愛とは、何ものにも代え難い、尊いものであるらしい。 なるほど、とリディアンヌは思う。それならあれも仕方なかったのだ、と。 だって、花婿には、愛するひとがいたのだから。だから、花嫁が置き去りにされたのも仕方ない。その尊いものを貫くためなら、彼は何でも捨てる覚悟だったのだろう。きっと、あの日リディアンヌの前から疾風のように去っていったふたりは、今、幸せを満喫しているはずだ。そうであるといい。これは、とてもよいことだったのだ。少なくともリディアンヌと彼が結ばれるよりは。おかげで不幸になったものは一人もいない。二人の勇気と決断を讃えるべきだろう。 ――ただ、もうちょっと早く行動できなかったのかとは、どうしても思ってしまうのだけど。 「身分の関係で、婚約することもできなかったようなのですけど、めでたくお二人一緒になられたみたいです」 今日のようによく晴れた日だった。透き通る青空は硝子に注いだ水のようで、そのなかを、真っ白な鳩が伸びやかに羽ばたいていた。春だった。のんびりと太陽が瞬き、小人たちが木陰で微睡み、リディアンヌははじめて花嫁衣装を身につけた。 あの日はとても、気持ちよかった。目を細めると、鮮やかに記憶が蘇る。 リディアンヌは、夫になる相手が、自分に対して興味をもっていないことは分かっていた。 何度か会話の場を設けられたけれど、彼はいつも気乗りしないていで、早く終わらせたいようだった。今にして思えば、彼にはそんなことをしている余裕なんてなかったのだろうし、したくもない浮気でもさせられている気分だったのかもしれない。そういう微細な気持ちに少しでも気づけなかったのは、自分の落ち度だった。 愛は、偉大なのだ。 誰かを恋う気持ちは、すべてを捨てられるくらいの、情熱を持っている。 男の名を、ヴォリス。 娘の名を、ポーラ。 ふわふわの春の芝生に敷いた婚礼用の絨毯を歩いて、祭司の前でリディアンヌが誓句を口にしたその直後、彼は祭司の最後の問いに否と唱えた。目を丸くする花嫁には見向きもせず、参列客の集団に走り込み、いつの間に見つけていたのか、いとしい恋人の手を捉えると、彼は一目散に駆けていった。ひとこと、父君に親不孝を詫びる言葉を残して。 まるで物語のようだった。 幸せな結末を目にしたのだということを、なんとなく理解した。春の好い日に駆け落ちた恋人たち。呆然としたあと、リディアンヌは、拍手をするべきなのかしら、と明後日なことを本気で悩んだ。何せ、最後に見た二人の顔がびっくりするくらい輝いていたので。 けれどもそれはできなかった。数秒の沈黙ののち、場は騒然となり、ヴォリスの両親は怒りで真っ赤になったり蒼白になったりした。当たり前である。 リディアンヌの両親の方は、まだ冷静だった。母はあらまあと呟いたきり何ともいえない顔で黙り、父は無表情で婚儀は取りやめですなと分かりきったことを花婿側に告げた。ここで父母が荒れなかったのは幸いだった。おかげで両家の間はそれほどこじれていない。今では不幸な事故だった、ということになっている。あちらの負い目は未だに消えていないようだが。 両家の間で軽い話し合いがなされている間、ぽつねんと立ち尽くしていたリディアンヌは、やがてひそひそと囁き合う声と、同情のまなざしを注がれていることに気づいた。それは、確かに同情だったのだ。花婿に捨てられた哀れな花嫁に向けられた、優しい同情だった。 優しさは時に凶器である。 そして、その同情には、多少の嘲りも含まれていた。――まさか、花婿に捨てられるなんてねえ。 ――なんて、おかわいそうに! そうか、わたしはかわいそうなのか、とリディアンヌは己の身に起こった事態を、もう少し正確に把握した。ようやく、そのとき、である。それでもなかなか実感はわかなかった。ただ、甘ったるい囁きと慈悲深げな眼差しが、澱のように胸のあたりに溜まっていった。見えない重みに負けて、白いドレスの裾を握り、僅かに俯いた。幼かった。リディアンヌは、鈍い人間だった。 今、ほんの少し年を経た自分は過去のおのれをそう思い返す。何度でも。 「二人がどうなったかは、分からないんですの?」 物語の続きを聞き損ねた子供のような、ちょっと不満そうな問いに、にこにこと頷く。 「ええ、お会いしていませんし……お二人にとっても、もう出会うことのない方が良いのでしょう。いちおう、駆け落ちですからね」 苦笑してみせると、ジョスリーヌはあこがれるようなため息をこぼした。ふと、この子は、もしかして、巷ではやりの恋物語などに熱をあげているのかしら、とリディアンヌは思った。後ろで口をつぐんだきりの夫をちらりと見やり、しばし思案。もし、そうなら、聞きたいことがあった。だけれど、彼女がそれを尋ねる暇はなかった。ジョスリーヌがまた喋りだしたのだ。彼女は少し神妙な顔をしていた。 「リディアンヌさまは、そのとき、おつらくはなかったのですか」 ゆっくりと息を呑む。真正面からはじめて問われた気がした。僅かに両手がふるえるのが分かった。つらくなかった、といえばそれは嘘だ。だけど、つらかった、といえば――それも、違うのだろう。 なぜなら、リディアンヌは恋を知らなかった。 方々から視線が集まるのを感じる。もう盛りの過ぎた話とはいえ、醜聞はいつでも気になるのが人というものだ。 喉が鳴る。生唾を飲み込み、真剣な顔の少女を見返す。自分の、心臓の、音がした。 そのとき、ふと誰かの手が肩に触れた。確認するまでもなく、オルレアンのものだった。それで、リディアンヌはいっとき目を伏せ、そしてひそやかに深呼吸した。 ヴォルパス伯爵家の奥様は何の含みなく微笑んだ。春のように。 「もちろん、驚きましたけど。でも、わたしにはまったく問題ありません。なにより、」 彼女自身は気づかなかったけれど、その笑みに、リディアンヌはちらりと安らいだものを滲ませていた。 「そのおかげで、すてきな旦那様に娶っていただけましたから」 奥様の声に、もう震えはない。 |