今日も、空は見えない。

 一つだけ、通路側に取りつけられているらしい鉄枠の窓からすら、光はない。だから今日も目を開いて映るのは闇だけだ。瞼の裏にまで灼き着いた真っ暗の闇。

 彼女はそっと息を吐いて俯いた。鼻の辺り、ざらりとした布の感触。ほんの少し前まであれほど不快だった、この額から鼻の下あたりまでを覆い、微かな異臭を放つ目隠しにも、危うく存在を忘れかけるほど慣れてしまった。投げ出した両足が冷え、唇はかさついている。冷たい石の気配。ときどき水の音がする。かつん、と投げやりな足音。

 彼女は目隠しの内側で、はっと目を見開いた。

 金属のこすれる音が鳴り、ぎいい、と、おそらく、鉄格子が開いた。

「……飯だ」

 無愛想な少年の声が、ひどく不快げに吐き捨てた。

 

 

 

 


 

  星落ちる夜が明けるまで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうしてこんなことになったのか。思い起こせばその原因はすぐに勤め先と運と行いが悪かったのだと分かる。

 リゼルは二年前に片親だった父が死んで以来、ラヴィニア家の女中——いわゆるハウスメイドをしていた。とにかく失敗しないよう緊張し続けていた一年前と違い、大分気分も落ち着き、きつい仕事も一通りこなせるようになって久しいというその頃合いで、屋敷に盗賊が入ったのだ。それも最近巷を騒がせているという、貴族ばかりを狙う輩だった。

 夜のことだった。

 丁度最後の仕事を終え、布巾を片手に庭先から屋敷の中、つまりは女中部屋に戻ろうとしていた時だ。一瞬、月が翳った。翳ったのではなく人影に遮られたのだと気付いたのは見上げた少し手前の方で黒い闇にとける衣服の男——おそらく——が柵を飛び越えていたのを視認してからだった。ぽかんとする彼女より先で、なんとも時期の悪いことに、今の恋人との逢瀬を終えてこっそり帰ってきたらしい令嬢がその盗賊とばったり鉢合わせしてしまったのである。凍り付く少女の前で男が反射のように懐剣を抜き放ったのを見た時には、リゼルは知らず気付かず走り出していた。

 びり、と脳髄に痛みが走った。すぐさまそれは頬に収束し、じんじんと痛み出す。こらえる暇もなく涙が出て、後ずさった弾みに転倒した。したたかに頭を打ち、そこで彼女は問答無用で意識を手放したのだった。

 ————というわけで、次に気がついた時には既に目隠しをされ、冷たい石牢の中に放り込まれていたのだ。

「くち、開けろ」

 ひんやりした声が不機嫌に言って、温度のない手に顎を掴まれる。獣にするようにスプーンを突っ込まれた。最初は恐怖と嫌悪感でぴくりとも動けず痙攣するだけだったけれど、四日も過ぎれば慣れてしまって、リゼルは流されるように生温いスープを飲み込んだ。相変わらず、不味い。そんなことにも意識がいくようになった。

 布で両手を縛られているので自分で食べることができず、だからこうやって顔も見えない、多分同じくらいの少年に食べさせてもらうしかない。彼も彼で、嫌がりながらも当然のようにやるので、次第にどうでもよくなった。恥とか、相手のこととか、恐怖とか。そういうものなのだ、と頭が無意識に納得している。と、急に乱暴に何かを押し入れられた。

「ふ、ぐ」

「黙って食え」

 硬いパンだ。

 割りもしないでそのままくわえさせられたらしい。パン。今までずっと不味いスープしかもらえなかったのに、今日はパン。どうしてだろう。

 そういえば、ここはどの辺りなのだろうか。石牢なんてたかが盗賊のねぐらなんぞには普通ない。と、思う。それに噂では相当数の人間がいると聞く。住みついているのなら彼らの生活音が多少なりともあるだろうに全く聞こえてこない。それどころか会った人間も数人だ。会った、というより目覚めた時に話し合う声を聞いただけだったが。牢番もいないようだし、一体どうなっているのだろう。それとも本拠地とは距離があるのだろうか。

 もそもそとパンを噛みちぎりながらそんな益体もないことを考えた。どうして留め置かれているのかは分からないが、いずれは殺されるに違いないのだ。逃げることなんてできないし、その気概も体力もない。とりあえず庇った雇い主の娘はこの場に連れてこられていないようなので、その点だけは良かったと言える。どうしてかは、やっぱり分からない。

 最後の欠片を飲み下すと、じゃり、と音を立てて少年が動いた。視線を感じる。冷えた、視線。

「……あんたって本当、バカだな」

 憐れみと苛立ちと侮蔑の混ざった声だった。

 

 

 

 ……何であんなこと言われたんだろう。意味が分からない。

 夜になって、多分もうそろそろあの少年が食事を持ってくるだろう頃合いになって、彼女は漸くぽつんと思った。

 別に自分が馬鹿ではないなどとは思わないが、いささか唐突過ぎる気がする。というか捕虜にそんなこと言われても。もしかして捕まったことを馬鹿と言っていたのだろうか。それなら返す言葉もないのだが。

 そんなことをつらつらと考えているうちに彼は再びやってきた。いつも通り、無造作にスプーンを突っ込まれ、食べ終わるまで監視される。いつも通りだ。けれども。

「……あ、の」

 朝と違い、無言で少年が立ち去ろうとしたところを、彼女は思わず引き止めていた。一瞬空気が凍った。しまった、とリゼルも思った。捕虜が話しかけるなんて頭が高かった。青ざめる彼女の耳に、不快げな息が届いた。びくりと肩が揺れる。こ、怖い。

「……何だよ」

 リゼルは目隠しの奥で瞬いた。思いのほか、まともな返答だった。おそるおそる、ゆっくりと、口を開く。かさかさでろくな声も出せない口を。

「……あ、さ……のは……」

「朝?」

「どういう、意味、ですか」

 何を言っているんだこの女は、と言いた気な面倒そうな沈黙の後、ああ、と彼は漸く思い出してくれたようだった。皮肉げに笑う。

「気に障ったってか?」

「いえ……唐突、だったので。あの、わたし、何かしました、か」

 彼はまた黙ってしまった。居心地の悪い沈黙に、やっぱり良いですと言いかけ、不意に彼女は身を強ばらせた。

 近い。

 ほんの数歩、音もなく、彼はリゼルに近付いた。

「お嬢様庇って、代わりに連れてかれて、なのに庇ってやったお嬢様はあんたのことなんてすっかり忘れてる。ま、うちの奴らが暗示かけたのもあんだけど。けど使用人が一人消えたっていうのに届の一つ出しゃしねぇ。行方不明の噂すらない。そんなお貴族サマなんて庇ってさ、あんたって本当バカで、————可哀想だな」

 くつくつと嘲るように嗤われる。けれどもリゼルはただ、そうなんだ、と思うだけだった。そう、そうか、それじゃあお嬢様は無事なんだ。そっか。そんな風に。

 反応の薄い彼女の態度が不満だったのか、少年は短く舌打ちした。

「……何で何も言わないんだよ」

「あ、すみ、ません。でも、すごく納得、できたの、で」

「…………バカ?」

 浅いため息が降ってきた。近い、とまた、思う。多分、自分が考えている以上に、距離が近い。息遣いが届くほど。

 こんなに視界は暗いのに、このひとの顔があと少しで見えそうな気がする、ほど。

 やがて荒い靴音を響かせ、少年は出ていった。がしゃん、と錠をかけられる。静かな静かな闇が戻ってくる。リゼルは縛られた両手と両足を投げ出したまま、久しぶりに目隠しを煩わしく思った。ああ。

 ここは暗い。

 

 

 

 

 


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