わたしの親愛なる旦那様




 「しん、あい、な、る……」
 
 ――親愛なる旦那様

 ひかえめにつけられたインクのせいで、少し掠れてしまうペン先が、けれど踊るように軽やかに文字を綴る。

 そちらはいかがお過ごしでしょうか。こちらは今日も平和です。

 書き出しは、こう。たいていが同じことば。いつも通りの、気楽な呼びかけ。そこでいったんペンを止め、ふっと微笑む。顎にかるく手を添えて、心地よい気分で考えに浸る。リディアンヌはやはり微笑んだまま、そうねえ、とひとり呟いた。
 日当りの良い窓際に置かれた机に向かって、彼女は手紙を書いていた。
 窓の外では紫の斑点がまばらに散る、灰色の背の小鳥がかわいい鳴き声をあげている。歌うようなそれが耳に楽しい。奥様は目を閉じてその声を堪能してから、さらさらと手紙を進める。送り先たる旦那様は、現在王都に顔を出しているところだった。国の西半分の領主たちのうち、何名かが今期の領地の状態を総括し、議会へ報告に行くのだ。もちろん問題が起こったときはそのときどきで何らかの応援を頼んだり、報せに上がったりもするのだけれど、それとは別に、年に四度、大々的な報告会が開かれる。これは本当に季節の総まとめと次節に予想される問題の対応などを、いわば紙面で済むようなことを発表するだけなので、そう心配するようなことではない。領主の中にはそういう機会でもなければ領地に引きこもって出てこないような人間――つまり、旦那様のことだ――もいるので、顔を出して元気かどうかと交流を持つにはもってこいの行事でもある。というか、本来もう少し顔を出すべき社交期にも王家の招待以外はほぼ王都に出ていかない旦那様も、たいがい面の顔が厚い。それで問題なく治めていられるのは、過去、慣れないながらも頑張ったからだ、と彼の部下は笑っていたけれど。
 さて、これは社交とは違うので、同伴者は必須ではない。それに領主が留守にする以上、その家族が領主館の主人の代理人をすることが慣例となっている。
 というわけで、リディアンヌはお留守番なのだ。
 およそ八日ほどの留守。
 最初の二日は旦那様が出掛けたあとの、やっておかねばならないことの処理を館のものたちと行った。けれどそれもやがて済み、あとは急ぎではないものの、なるべく領主本人の目を通した方が良い案件ばかりが残る。するとリディアンヌはなんとなく暇になる。
 暇――と、感じるのは、おそらく、ものたりないからなのだろうけれど。
 そう、暇、ではないはず。領主夫人としてやることは、いつも通りある。でも、なんとなくものたりない。
 三日目、そんな風に自分をもてあます奥様に、家令が訳知り顔で促してきた。
 旦那様にお手紙をお書きになられたらいかがでしょう――と。
 奥様はきょとんと瞬き、それからぱあっと顔を輝かせた。
 それだわ! と叫んだ奥様が便箋を用意してくれるよう頼むと、家令は満足そうにうんうんと頷き、あっという間に準備を整えてくれた。そしてひとつ、とっておきの秘密を、もののついでとばかりに耳打ちして。
 そんなこんなで、いま、リディアンヌはのんびりと手紙の内容について頭を悩ませていた。それはとっても幸福な悩みで、この手紙を読んだときに夫に眉間の皺が寄るところや、ほんのわずか唇をほころばせるところがふわふわと浮かんでくる。今日のうちにこの手紙を出せば、少なくとも三日後には着くだろう。きっと旦那様は今、王都の空気に疲れ出しているだろうから、何か癒しになる匂い袋でもつけようか。
「あと、そう、そうねえ……」
 先日アニエスがやらかした実験のことを、ここでこっそり書いておく。まったくもう、アニエスったらどうしたら薔薇を七色に変えようとしてルルー夫人の薔薇園の一角、それもいっとうお気に入りの黄薔薇のあたりを荒れ地に変えることになるのかしら。あのときは一晩経っても、ぱちぱちと黄色い小粒の光りが小爆発を繰り返してばかりで、最終的に魔法で元通りにしてくれたから良かったものの、卒倒したルルー夫人にあれは夢だったのだと誤摩化すのも一苦労だった。
「それから、ええと」
 女中のレーヌの姉君が無事に子供を産んだこと。お祝いに何か贈り物をしたいから、それについて今度相談をしましょう、という頼み事。とりとめもなく書いていたら、ずいぶんと長い手紙になってしまった。
「いやだわ、このくらいにしないとだめね。あとは……」
 慌てて思考を止め、ついでにペンも止める。ほんの少し迷ってから、リディアンヌは――無意識に、とっても安らかな表情で、もう一度ペンを走らせた。

 ――それでは、どうか体調にお気をつけて。無事のお帰りを心よりお待ちしております。
 ――あなたの妻より
 
 ふふっ、とくすぐったい笑みがこぼれる。たいした文面ではない。どんな手紙にも付け加えるような、挨拶のような結びだ。それでも、これを、あのひとの妻として書くことは、奇妙に喜ばしかった。
 それから、家令に耳打ちされた旦那様の秘密を思い出した奥様は、ちょっぴり悪戯っぽい顔になってこう付け足す。

 ――追伸
 ――そういえば旦那様は、以前からわたしのことを知っていらしたということですけど、
 ――どうして一度もバシュラール家主催の会に招待してくださらなかったのですか?


 ちなみに家令の罪なき密告によるところ、
『旦那様は、奥様をお見初めされて以来、何度も招待状を送ろうとしてはうまく書けずに断念していらっしゃいましたから。きっと奥様にお手紙をいただいたら、たいそうお喜びになられるかと』
 とのことである。

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