人の気配がした。

 それはここ数日間ですっかり慣れたひとのもので、つまりはラグのものなのだった。けれども声がない。とうとう合図すら面倒になったのだろうか。

 ……ふと、妙な感じがした。

 いつもよりどこか焦ったような動き。かけ声もなく近付いてくる。これは本当にラグか。ラグなのだとしたら一体何があったのか。それともリゼルの勘違いなのか。

「……ラ、」

 ラグ、と呼びかけようとした時、ふっと両手が楽になった。

 …………え?

 するりと外れた布が手首を滑り、地面に落ちる。そう思ったら前側から囲うように周囲に熱気が増した。なに、と思う間もなく、

「……どう、して……」

 目隠しが外された。

 目の前に見知らぬ少年の顔がある。年の頃はリゼルと同じか、少し上か。適当に切られた短い髪は栗色をしていて、瞳は似たようで違う鳶の色。思った以上に痩せぎすだ。どこか疲れたような、もどかしいような、複雑な表情をしている。上手く視力が働かなくてあまりよく見えないけれど。

「……ラグ?」

 一瞬、違うかもしれないと思った。けれども見知らぬ少年が浅く頷くので、やっぱり彼はラグなのだ。

「————今なら、逃げれる」

「え?」

「早く、逃げろ。お頭達が帰ってくる前に」

「なに言って……、ラグ、そもそもどうしてこんな、」

 矢継ぎ早に投げられる言葉に頭での処理が上手く追いつかない。どういう、ことだ。どうしてこのひとは逃げろなんて言うのだろう。リゼルを逃がしたりなんかしたら、このひとは、多分。

 ごくん、と唾を飲んだ。弱った拳を握りしめる。

「できません」

「何で!」

「一人で逃げられやしないと言ったのはラグでしょう」

 それに、と続ける。

「こんなことをしたら、ラグ、あなたはただでは済まないのではないのですか。仮にも捕虜を逃がすだなんて、裏切り行為に等しい。たとえほとんど存在が知れ渡っていなくても」

 萎えた足ではきっとすぐ駄目になってしまうだろう。それでも頑張れば町の役所にまでは行けたかもしれない。だけどこのひとはどうなるのだ。

「わたしはあなたがとても好きだから、わたしのせいでそんな風になるのは、すごく嫌です」

 ちょっと笑って言うと、ラグは言葉をなくしたようだった。ふつりと重苦しいような沈黙が降る。けれどもやがて、彼はぽつりと呟いた。

「……あんたは、こんな時まで、バカだな」

 酷い、と内心微苦笑する。それにそんなことを言ったら、きっと一番の馬鹿はラグだ。たかだか数日一緒に過ごしただけの人間に、どうして情けなどかけるのか。

「今のうちに、もう一度縛ってしまってください。わたしが何も考えずに眠っていられるうちに」

 両手を差し出す。だが、ラグは俯いて、落ちた汚い布を踏みにじった。

「……どうして、お頭が派手に貴族の屋敷なんてやばいところばっかり狙ってこんなに安全なのか、どうして死者は出さないのか、どうしてお嬢様には攫ってくるんじゃなくて暗示をかけたのか。俺は知ってる」

「え……と、それは、お嬢様が起きていて……」

「違う。それもあるけど、万が一でもあったら困るからだ。どういうヤツにバレちゃいけないのか、どういうヤツに危害を加えちゃいけないのか。身分が高ければ高いほど慎重になる。ただの盗みじゃ済まないから。だったら普通に好き勝手なところを襲えば良い。そうじゃないのはお頭が雇われてるからだ」

 リゼルは緩慢に瞬いた。

 雇われている?

 誰に。

「ラフガード侯爵。享楽的な厭世家。自分の気を損ねた貴族の屋敷を俺達に襲わせてるんだよ」

 聞いたことのあるようなないような名前だった。ただ、ラグが苦虫を百匹噛み潰したような顔をしていることに目が行った。

「大抵なことはもみ消してもらえる。だからお頭はヘコヘコ言われるままになりながら好きにやってる。死者が出ないよう注意するだけ。だけど見つかった相手があんたみたいに、大して階級が高くないヤツなら殺すぐらいどうとも思わないんだ。自分より上位のものにだけおもねって、下のものは足蹴にする。俺は、そういうのが、まるで」

 ひくり、と彼は頬を引きつらせた。息が詰まったように瞬きすらしない。リゼルは彼が思うところをそっと当てた。

「まるで、あなたが嫌う貴族のようですね」

 ラグは呼吸を止めて、虚ろな眼差しを向けてきた。リゼルは目を伏せる。

 そうじゃない人もいるだろう。けれども彼が忌み嫌ってきたその人種に、多分、よく似ているのだ。

「俺、は」

 呻くように彼は言う。

「俺は、本当は」

 血を吐くように。

「盗賊なんて、大嫌いだ」

 言う。

 慟哭のようだ、とリゼルは思った。そうして、ふと、思った。ならば彼は。

 ラグは、こんな場所に、居たいわけがないのだ。

 リゼルは静かに、ため息のように、彼の名を呼んだ。

「だったら、あなたも逃げますか」

 きょとん、とラグがリゼルを見る。もう一度、念を押すように言った。

「盗賊が嫌いだと言うなら、あなたもわたしと逃げてくれますか」

 鳶色の両眼が驚いたように見開き、迷い、最後にリゼルの手を捉えた。縛られていた痕の残る手首。

 ひんやりと、冷たいラグの手が触れた。

「あんたが逃げるなら」

 

 

 

 

 

 

 前を往く少年の手がふっと離れた。その細い身が跳躍し、一拍後にはだぁんと凄まじい蹴り音が響いた。びくっとするとまた手を繋がれる。一体何が、と茫然としながら萎えた足を懸命に動かす、————と、前方にいかめしい顔の男が昏倒していた。冷や汗が出る。これはラグが倒したのか。

 ときどきリゼルの足の調子を窺いながら、それでもラグはどんどん駆けていった。リゼルは引っ張られるがままに必死についていく。転びそうになったのはもう両手の指を使っても足りないほどだが、それでもなんとかついていけた。真っ暗闇の中、リゼルの目は長く塞がれていたせいで未だ輪郭がぼんやりしている。少しずつ慣れてきたが、いかんせんそもそもの周りが暗いのである。ほとんど何も見えない。だからただラグについていくしかできない。

 牢のあった建物を抜け、気付けば外に出ていた。それでも暗い。夜なのだ、と唐突に悟る。湿った大地が裸足に冷たくて、少し痛かった。

「よそ見すんな!」

 鋭い叱責の声にハッとする。慌てて足を動かし、ぎゅうとラグの手を握りしめた。ざざ、と葉音が頬の横を駆け抜ける。森。だんだんよく見えるようになってきた目が鬱蒼と覆い茂る木々を捉えた。ラグは迷うことなく森の中に突っ込んでいく。深く、鳥と虫の声が煩いこの森には覚えがあった。リゼルが仕えていた屋敷がある町の、端から覆うような森。ということはあの町に盗賊のねぐらがあったのだ。

 ほとんど黒一色の森をどうしてラグはするすると進めるのか。リゼルは息が上がって声も出せなかった。泥水が跳ね、乾いた地面では石粒が食い込む。けれども痛いなどと訴える余裕はなかった。走る。ただ、ラグの手だけを頼りに、走る。

 どうしてこんなに必死になっているのだろうと頭の隅で考えて、すぐに答えが弾き出た。生きていたいのだ。あんな風に諦めておいて、自分は生きていたいのだ。示された、差し出された希望のようなものに、可能性のような何かに、一度、すがってしまったから。もしかしたらなんて思ってしまったから。だからこんな風に走るのだ。ラグを信じているのではなくて、助かる道がもうそれしかないと本能が訴える。だから。

「もうすぐだから!」

 取り乱したラグの声に頷くこともできない。もうすぐ。もうすぐとは何だろうか。

 そう思った瞬間、木々の波が切れた。森の中よりもずっと明るく、月光が照らしている。乾いた大地。隣の領区へと続くまるで砂漠の偽物みたいな広漠とした道。

 森を抜けたのだ。と、リゼルの頭がラグの背中にとんとぶつかった。息を乱したラグが止まっている。リゼルは膝から崩れ落ちそうなのを堪えてなんとか呼吸を繰り返した。ひゅうひゅうと危ない息の音が喉から漏れる。目を閉じそうになったそのとき、ふうと風が通り抜けた。

 空を、見た。満天の星が輝き、大きな大きな月が皓々と青ざめた光を放っている。

 ————ああ、と彼女は息を詰まらせた。

 ああ、なんて。あの星の匂いすら香ってくるような夜空。宝石を散りばめたような煌めきと光含む闇。目隠しのない世界は、何もかもが怖いくらいに綺麗だった。一体何日空を見ていなかったのだろう。吹き抜ける風はラグの手のように少しひんやりとしていて、どこからか花の匂いが、敏感になった嗅覚を刺激する。肌がひりひりした。外。これが、外だ。ほんの数日前まで当たり前だった世界。

 ふぐ、とリゼルは変な声を出した。喉がぐっと熱くなって、こめかみが痛くなって、視界がゆるんだ。つう、と何か生温いものが頬を滑る。たった一筋。

 夜が明ければ、と彼女は思った。夜が明ければ、もう自分達は死んでいるかもしれない。帰ってきた盗賊達に捕まって、きっと想像もつかないくらい酷いことをされて、死んでいるかもしれない。怖かった。怖くて怖くてたまらない。心臓が嫌な風に走り出して、瞼の裏に目隠しをされていた時のような闇が戻ってくる。だけど。だけど、今、見える、空は。

「ラグ」

 空が見たかった。ずっと。何にも、昼なのか夜なのかすら分からなくて、何日経っているのかも分からなくなる。朝食なのか夕食なのか、それすらも。

 ラグが億劫そうに振り返る。リゼルはいつの間にか離れていた彼の手を握った。息が上がっているのか、ラグの手も熱い。

「ありがとう」

 少しだけ、声が震えた。ラグは一瞬痛いような顔をした。

「……今日の、襲撃は、やり直しなんだ」

「え?」

「あんたが勤めていた屋敷なんだよ。前はお頭がいなくて、上手く行かなかったらしいし、下見だったっぽいから。でも、俺は、あんたに言えなかった」

 どうしてですか、と尋ねると、彼は自嘲するように唇を歪めた。お世辞にも、それは微笑みとは言えなかった。

「あんたが逃げないかもしれないと思ったから」

 リゼルは瞬いた。

「……俺があっちを見捨てて、あんたを選んだら、あんたは嫌がるかもしれないだろ」

 不思議な言葉だった。確かに渋ったかもしれない。だけども自分はそんなに良い人間ではないから、少しだけ哀しいような苦いような気分になるだけで終わったような気がする。それにそのことでラグが気を揉むのは何だかおかしな話だ。ラグには何の責任もないのに。

 けれどもこういうのは感覚のようなものかもしれない。理窟で考える前にまるで当然にそんな風に思う。そういうことは、わりあい、多い。

 多分、ラグは優しい人間というわけではない。けれどもどうしてリゼルを助けてくれたのか、と考えると、おそらくラグが優しいからだという答えになる。その優しいというのは、色々な種類があって、この場合情に弱いということになるのだろう。ラグは盗賊だ。下っ端でも、拾われてからずっと、あのねぐらにいたのだ。きっと誰かを見殺しにしたり、酷いところを見たことだってあるのだろう。思うに彼は、盗賊には、向いていた。だけど食事係には向かなかったのだ。たった数日言葉を交わした相手に情をかけてしまうほど。

 でも。

「言ったじゃないですか。わたしは、ラグがとても好きなので、あなたが後悔していないなら、やっぱりありがとう、なんです」

 ラグは不意を突かれたように目を丸くして、それからくしゃりと笑った。今度こそ、ちょっと泣き顔にも似た、微笑みだった。

「次の町まで」

「はい」

「まだ、かかる。でもあんまり休んでる暇はないから、このまま行く。……悪い」

「ずっと寝てばかりだったから大丈夫ですよ」

 ラグは困ったように笑って、ほんの少し、握る手の力を強めた。さあさあと光る夜空の下は寒い。だからラグの手の温度だけが熱を伝えてくれる。

「リゼル」

 彼女は目を剥いた。はじめてだ。はじめてラグに名を呼ばれた。とっくに忘れられているものかと思っていたのに。

「悪い。ありがとう」

 続く言葉もやっぱり意味が分からなかった。悪いもありがとうも、何を指していると言うのだろう。だけどもラグが満足そうなので、多分、これは笑って頷けばいいような気がする。

 リゼルは考えた通りのことを実行してからもう一度空を見た。同じ闇の色でも全く違う。美しい夜空。

 もしかしたら、明日には死んでいるかもしれない。だから。

 手を、繋がせていて。

 どうかこのよるべない夜が明けるまでは。

 

 

 

 

 


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