんかのせいできっとあたしは取る物も取り敢えずそれにありつくんだ。あーあ。

 女の子はゆっくりと起き上がった。ふらふらしてるし、何で無理に起きるのかさっぱり理解出来なかったけど、それは本人の自由だ。あたしの体には関係ないし。

「う……あ、の、わた、し」

 未だ死んだ魚の眼で、それでも彼女は喋りかけてくる。あたしはぼんやりとそれを聴く。何であたしなんかに話しかけるんだろう。ちょっと不思議だったけど、やがてもしかしたら淋しかったのかもしれないということに思い至った。そりゃ、根っからの浮浪児じゃなかったら、心許ないとか以前に、恐いだろうし、人肌が恋しいもんだろう。あたしはそういう感情がいまいち理解出来ないけど、なんとなくは分かる。あたしだってどうしようもない気分になってがむしゃらに叫びたくなるようなことはある。気が狂いそうになる、それくらいの理性は。だってあたしはきっと、こういう子供の中ではそれなりに恵まれた方だ。殺人者は居ても殺人鬼は居ない。路地裏で死んだようにしてればわざわざ殴りにやってくる奴も居ない。ここの、っていってもほとんど無法地帯と変わんないけど一応いる総元締めだって、多分あたしの存在はなんか見たことある、程度のもんだろう。まぁ今日派手にやっちゃったから今度締められるかもだけど。ちょっと格上ぶってる破落戸どもも、あたしなんて虫よりどうでも良いに決まってるから、そこも問題ない。これまた今日のことでご破算かもだけど。でも、死んじゃってもいいかな、と思えるくらいの余裕はある。うん。恵まれてる。こういう言い方は変かもしれないけど他に知らないから仕方ない。

 淋しくて。恋しくて。誰かの体温が欲しくて。そういう感情を、この女の子が持っていても別に不思議じゃない。当然だ。だって、もしあたしの予想がちょっとでも当たるなら、きっと傍にひとりくらいは家族か家族みたいなものかなんかがいて、そういう相手を信頼するくらいは出来た筈だ。そういう場所に居た筈だ。なのにこの子は今こんなに死にそうでひとり。そら何だかきったない人なのかゴミなのか分かんないような奴とでも話したくなるってもんだろう。

「わ、た——し、」

 舌が絡まるのか、上手く喋れないのがもどかしいと言うように、彼女はぴくぴくと眉を痙攣させる。正常な状態なら、眉を寄せる、ってとこか。

 あたしは彼女が満足に喋るまで待った。ぼんやり、たぶん、死んだような眼で。

「マー、ラ。あ……た、は?」

 まーら。

 聞いたことがない。だからきっと名前だ。たぶん。で、今あたしは逆に名前を訊かれた。たぶん。

 ……たぶん。

「……ら、ず」

 あたしはなんとかそれだけ言った。女の子はぼうっとあたしを見て、緩く緩く瞬きをして、ふっと口許を緩めた。緩めた、んだと思う。本当にところ大分不格好な笑みとは分からない笑みだったけど。

「ラ、ズ。あり……と、う」

 お礼。

 二度目だ。

 あたしはぼうっとして、彼女を見た。くらくらする、と思った。次の瞬間には、あたしはばたりと倒れていた。

 なんか限界だったらしい。

 

 

 

 眼が覚めると碧の眼があたしを覗き込んでいた。

 何も言えず、そもそも何も考えられず、停止する。……誰、これ? マーラじゃない。さすがに昨日、気絶する前に見た顔くらい覚えている。おきた、と。たぶんそのようなことを呟いて、碧の眼は離れていった。何なんだろう。……あれ、ていうか。

 どこだここ。

 むくりと体を起こしてみると、いまいち見覚えのない路地だった。あたしが居た覚えのあるあの貧民窟とそんなには変わらないけど、ほんのちょっと活気がある感じ。たぶん、あたしなんかじゃ盗みも成功しないような。その程度は、人の気配のある場所。

「ラズ! おき、た」

 しゃがれた声が苦し気に叫んだ。どうも聞き覚えがなくもないそれに促されて振り向くと、幾分生気の戻った顔のマーラだった。ぱちくりと瞬いて、あたしはここはどこだといったようなことを、この国の言葉で言う。発音はあんまりよろしくなかった。と思う。マーラはちょっと首を傾け、ああと次に振り、払ったら吹き飛びそうな弱さであたしの手を掴んだ。がりがりの手。指。腕。こけた頬。よくよく見ると、マーラの姿はすこぶる危うい。よくこれで生き残れていたものだと妙な感心をしてしまう。

「ここ、は、ガーゲル。メラ、の、となり、くら、い。ジャス、が、締めて、る」

 がーげる、とめらは、多分地名で、ジャスが人名だろうか。締めてる、っていうのはあたしが思ってるのと同じでいいのか、ちょっと判断がつかないけど逆らわない方が良い奴だってことだけは分かった。

 あたしは周りを見回した。さっきの碧の眼。陽に透ける茶色の髪の女の子が何人かの男の子と女の子を連れてやってきた。ぽかんとしているとぎゅうと抱きしめられた。うわ何これ。

「ありがと、あんたが、マーラを助けてくれた」

「……?」

 なんかよく分かんない。

 あたしは助けを求めてマーラを見た。でもマーラはにこにこするだけでなんかこっちもよく分かんない。仕方ないからあたしは自分で考えた。マーラ。マーラを助けた? 林檎のことか。で、そんなことを言ってくるってことは考えるまでもなくこの碧の眼がマーラの知り合いで、もしかしたら家族みたいなもの。

「……マーラ、何であっちに?」

「前に、攫われた。マーラは美味しそうだったから。それからずっと死んでたと思ってたけど、案外近くに戻ってきてて、たまたまルーヴァが見つけたから、連れてきてくれたの」

 ルーヴァってのも仲間なんだろう。近くに、って、マーラは逃げてきたのか? 自力で? それはまた。

「すごい」

「よね。マーラ、どうやって逃げたのって訊いたら、相手は酔っぱらいの盗賊で、そこまで遠くまでは行ってなかったし、途中で憲兵がひっ捕らえたのから転がって気付いたらメラまで来てた、なんて言うのよ」

 なるほど火事場の馬鹿力。あたしと似たようなもんか。

 あたしはふらりとマーラを見た。暫し、無言で。そうしてほうと息がしやすくなる。あたしは笑った。酷く歪に、でも精一杯。

「マーラ、よかったね」

 攫われたら、探したりはしない。浮浪児っていうのはそういうもんだし、そんなこと出来る余裕のある人間なんて居ない。だからこの子達がマーラを探しに行かなかったのも分かる。別におかしくはない。だからきっとマーラもそれを気にしちゃいないんだろうし、今でもマーラにとっては大事な人達なんだろう。家族みたいな。だから。

 だから、良かった、とあたしは思う。マーラ。良かったね。

 ほろ、とマーラの目のふちから水が溢れた。涙だ。そんなものを見るのは焼き印を押される時以来かもしれない。珍しい。

「わ、マーラ?」

「う、よか、った。あり、と」

 息苦しそうにマーラはまたお礼を言った。三度目。お礼を言うのが好きな子だ。あたしは首を傾げて、みずがもったいない、というようなことを、大分つたない口調で言った。

 それから、あたしは暫くマーラ達の世話になった。林檎のお礼、なんだそうだ。何だか随分貧民窟らしくない。そう思ったら、ここは一応ふぁみりあだから、と言われた。どういう意味だろう。ふぁみりあ。知らない単語だった。

 碧の眼はラリエといった。たぶん。あたしの耳が間違ってなければそれで合ってる。ラリエはますます浮浪児らしくなかった。彼女は夢見るように微笑いながら、うっとりとあたし達に王子様がね、なんて言う。

「王子様が、迎えに来てくれたらいいのに。そしたらぜったい、幸せになれるもの」

 どうして、とあたしが訊くと、だって王子様だもん、とよく分からない返事が返ってくる。どういう意味だそりゃ。

「王子様はね、助けてくれるのよ。見つけてくれさえすれば。だって王子様はそういう人だもの」

 マーラが困ったように笑う。他の子達は、どうでも良さそうに、でも悪くはなさそうに聞いている。あたしとしては今日のごはんが獲れるかどうかの方が問題だったけど、一応ちゃんと聞いておく。

「良い子だったら王子様はお姫様にしてくれる。王子様が選ぶのはお姫様だから」

 うっとりと、そんな調子でラリエの言葉は続く。夢見るように。ともすれば必死に。

 あたしはふぅんと思った。王子様、かぁ。

 とりあえず、ラリエは王子様に迎えにきて欲しいんだなぁ、とそんなことは分かった。たぶん。

 

 

 あたしはマーラ達の、ふぁみりあってとこで、それなりに世話になってから、でもやっぱり帰ることにした。ここはとても過ごしやすいのかもしれないけれど、たぶんあたしみたいなのは居ちゃいけない。あたしは良い子じゃないし、同じ浮浪児でもやっぱりちょっと違う人間なんだと思う。ふぁみりあの人間でもないから、ずっと居座るのはきっと、何か悪いことが起きる気がする。あくまで気がする、だけど。でもあたしが生きてきたのはあのどうしようもないほっとんど無法地帯で、林檎一つ盗むのに苦労するようなところだ。マーラにあんな場所は似合わないように、あたしもふぁみりあは似合わない。というか、勿体ない。あたしなんかが居たら本当にまずい。そういう空気は、なんとなく分かる。こういうのを、鼻が利くって言うんだろう。

 そういう訳でみんなと別れて、よく分かんない道を適当に歩いた。お腹空いた。ああもう何で人間はお腹が空くんだろう。なんて無駄な機能。お腹が空くと人は動くのが億劫になるもんだ。力が出なくて。

 また行き倒れそうになって、ふと心臓が撫で上げられるみたいな嫌な感じがした。比較的、少なくともあたしが居た、えぇとメラよりずっとマシな路地裏。で、振り向く。

 碧、の、眼。

 ラリエと同じ、茶の髪。でも、違う、人。眼が。

 その、同じ碧の、眼が。昏く、淀んで、輝く。

 痩せこけて刃物なんか振り回している人。あたしに、向かってくる。

 ああ、この人、同じ生き物を殺すのが、好きな人間だ、とあたしは何の感慨もなく思った。死ぬんだ、痛そう。そんなことをあっさり思った。なのに。

 なのに、足は、走り出す。吊るされた人参目がけて遁走する馬みたいに奔る。爪が割れた。痛い。でも走る。息が出来ない。苦しい。死にそう。でも走る。ああ。

 何で、あたし、死なないんだろう。

「…………ッ」

 がつ、と石畳のへこみに親指が引っかかった。勢いよく地面に倒れる。膝も肘も頬も擦り剥けてじんじんする。でもその感触もひどく曖昧だ。歪む。顔が。視界が。ぐにゃりと歪むのが、分かった。これは痛いからか。それとも今から振り下ろされる刃物が怖いからか。

 どっちもだ、と心の中のあたしが言う。どうせ、あたしは人なのだから。怖いんだよ、と。醜い生存本能だ、とせせら笑う。あたしもわらう。嗤う。ああ、その通りだ。

 酷い叫び声が聞こえた。くる。思った。今、きっと、この一瞬で、あたし死ぬ。

 だけど。

「ぐあああああっ!」

 再び奇声が上がり、ふうと恐怖が薄らぐ。あたしの上に降り掛かっていた影がない。這うようにして起き上がると、何だか高価(たか)そうな恰好の人が刃物を持っていた人の両腕を締め上げていた。助かった、らしい。何だろう。あの人は、もう眼をつけられていた人なんだろうか。わらわらと憲兵みたいな服を来た人達が出てきてあの人を引っ立てた。やっぱり、そうらしい。たぶん逃げていたのを追ってたんだ。じゃなきゃこんな上手い具合に助かる訳がない。……助かっただけでも、奇跡みたいだけど。

 高価そうな人がこっちを向く。どうでも良さそうな眼で、でもやってくる。え、何で。ひやりとした。あたしも、捕まるんだろうか。

「……生きてる、な」

 眉をひそめて彼は言った。きらきらした金髪が揺れる。あたしはちょっと動揺した。生きてる。うん。生きてる。駄目、なんだろうか。怖い。

 自然に怖いと思ってしまってから、あたしはああと息を吐き出した。ラリエを思う。王子様。そのような何かに夢を抱いていた女の子。たぶん、それがラリエの支えだった。どんなに仲間が居ても、自分を保つのはとても苦しいものなんだろう。それもこんな刃物を振り回してくるような人が居る場所では、特に。王子様が迎えにきてくれる。そうすれば安心して、幸せになれる。ぜったい。それはきっと、祈るような言葉だ。願い、祈り、ほんの一時でも希望のかけらみたいにして、支えに思う為のことば。正直、あたしは王子様なんかお貴族様の親玉のようなものの息子で、だから会ったらきっと捕まえられるなんてことを思うような人間だ。あたしは悪党だ。悪党の居る場所に流れて、生きる為にものを盗む。それは誰かにとってのごはんで、あんな不味い林檎一個でも、彼らが生きる為の糧だった。でもあたしはあたしの為に林檎を盗む。そして何の躊躇もなく食べるんだ。だからあたしは良い子なんかじゃない。もうきれいなきれいな人から見ればただの盗人で、咎人で、捕まえて人体実験でも何でもしていい存在だ。そもそも国民ですらないんだから。だから王子様になんか会いたくないし、それは死にたくないなんて馬鹿みたいな思いに似ている。でも。でも、ラリエのもとには訪れれば良いと思う。お伽噺みたいに優しいラリエやマーラの王子様が、彼女達を救ってやればいいのにと思う。だってまだ、あの子達はあんなに必死に祈ってる。願ってる。無理だって知ってて、でも捨て切れずに、良い子で。良い子のもとに、王子様がくればいいのに。たとえばあたしを捕まえた後でもいいから、助けてくれればいい。あの貧民窟でなお優しくあるひと達を。

「娘、」

 きらきらの髪の人が言った。むすめ。女の子、ってことだ。あたしは向こうではくそがきとかおいとかしか呼ばれなかったから、それがあたしのことだって気付くのに随分かかった。むすめ。あたしのことだった。びっくりして、きらきらの人を見上げる。この人、何であたしが女だって分かったんだろう。すごい。

「……異国の、ものか?」

 あたしはびくっとした。いこく。異国、だ。つまりは不法侵入だって、たぶん気付かれた。でも仕方ないじゃないか、あたしは人買いに連れられて来たんだから。そんな言い訳がちょっとだけ渦巻く。でもすぐに消えた。そんなことは捕らえる方には関係ないんだから。

 あたしは頷いた。すると今度はきらきらの人の方があからさまに驚く。

「おまえ、ことばが分かるのか」

 あたしはちょっと眉をひくつかせた。何を言っているんだろうこの人は。当たり前じゃないか。そうでなくてどうやってここで生きていく。どうやって死なずに過ごせるんだ。

「……生まれた時からここにいるのか」

「……ち、が」

 大分前だけど、もとの国の言葉の方が分かる、みたいな感じのことをあたしはぼそぼそと呟いた。きらきらの人は何か考えるみたいだった。あたしはと言うと、もう何でもいいから早く逃げてしまいたかった。怖い。きらきらの人が、怖い。だって、あたしは盗人だから、バレたら捕まる。それって、たぶん、痛いことされるってことだ。だから嫌。あたしは昔から、死んでもいいかなとか思うくせに、痛いのは嫌いだった。

 ふと碧の眼の刃物の人がぎらついた眼差しでこっちを見た。ぞわっとした。あたしはきらきらの人に碧が、と枯れた声を振り絞った。きらきらの人は流れるように振り向いて、何か黒いものを投げた。カード、みたいだった。その文字を垣間見る。遠目に。

「……つみ、びとに、ば……つ、を?」

 たぶん、カードにはそんなことが刻まれていた。と、胸ぐらを掴まれる。驚いてろくに動かない瞼を限界まで開くと、きらきらの人の、マーラよりさらに深く透き通った青の眼が間近に見えた。夜に向かう空の色よりも綺麗だった。

「……なぜ、読める。異国の、そも孤児が」

「……ぇ……」

 あたしははっとした。これはあたしの癖だ。文字を見ると兎に角確認するみたいに読んでしまう。あたしはいっとう臆病な人間で、だからもし何か怖いことが書いてあったらさっさと逃げる為に。なるべく痛いのは嫌だった。痛いから。

 でもあれは読んじゃいけないものだったのかもしれない。あたしみたいな子供は特に。あたしは絶望的な気分でごめんなさいと零した。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。それ以外言えないみたいに、ずっと。やがてふわりと地面に落ちる。きらきらの人は険しい顔で、顎に手をやった。上品な仕草。

「……おまえ、賢しいな」

 さかしい。その言葉も、ふぁみりあ同様知らなかった。こんなきらきらした人が使う言葉は、大体貧民窟では知ってても使われないから、あたしの耳にも目にも入らない。ただ、殺すって意味じゃないんだろうなってことだけは分かって、何故かほっとした。

 きらきらした人が膝をつく。すると遠くから慌てるような声が上がった。あたしはとても高価そうな下衣を見て、これはなかなかまずいんじゃないかと思った。汚れてしまう。せっかくきらきらしてるのに。

「名は何と言う」

 ……名前を訊かれたのだと、あたしは一拍おいて気付いた。マーラの時以上に時間がかかった。強ばった頬骨と筋肉を震わすように動かす。らず。ラズ=ベールズ。あたしの名前。本から勝手に貰った、ラズ=ベールズ。

 きらきらした人はあたしの名前に口角を上げた。笑った、んだ。笑っても、きらきらした人は怖い。面白い、とその口が呟く。

「ではラズ。来い」

 手が。

 手が、出された。

 この手を取らなければ殺すという、そんな眼で。

 唇が戦慄く。怖い。なんて、怖い。茫然としながら、だけどあたしは醒めた頭で考えていた。一緒に行ったらどうなるんだろう。きっとどうしようもない目に合う。でも行かなくても同じだ。きっと叩くだけ叩かれて、結局連れていかれる。あたしみたいな人間に拒否権なんてない。そもそもこの人は「くるか」じゃなく「こい」って言ったんだ。それなら自分でついていった方が良い。なるべくなら、痛みは少ない方が良い。それこそどうしようもない諦めとあんなに生き汚くなってまだ死んでもいいかなどと嘯く心とで、結局あたしは手を伸ばした。

 きらきらした人が揺れるあたしの手首を掴む。ぐいと引っ張られて、勢いのままあたしは立ち上がらせられた。

 きらきらした人は凶悪に笑った。そうしてあたしを抱え上げる。心臓がひっくり返りそうになるようなことだったけど、あたしは最早どうでも良かった。そうして彼はあたしの額に自分のを合わせた。がつん、と鳴り合う。痛い。

「おまえには先ず林檎をやろう」

 ヘンなことを言い出した。あたしはさすがに訝しんで、なんで、とがらがら声で訊く。きらきらの人は当然のことを訊かれたみたいな顔をした。

「おまえの眼は林檎と同じだろう」

 もしかして見たこともないのか。そう続く声は少々不機嫌そうだったからあたしはびくっとして、急いで首を振る。

 そう。そうだ。あたしの眼は赤い。故郷では不吉とされた色。

 だからあたしは直ぐ捨てられた。だから名前はなかった。

 マーラも、ラリエ達も、だけどあたしの眼に何も言わなかった。優しかったからか、もしくは眼の色も分からないほど汚れていたからかもしれない。でも少なくともあたしはそれで、とても救われた。こんな盗人で打ち首にされてもおかしくない人間にありがとうなんて言ってくれたひと達。ああ。

 あたしはたぶん、あのひと達が、とても好きだった。

「上手い林檎をやろう。口に合わなかったら身も蓋もないがな」

 きらきらの人は不遜に笑って、あたしに囁いた。今日から、おまえは俺のものになった。とても楽し気だ。玩具を手に入れたみたいなもんだろうか。玩具なんて見たこともないけど。

 これからどうなるんだろう。あたしは何をされるんだろう。捕まるんだろうか。だけど、手錠はされない。じゃあ、何をされるだろう。ぼんやりときらきらした人を見て、でも、何故かもうそんなに恐くないことに気付いた。きらきらした人は、一度もあたしをぶっていない。きらきらしているのに。

 だからかもしれなかった。

 あたしは、ちいさく、とてもちいさく、彼に言った。

「なま、え」

 単音。何故か舌が上手く回らない。会ったばかりのマーラみたいだ。でもきらきらした人はあたしの言葉の意味を完璧に察して、今度はひどく機嫌が良さそうになった。嬉しそうな顔で答える。

「ゼファルド=アードリィスだ。ゆめ忘れるな」

 それは、あたしが初めて自分から尋ねた人の、名前だった。

 

 

 

 いつか、あたしが心の底からあいし手を握るひとの名前。

 

 

 

 

 

 


 

みんなで100題チャレンジ! 企画に参加させていただきました。ありがとうございました!
使用お題:018 異国

 

 

 

 

  

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