気絶するように眠るのも慣れた。 寝ても覚めても真っ暗なものだから、夢と現の区別がつきにくい。冷たい空気が喉元を通り、緩やかに穏やかにリゼルを殺していくようだった。息をするのが少し苦しい。何しろ鼻は覆われているので。 「……飯だ」 毎回、判で押したような同じ言葉が、食事の合図。それで彼女は漸くはっきりと覚醒する。 「……くち」 発言が徐々に短くなってきている気がする。 かちゃかちゃと金属が鳴る音と、スプーンを突っ込まれる感触。それだけが頼り。視界は明確なほどの闇。微かな息遣い。肌を刺す欠片ばかりの緊張感。 「……っ、う」 「零すな」 「すみ、ませ」 「謝んな」 どうすれば。悄然とする。と、少年の気配がゆらりと動いた。粗雑な手つきでゆっくりと口許を拭われる。 ……リゼルはひどい違和感を感じた。 まるで、いたわるような、敵意のない、子供にするような穏やかさ。窺うようにそっと。冷たい手が人の熱を持つ。そのような。 「っあ、の」 声を出してから、一体自分は何を言うつもりだろうと口ごもる。言うことも、聞くことも、何ひとつない。自分は捕虜で、彼は盗賊。何か言ったところで一体何が分かると言うのだろう。 けれども暫くの沈黙の後、彼はため息のように呟いた。 「……何」 いつも通り温度のない、けれどいつもと違いどこか柔らかな声だった。会話続行を促す、声。リゼルは迷って、迷って、迷って、結局なんだかどうしようもないことを聞いた。 「あなたの名前、は」 なんですか、という言葉は、何故か上手く舌に乗せられなくて口の中で溶けて消えた。遠慮だったか、怯えだったか。自分でもよく分からない。少年は一瞬、手許を狂わせたらしくがしゃんと食器を鳴らした。多分皿とスプーンをぶつけたのだろう。 彼女はびくっと肩を揺らした。怒られる、だろうか。それとも鼻で嗤われるだけで済むだろうか。そんなリゼルの胸中と反して、彼はまた、息を洩らすように、ラグ、と答えた。ただ、それだけ。最初その意味が理解できずに目隠しの奥で瞬きをした。けれどもすぐに気付く。ラグ。少年の名前。 「ラグ、さん」 「さんはいらない。気持ち悪い」 「ラグ」 「そう。あんたは?」 え、と彼女はほんの少しばかり、驚いた。聞き間違いかとも思った。しかし彼の気配は答えを待つように微動だにしない。リゼルはおずおずと口を開いた。 「リゼル、です」 ラグの答えはふうん、だった。呼んではくれないらしい。何故だかそれがとても残念でならなかった。 そうこうしているうちに彼はふらりと立ち去っていった。知らず詰めていたらしい息を吐き出して、彼女はぼんやりと今知ったばかりの名を繰り返した。ラグ。神々の黄昏と、よく似た響きの名前だった。瞼を閉じて夜がくるまでの眠りにつく。この数日間はほとんど寝てばかりいる。そうしていないと少しだけ、気が狂いそうでもあったから。 夜になるとまた少年はやってくる。リゼルの食事を運ぶ為だけに。毎日スープばかりなのに生理現象はほとんどこない。体が少しおかしくなっているようだった。一度だけ訴えたことがあるけれど、示されたのは牢の奥にひっそりとある簡易式で、本当に、ただこの中に留め置いているだけなんだな、と虜囚の身ながら呆れてしまった。管理が杜撰すぎる気もする。 「……飯」 やっぱり言葉が縮んでいる。もう単語だけではないか。 無言で食べさせられた後、すぐにいなくなるかと思った少年は、何故かじっと黙ったまま残っていた。何故。リゼルはなんとなく気まずくなって、無意味に腰から後ずさった。幸い彼には気付かれなかったらしい、不意にラグが喋った。 「あんた、さ」 何だか歯にものが挟まったような、言いにくそうな口調だ。 「なんも聞かねぇのな」 リゼルは首を傾げた。質問の意味が分からない。 「何を、ですか」 「……何であんたが捕まったままなのか、とか」 ああ、と納得する。それは、確かに、気になってはいた。けれども聞いたところで答えてもらえるとはよもや思わなかったのだ。 「教えてくださるんですか」 ほろりと呟くと首肯する気配があった。目隠しをしているのだからできれば声に出して欲しいところなのだが。それにしてもどういう心の変化だろう。何故教えてくれる気になったのか。そちらの方が不思議だった。 「うちの盗賊が、貴族ばっか狙うので有名なの、知ってる?」 頷くと、あっそ、と彼はぶっきらぼうに呟き、ちょっと考え込んだ。らしい。それからまたぽつりぽつりと口を開く。 「俺は貧民街で落ちてたところを拾われただけだから、あんたの食事なんて運ぶくらいしか役のない下っ端なんだけど」 ……棘を感じる。もしかしてかなり面倒だったのだろうか。 「まあ、上下関係とかは特にない。例外は幹部連中の何人かだけの、バカな集まりだよ。けど、お頭だけは特別だ。逆らったり、お頭に迷惑かけたら即処分。で、今お頭は何人かの古株連れて出掛けてていない。あんたを連れてきたヤツは、連れてきたは良いけど勝手にどうこうすることはできない。だからお頭が帰ってきて、指示がくるまであんたは生きてる」 溜め込んでいたものを吐き出すように一気に言われ、頭の中を整理する。何だかすごく久しぶりに脳を使った気がした。 「……お嬢様は?」 「は? ああ、それはうちのヤツが記憶抜いて屋敷に戻したから」 「記憶を、抜く?」 何それ。 怪し気な薬か何かだろうか。と、リゼルの疑問に気付いたらしいラグが、ああ、と説明してくれる。 「なんかよく分かんねぇけど、暗示が得意なヤツがいてさ。自分達を見たことは忘れて、一人で部屋に戻れ、ってやつ。でもそれ相手が起きてないとできないから、早まって剣抜いたせいであんたは気絶して、そんでやむなく連れて帰ったらしい」 「……なんか、わたし……すごく、運が悪い気が……」 「気が、じゃなくて間違いなく悪いだろ」 リゼルは深いため息をついた。その通りである。それでは見ないふりをしていれば良かったのだ。まったく反射というのは恐ろしい。ここに捕らえられてから幾度も後悔してきたことを、彼女はもっと強く後悔した。 「そもそも、何だって庇ったりなんかしたんだ?」 心底不可解そうな声にぐっと詰まる。それはリゼルが自分に聞きたかった。ゆっくりゆっくり考える。やがてぽつりと声にした。 「よく、分かんないです。でも、多分、わたしがあのひとにお給料を貰っていたからだと思います。あのひとっていうか、あのひとのお家にですけど」 「給料?」 「はい。対価を貰っていたから、なんとなく、そうしなきゃいけないような気がしたんです」 実際は必要なかったようだけど。 ふうん、とまた、ラグは気のない相槌を打った。それから幾らかの話をした。こんな風に誰かと話をするのはすごく久しぶりのことだった。おかしいな、と頭の片隅で思う。おかしいな、わたしは今、盗賊と喋っているのに。どうしてこんなに気負わずにいられるんだろう。ふつりと会話が途切れて、ラグが牢から出ていくまで、リゼルはずっとラグの気配を手繰っていた。 それ以来夜の食事の時は、ラグは長いこと彼女と話をするようになった。どうしてだかは分からない。きっと彼の胸の中にしか答えはない。だからリゼルは捕虜らしく、ただ、請われるままに話をする。ぽつりぽつりと。そうしているうちに幾日か経ち、いつの間にか凝り固まっていた緊張のようなものは薄れていった。 そんなある日、妙に騒がしい足音が、幾つもやってきた。怒鳴り声と野卑な笑い、唾を吐く音。自然と身が硬くなる彼女の牢の、鉄格子越しにまで彼らはやってきた。 「へえ、これがディックスがポカして連れてきたって女?」 「目隠ししてちゃ顔分かんねぇじゃん」 「それ以前に服汚れ過ぎだろ。きったねー」 「おい! 勝手に入んなよ!」 口々に言う男達を叱りつける声にリゼルはほっと安堵してしまった。ラグだったから。 けれどもこの人達は一体何なのだろうか。盗賊の仲間であることは間違いないが、今までラグを除いて誰ひとりやってこなかったというのに、どうして今更。 「あん? うるっせぇなー、別に良いだろ? お前もさぁ、殴られたくなけりゃ黙ってろよ」 「良くねぇよ! 勝手なことすんなよ、後でお頭に殺されたいのか」 「だぁからぁ、お頭に見つかる前に味見しにきたんだろ?」 「そーそー。どうせ死ぬかお頭のもんになるかだろ。今のうちに遊んだっていいじゃん?」 「お頭にはバレるにきまってんだろ! 帰れよ!」 「バレねぇって! 生娘じゃありませんでしたーって報告すりゃいーもん」 ぎゃはは、と汚らしく嗤いさんざめく男の声が耳障りだった。心臓のあたりがひんやりとする。 ああ、怖い、な。 顔が青ざめるのが自分でも分かった。途方もない嫌悪感が押し寄せてくる。嫌だ。あの手が、声が、気配が、ほんの少しでも触れたら自分は気絶してしまうかもしれない。 がん、と鉄格子が揺れた。男の一人が蹴ったのだ。牢の奥の壁にぴったりと背中をくっつけるリゼルとは大分距離があるけれど、それでも怖いものは怖かった。 「暗くってぜんっぜん見えねー」 「おいラグ、開けろよここ」 「開けるわけねぇだろ! 俺はお前らと違ってお頭に殺されたくない」 「んだと腰抜け!」 鈍い音が破裂するようだった。殴ったのだ。おそらく。ラグが、殴られたのだ。 「生意気なんだよ! なに? 何、おまえ、まさかこの女食っちゃったわけ?」 「え、マジ? やぁっべお前お頭に殺されちゃうねー」 がん、がんと立て続けに鈍い音がする。心臓が逆撫でられたように震え上がった。ラグ。嫌。やめて。 ラグ。 「……っせぇんだよ」 低い、潰れた声が聞こえた。剣呑な空気が広がり、不快な笑声は止む。 「んなわけねぇだろ。どうせ明日にはお頭が帰ってくる。殺されるっつうんならお前らだって分かってんだろ、やばいって。さっさと失せろ」 吐き捨てるようにラグが言うと、誰かが舌打ちした。図星、なのかもしれない。 「萎えたー。もういーよ、いこうぜ」 「おー」 やがてぞろぞろと人が去っていく気配がした。途端にしん、と静まり返る。ラグ、と口の中で名前が絡げる。呼びかけたいのに、どうすれば良いのか分からない。今更ながら、自分は随分と動揺しているようだと遠く思う。 「……悪い」 不意にラグが呟いた。星が明滅するような小ささで。返事にまごついてしまったのをどう思ったのか、彼はいつもよりも沈んだ様子で、飯持ってくる、と続けた。 「ラグ。待って、ください。いい、です。食事は、もう、大丈夫、ですから」 正直、今、何かを胃にいれられるとは思わなかった。……思わないだけで、本当は食べられるかもしれなかったけれど。人間というのは何だかんだで生き汚い生き物だから。 でも、それでも、今はそんなことどうでも良かった。 「それ、より、怪我の手当てを。ラグ、はやく、手当てをしてください」 ああ。 リゼルはどうしてだか泣きそうになった。ひどい。いたい。ひどい。そういう、ほとんど意味のない言葉がこみ上げてきて、体の内側で濁流みたいに暴れまくる。ひどい。 ひどい、ひどい、ひどい。 どうして。 どうして、わたしのせいで、このひとが酷いことをされるんだろう。 盗賊の頭がどれほど怖い人間かは知らないが、それでも、あれはラグがリゼルを庇ってくれたのだと分かる。もちろん自分の為もあっただろう。けれども殴られる前に諦めたって良かったのだ。誤摩化す方法だって、きっと簡単に見つかった。だけどもラグはリゼルを庇ったのだ。多分、彼女にずっと抱かせていた違和感のようなもの、つまりはラグの優しさのような何かのせいで。 二年前に父が死んだ。それ以来ずっとあの屋敷に仕えてきた。父の印と役所で貰った形ばかりの紹介状で受け入れてもらえただけでも運が良かった。それほど素晴らしい職場ではなかったけれど、気をつけてさえいればほどほどに平和に暮らしてこれた。それでも。 こんな風に、誰かに庇ってもらうことなんてなかったのだ。 目隠しを外して欲しい、と思った。痛烈に。リゼルはラグに何もできない。そりゃあ、目隠しがなくたって、リゼルには何もできなかっただろう。けれどももし手枷も目隠しもなければ直ぐさまラグの殴られた場所に触れるのに。蹴られた場所に触れるのに。まるで意味のない、もしかしたら逆効果のことだと知っているけれど、そうしてしまいたかった。いつか、転んだリゼルに父が優しい言葉をくれた時のように。 「……あんたは、」 かちゃり、錠が開いた。こつ、こつとラグが近付いてくる。 体温が近い。 「ほんとに、ばかだな」 弱い声でラグが言ったとき、ほんの少し、やわらかいものがこめかみに触れた気がした。でも、多分気のせいだろう。黙り込んだラグは、暫くリゼルと同じように座ってじっとして、そうしてまたひっそりといなくなってしまったから。
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