そのじゅうはち:それがわたしの旦那様




 オルレアンは呆気にとられたようだった。妻を見下ろし、眉根を寄せ、慎重に口を開く。
「……そうなのか」
「そうです」
「…………では、これは、なんだ」
 旦那様、とリディアンヌは囁く。じくじくと心臓が痛む。こんなはずではなかったと、きっと誰もが一度は思うのだろう。こんなはずではなかった。
 ひどい言い訳だ。
 あたたかな手を頬から引きはがし、彼女はまったく完璧とはほど遠い、ぐしゃぐしゃの笑みを浮かべた。
「わたしの、無口な、旦那様。わたしに、決して無益なおしゃべりなんてなさらない、たったひとりの旦那様。それは、優しさです。あなたは、わたしに好意なんて、抱いてはいらっしゃらなかった。それは、あなたの、すばらしい優しさからくる慈悲のお気持ちです」
 優しくて公正で善良な領主。花婿に逃げられ、ろくな長所もない、小さくてとろい女になど、興味がない。けれども相応の配慮を見せる。あなたはそういうひとだ。立派な方だ。すてきな領主、すてきな夫。
 だから、リディアンヌは魔女に薬を求めたのだ。
 このひとに嫌ってもらうために。
 不可解げにオルレアンが沈黙する。この席で、彼は知人にどのように見られていたことだろう。挙動がおかしいと、思われてはいまいか。リディアンヌは本当に、自分のことばかりだった。彼女はようやく、ほんの僅かな冷静さを取り戻した。ようやく。本当にようやくだ。なんてことなのだ。
 だが、まだ、こころは荒波立つ。
「旦那様、わたし、酔ってしまいました」
「……なに?」
「倒れる前に、お屋敷の方でやすませていただきますわね」
「…………ああ、いや、まて」
「どうか、旦那様はお知り合いの方と過ごしていらしてくださいませ。わたしのことはどうかお気になさらず」
 オルレアンは苦々しい顔をした。
「……無理だ」
「本当にお気になさらず。それでは」
「…………、……わかった」
 リディアンヌはにこりと微笑み、心から頭を下げた。






 使用人に案内された、来客用の個室にたどり着くと、彼女は膝を抱えるようにしてしゃがみ込んだ。ああ。ああ、逃げてしまった。ドレスの裾が床で絡まり、皺を作るのも構わない。ずきん、ずきんと心臓が軋む。
 はやく、薬を抜かなくちゃ。
 唇を噛みしめる。
 はやく、はやく、はやく。
 きつく目を閉じる。
 自己嫌悪が嵐のように吹き荒れ、リディアンヌはおのれの首を絞めたくなる。
 わたしは、なんてことをしてしまったの。
 あのひとの行動を、ほんの少しでも、縛ってはいけない。
 はやく。
 嫌われなくちゃ。
 痕が残るほど強く手を握りしめた。でも、奥様の爪では汚れひとつないきれいな長手袋を食い破ることなどできなかった。

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