そのはち:旦那様は思案する




 自室で封を開けたリディアンヌは、その筆跡を見て、驚きのあまり手紙を取り落としそうになった。書き物机の傍にかけられた角灯に火を入れ、腰を下ろしてじっくりと文字を追う。時間をかけて最後まで読み終わった瞬間、知らず込めていた肩の力が抜けた。
 お父様、と彼女は呟いた。
 思いのほか、弱々しい声になってしまい、自分で苦笑する。しばらく手紙をためつすがめつしてから、丁寧に折り畳んで封筒の中にしまった。それを、薄い樫の木の文箱に入れる。結婚してから、いくらか、故郷から手紙をもらうことはあったけれど、父からもらうことは初めてだった。心配をかけてしまっているのだ、と思う。
 しっかりせねば。
 それから、そうではないのだ、平気なのだ、と伝えなくては。
 そう、ただ、旦那様が無口で無表情でそれから善人だということに、少々の不満があるだけで、今、自分には不安も懸念も何もないのだ。大丈夫。そう小さく頷いて、ふと甦るのは、落ち着いた父の声だ。目を閉じる。
 ――世間の噂は、
 ――驚くほど早く回るが、
 ――たとえもみ消しても、
 ――たとえ本人に責がないとしても、
 ――醜聞は、
 ――容赦なく当事者のもとまで届くが、
 ――決して、こうべを下げてはならぬ、
 ――決して。
 きゅ、と口角を上げる。俯けていた顔を押し上げ、リディアンヌはにっこりした。
「はい、お父様」
 


 オルレアン・バシュラールは処理を終えた書類の山を睨みながら、珍しいほどの渋面を作っていた。そうこうしているうちに、普段から出入りしている副官がまた大量の書類を持って入ってきた。オルレアンはいつも思う。この平和でのどかでまったりした領地のどこから、こんなに仕事を持ってくるのか、と。今年は不作も少なく、全面的に豊作とは言いがたいものの、比較的平均値の収穫率だった。盗賊やカラスが少々煙たいが、まあ、王都の物騒さに比べれば許容範囲内だろう。だというのにオルレアンの仕事は少しも減る様子を見せなかった。おかしな話である。
 しかし、これも毎年、いや毎日のことだ。今、領主様の頭を悩ませているのは、このことではない。……大部分は。
(あの魔女)
 ぎり、と苦々しく唇を噛みしめる。いささか意識も記憶も曖昧なものの、今朝から自分が、かなり自分らしくない行動をしている自覚はあった。それは使用人一同の恐れおののく様子から充分窺える。特に顕著なのは若年の執事で、いっとう老齢の家令は、いつも通り鉄壁の普段面を保っていたが、あれはあの顔の裏で思考停止していた。オルレアンのことを幼い頃から知っているので、色々と理解の範疇を越えたのだろう。女中たちは最初こそ目に見えて驚いていたが、すぐに「旦那様ったらお盛んですわね」などとあっさりなじんでしまった。これは、とてもよくない。
 何より、小さな妻の、ぽかんと大口を開けて固まった顔が、脳裏をちらついて離れない。
 彼は、眉間の皺を深くした。
 魔女め、と毒づく。思い浮かべるのは、どうやら妻のお気に入りらしい、カサンドルの森に住まう若い――見た目の――魔女である。
(何か、盛らせたな)
 不愉快極まりない。まったくもって腹立たしい話だ。
 ニヤァ……と魔女が怪しく笑うさまを想像して、オルレアンは密かに殺意をたぎらせたのだった。

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