そのさん:奥様と旦那様




 数時間もしないで薬はできあがり、リディアンヌはそれを持って、意気揚々と伯爵家の屋敷へ戻った。領主館も兼ねるこの屋敷は来客も多いが、ここ数日はのんびりとした日々が続いていた。のどかな領地だ、大きな事件も少ない。やることもそれほど多くはない。とはいえ領主であるオルレアンの労苦が少ないかといえば、それは違うのだけど。
「奥様、どちらに行ってらっしゃったんですか。探しましたよ」
 家令が胸を撫で下ろしながら言う言葉に、微苦笑して謝ってからリディアンヌは厨房に顔を出した。料理長を手招きしてこっそりと頼み込む。
「これ、旦那様へのお土産なの。お疲れが取れるお薬ですって。自分で入れたいから、今日の晩餐に食後のお茶を出すとき、まずわたしに言ってちょうだいな」
「はあ、そんなものより、奥様が旦那様を労ってやる方が、百万倍薬になると思いますがねえ」
「ならないから言っておりますのよ」
 悲しいことをザックリ口にする奥様に料理長は「またまた照れちゃって奥様ったら奥ゆかしいですねえ!」などと能天気なことを言いつつ、きちんと約束はしてくれた。ヴォルパス伯爵家の使用人は、気の良い人々ばかりで、彼女はこの嫁ぎ先にかなり満足していた。おそらく、父母や義理の両親が心配するよりずっと。
 それでもやはり、夫の煮え切らない態度には、どうにも辛抱ならなかったのだ。
「――――あら」
 そんなことを考えながら階下に上がると、珍しく昼間に夫とはち合った。ぱちくりと瞬きする妻を、彼は無表情にじっと眺めている。……。…………。
 沈黙。
 えぇと、とリディアンヌは姿勢を正した。
「ただいま戻りましたわ、旦那様」
 こっくりと旦那様は頷いた。ものすごく緩慢な動きだった。本当に頷いたかどうかも微妙なところだ。そのまま会話が止まってしまい、リディアンヌは大いに焦った。ああ、もう、どうしましょう!
「……気をつけなさい」
 笑顔の裏で内心必死に話題を探していたリディアンヌは、突然降ってきた低い声に、最初、それがオルレアンのものだと理解できなかった。
(あら、まあ)
 旦那様が、わたしに話しかけたわ。
 それはとても珍しいことだった。昼間にばったりでくわす以上に珍しかった。なぜって彼は、何か用がない限り妻にべらべらと喋りかけてくる男ではなかったし、朝夕の挨拶だって、ひとつゆっくり頷くくらいのものだったのだ。眼玉が飛び出そうなほどリディアンヌは驚いた。
「森は、危ない」
 続いた言葉に驚きが増す。どうしてリディアンヌの出先を知っているのだろう。それに、今のはどう聞いても、気遣いの言葉だ。この無口で無表情な夫は、けれども人並みに、リディアンヌに心を配ってくれている。だから彼女は困ってしまう。いっそ虫けらのように扱われたなら、リディアンヌも落ち着いて構えていられたのに。
 オルレアンの視線は未だ、彼女の方へ注がれている。リディアンヌはにっこり笑って頷いた。
「はい、旦那様。次は、充分気をつけて出掛けますわ」

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