そのじゅうさん:旦那様とご友人




 抜けるような青の広がる快晴の下、エルロイ邸の庭園はどこもかしこも色あざやかな薔薇で溢れている。ふわふわの芝生を歩くと、まろやかな甘さをたっぷり含んだミルラの香りが鼻孔をくすぐる。好い天気だった。
 リディアンヌは何とか穏やかな笑顔を貼りつけて、先を行く夫に従う。ちらちらとこちらを見やる客の間を魚のようになめらかにすり抜け、やがてオルレアンは一組の男女の前で止まった。男の方がおや、と眉を上げ、すぐに破顔する。
「やあ、オルレアン。久しぶりじゃあないか。出不精のきみが、こんなところにくるなんて珍しいね。何かへんなもの食べた? はやく医者にいきなさいね」
 ぺらぺらと立て板に水の如く喋った。オルレアンはとくに表情を変えず、ああ、とだけ言った。いったい何に対する返事なのかさっぱりわからない。二人のやりとりに呆れるリディアンヌと、残りの女性の間で視線が交わる。若々しい少女だ。楚々として微笑んでみせると、どうも同じような笑みが返ってきた。つまり張りついた笑みだった。リディアンヌはほんの少し口の端を引き攣らせた。ううん、雲行きがあやしい。
「しかし見たところきみ、何も食べていないようだけど? フェルディナンの美食癖は知ってるだろう、せっかくなんだから遠慮せずガツガツ食べたらどうだい。美味しいものが食べられる機会はあんがい少ないからね。そら、そこの犬魚の蒸し焼きとか、雄鳥と嫌味貝のスープがおすすめだよ。それにしたってあいかわらず景気の悪い面だねえ。栄養行き渡ってないんじゃないの? 何か料理を――ああまだるっこしい、あ、ちょっときみ、こいつに生ハムと檸檬の添え合わせ、もってきてくれない? あとあの真緑の健康茶。頼むよ。あれ、それで何の話をしてたっけ? そうそう、きみが仕事のし過ぎだって話だったね」
 えっ、そうだったかしら。横から聞いていたリディアンヌは大いに首を傾げた。なんというか、オルレアンの友人にしてはよく喋るひとである。嫌味を言っているように聞こえる部分もある――というかほとんどだ――が、どうやら彼なりに友人を気遣っているらしい。旦那様の交友関係は謎だわ、と奥様は思った。
「……いや、ここの料理は美味しいという話だ」
 と、ここでようやくオルレアンが口を挟んだ。ぼそりと、影の薄いったらない声だったが。
 しかし男の方はまったく構わなかった。
「そうだったっけ? まあいいや。とにかく少しは休みなさいね。図体大きいわりに細っこくてもやしみたいじゃないか。そうそうもやし料理も美味しいよ。ここらの名産だしね。せいぜい腹を満たして帰るんだね。きみが倒れたらそこの可愛らしい奥様も倒れちゃうかもしれないだろう。あ、そういえば名乗ってませんでしたね、ジュスキン伯アストロ・カルリエです。どうぞよろしく」
 いきなりこっちに話がきた。
 というか一応認識されていたのかとリディアンヌはかなり驚き、あわてて一礼する。
「バシュラール伯爵が妻、リディアンヌと申します。どうぞよろしくお願い致します、ジュスキン伯爵」
「アストロでいいですよ。オルレアンの細君にそんなかしこまった喋り方をされてはむずがゆい」
 どこまでも我が道を行く御仁のようである。
 その袖をくいくいと引く手に、アストロはようやく連れのことを思い出したらしい、ああ、と軽く顎を引く。
「彼女はジョスリーヌ・ブイクス。エルオール男爵のご息女です。親戚でしてね、お供を仰せつかりました」
 お供のわりには放っておきっぱなしだった。形ばかりは慇懃なアストロの紹介で、ジョスリーヌ嬢は淑やかにお辞儀した。しかし彼女がこっそり鼻に皺を寄せた瞬間を、リディアンヌはうっかり目にしてしまった。まあ気持ちはわからなくもない。苦笑を押し隠し、再び一例して名乗る。オルレアンもそれに続いた。ジョスリーヌは幾分打ち解けた笑顔になった。
 なんとなく優雅でのどかな空気が漂ったところで、アストロがあっさりとそれをぶちこわした。
「あっ、生ハムがきたよ。オルレアン、きみ、これ好きだっただろう。昔っから生物ばっかり食べて、よくもまあ腹下さないよね。あ、奥方、あなたのお好きなものは何です? 給仕に頼んできますよ」
 オルレアンだけが慣れた様子で皿を受け取り、ぼそっと礼を言った。





 しばらく穏やかな歓談が続き、なんやかやと他の客とも交流を果たして、さてデザートでも、と目を移らせたところで、その質問はやってきた。
「ところでリディアンヌさま、あの噂は本当なんですの?」
 不意打ちだった。
 あの噂、と言われて思い当たるのはひとつしかない。つまり反対に、確実にそれだとわかっているということである。だがリディアンヌはどうにか表情を取り繕い、どの噂ですか? と聞き返した。
 ジョスリーヌは少し頬を染めて、わかってらっしゃるくせに、とはにかんだ。可愛らしかった。だから、それがただの好奇心であればいい、と思う。それならば、いくらかましだ。
 内緒話をするように顔を寄せてきたジョスリーヌが、そっと薔薇色の唇を開く。
「リディアンヌさまの最初の花婿さまが、婚礼のその場で駆け落ちなさったっておはなしですわ」
 空気が凍った。いや、逆に熱気を帯びたのか。いずれにしろ、大分遠のいていた視線が一気に集まったのが分かった。この子馬鹿なのかしら。つつくにしても、もう少し遠回しな言い様があるでしょうに。今までいろいろと囁かれてきたし、面と向かって憐れまれたこともあるけれど、ここまで直球なのはあまりなかった。
 期待に満ち満ちている少女に応えるべく、リディアンヌはにっこりと頷いた。
「ええ。本当ですよ」
 ジョスリーヌの両目が輝く。リディアンヌは紅真珠の色の紅茶をひとくち含んで、喉を湿した。
 そう、本当だ。
 リディアンヌは、逃げられたのだ。
 誓いの口づけの、その間際に。

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