珍しく食事の時間がずれた。 リゼルがもう眠っていた時にラグがやってきた。それもどこか張りつめたような緊張感を持って。真っ暗な中、何も見えないからか、余計に人の気配に敏感になっているらしい、リゼルは反射的に目を覚ましていた。 「ラグ?」 「……悪い。遅くなった」 「いえ、大丈夫です。あの……どうか、したんですか」 ラグは沈黙して無造作にリゼルの唇に触れた。ゆっくりと押し上げられる。慎重にスプーンを押し込まれた。いつもより闇が深いからだろう。今は深夜と言ってもそう差し支えない頃合いだろうなと当りをつける。 食べ終わった後、何故か乱暴に口の端を拭われた。ついていたのだろうか。……恥ずかしいというか、情けない。 ラグはやっぱり黙ったまま、牢の中に残っていた。この数日と違うことはなかなか喋り出さないことだ。不安になって手を伸ばしかけて、けれども筋肉が悲鳴をあげるように軋んだのでやめた。ずっと動いていないのだ。当たり前かもしれない。 「……俺は、貴族が嫌いだ」 ふと、零れ落ちるようにラグが言った。それはなんとなく感じていたことだったから、リゼルはそれほど驚かなかった。はい、と相槌を打つ。リゼルも貴族はそんなに好きではない。かと言って憎むほどではないけれど。 でも、ラグは憎むほどなのかもしれなかった。リゼルはラグのことをよく知っているわけではないから、本当のことは分からない。けれどもラグはいつも、リゼルの仕えていた家のことを皮肉げに蔑むように言う。そのたびに、貴族のことで嫌な思い出でもあるのだろうかとぼんやり考えた。 「貴族なんて屑ばっかだ」 そんなことをわたしに言われても、と思わなくもなかった。だいたいわたしは盗賊に捕まっているんですけど、とも。だけどなんとなく言えなくて、ただ頷いた。 けど、とラグが呻く。 「けど、盗賊だって、最低だ」 自虐的な響きだった。
翌朝、にわかにこの建物一体が騒がしくなったように感じて、リゼルはふらりと目を覚ました。気のせいではなく、遠くの方でばたばたと人が駆ける足音がし、驚いたことに人の声までした。今までこんなことはなかったのに。 「……なに……?」 「お頭が帰ってきたんだ」 リゼルはぎょっとした。ラグが来ていたのだ。……いつの間に。 慣れた風に牢の中に入ってきて、流れるように自然な仕草でスープを運んでくる。リゼルはひとくち含んでから目隠しの奥で瞠目した。なんか、いつもより、美味しい。 「あんたの処遇も今日か明日には決まる」 珍しく、食べさせている途中で、彼は口を開いた。リゼルはごくんと飲み下してから、そうですか、と言った。 「それでは、もうお別れですね」 まるで当然に、その言葉は零れ落ちた。自分でも少し驚いたけれど、それ以上にラグは衝撃を受けたようだった。気配が強ばり、スプーンを操る手が止まる。リゼルは彼の反応を訝しく感じつつ、どうやら自分はとっくに諦め癖がついていたらしいということに思い当たった。きっと本当に殺される時は無様に泣き叫ぶだろう。怖い、死にたくないと悲鳴をあげるのだ。けれども今はもう、絶対そうなるのだと、どうでも良いような気分になっていた。 「……まだ、分かんねぇよ」 妙な言葉だ。リゼルは眉を寄せた。どうして今更彼はこんなことを言うのだろう。何にしても空気が重くなったので、話題を変えることにした。 「あの、いつも思ってたんですけど、ここって全然人いないですよね。なのに、今日はあんなに……」 「ああ、ここは別塔みたいなもんだから。廃墟を勝手に盗って、隣んとこに本拠地がある。地下掘ってるから見つからない。で、こっちは基本的に酒とか食い物貯蔵してるから宴会の為に取りにきたんだろ」 「宴会……」 「お頭が、帰ってきたからな」 嫌なものを噛み締めて説き伏せるように彼は繰り返した。 ……それにしても。 「……あの、聞いたわたしが言うのも何ですけど、そんな内部事情、言ってしまって良いんですか?」 以前もすらすらと幹部がどうたらこうたらと教えてくれたが、これはかなりまずいのではなかろうか。 「……別に。あんた、どうせ一人じゃ逃げられないだろ」 尤もだった。
使用済みの食器を下げたラグを待っていたのはへべれけに酔っぱらった盗賊達と、首魁の巨体だった。 雑用係のラグは大抵ひとりで掃除をさせられている。というわけで、自分の仕事に振り分けられるだろう惨状を見て絶句した。どんだけ食って飲んでバカ騒いでんだ。この片付けは全て自分がやらなくてはいけないのかと思うと殺意が沸いてくる。朝っぱらから飲んだ暮れるのは勝手だが、それならそれで自分で後始末もして欲しい。 頂点に座する頭はよく出掛ける。その理由を朧げながらラグは知っていた。貴族ばかりを狙い、しかし死者は出さない手口の理由も。 馬鹿笑いと酒の匂い、普段よりは上等な食事の匂いが充満して気持ちが悪い。頻りと皿と酒瓶がぶつかり合う音がした。リゼルのいるあの牢の静けさとほど遠い悪徳の喧噪。 ふと、巨体と目が合った。 彼は不可解そうにラグを見て、隣にいる幹部の一人に何事か尋ねた。そこでああ、というように頷き、またラグを見る。卑しさを体現するような笑みが広がる。ラグは不快さを押し隠し、会釈をしてソースでどろどろに汚れた皿の山を持ち上げた。 盗賊の頭はラグを適当に拾ったが、毎度帰るたびに存在を忘れている。荒くれ者の中に彼のような未だ幼さを残す子供がうろついているのだから目につくのだろう、目が合えば必ず不思議そうになる。正直目をかけられるよりずっとましなので、特に不満はない。ラグは彼があまり好きではなかった。逃げ出してやろうかと思ったこともある。けれども逃げたところで何もならないし、幹部の一人には顔を覚えられている。リゼルの食事係をするよう言った男。名前は何と言っただろうか。思い出せない。 「……おう、……で……くぞ……」 急に巨体がだみ声を張り上げた。しかしざわめきに掻き消えてよく伝わってこない。面倒だが後で聞いてなかったのかと怒られてはかなわないので、一応耳を澄ます。 「——か——に、——」 最後の台詞のところで前方の男達が沸き上がった。ラグは嫌な予感がした。これは、まさか。 「いいか、野郎共! しっかり食っとけ、今夜襲撃だ!」 ラグの予想をしっかり肯定する部分だけ、いやにはっきりと耳に届いた。すぐに歓声に押し負けてしまったけれど。 襲撃する屋敷の名に、彼は微かに色をなくした。
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