そのにじゅういち:魔女が笑う




 アニエスは日数を数えていた。
「いーち、にい、さあん、し、ごおー、ろく、……」
 口許はにやにやと緩み、彼女は楽しげに両足をぶらつかせた。銀色の髪がゆうらり揺れる。ふふふ、ふふ。いつになく機嫌のよい魔女の足下を、小人たちが気味悪そうにうろつき回る。
「魔女」「魔女」「どうした、魔女」「魔女がおかしい」「おかしいぞ!」「なんたって機嫌がいい!」「おかしい!」
 くちぐちにざわめく小人たちに目もくれない。これも、とても珍しいことだった。ちいさな雷すら降らない。
「ななー、あ」
 きゅっ、と唇がつり上がる。
 邪悪と愉悦の性持つ魔女は、弱々しく叩かれた戸を見やり、そのただの一度で優しく扉を開いてやった。
「やあ、きたね。そろそろだと思ってたよ」
 




 薬の効果を解かなければならない。馬車の扉がゆっくりと開けられるのを見ながら、リディアンヌはそう思った。長距離の外出から戻ってきた領主夫妻を、館のものが出迎える。オルレアンがまず先に降り、妻に向かって手を差し出した。リディアンヌはほんのいっときばかり逡巡し、けれどおとなしくその手につかまった。手袋越しのぬくもりは、さして感じられなかった。
 旦那様は、ふっと笑みを浮かべた。
 どこか安堵したような、困惑したような、――それでも嬉しそうな笑みだった。リディアンヌの思考能力を根こそぎ奪っていくみたいな、そういう顔。
 心が震えた。
 そして気づけば手を引かれるままに屋敷の中へと入っていた。奥様と旦那様の上着を使用人がするすると脱がし、さっさとお休みくださいというようなことを穏やかに告げられる。オルレアンがちらとリディアンヌを見た。
「旦那様」
 微笑んで、甘えるように、でもきちんと線を引いて。
「わたし、旦那様にお話したいことがありますの」
 目顔で続きを促されたのが分かる。このひとの表情が、分かる。
 わたしを、娶ってくれたひと。
「ですが、今日は遅いですし……それにわたし、カサンドルのアニエスさまと約束をしていたのを思い出しまして。少し、出て参りますわ」
 旦那様は不審そうに、感心しないとでもいいたげに、微かに眉をひそめた。大丈夫です、とリディアンヌは続けた。
「ほんのすぐですから。完全に帰れなくなる前には、戻ってこれます。ですから、ね、旦那様。先にお休みになっていてください」
「……送ろう」
 どうしてもか、と聞かないのがオルレアンらしいところだ。彼は無駄なことは滅多に口にしない。
「大丈夫です」
 リディアンヌは繰り返した。わがままを言っている、という自覚はあった。またも、彼を困らせている。それでも無理だった。後悔と自己嫌悪と失望でいっぱいだった。
 一刻も早く。
 これを、
 解かなければ。
 彼女の意志が固いことを察したらしい、オルレアンは仕方なさそうに頷いた。その視線が女中に向く。彼女は心得たようにさっと上着を持ってきた。
「夕は冷えますから」
 そんな気遣いを受けて、リディアンヌはにっこりと礼を言った。そうしてまた、屋敷を出る。魔女は護衛を従えてきたらぜったいに戸を開けないと公言しているので、彼女に用があるものは皆、基本的にはひとりで行く。
 このときも、リディアンヌはひとりで向かった。
 歩きなれた獣道を行き、進むごとに顔色を悪くして、とうとう悄然とうなだれながら、やっと友人の家にたどりつく。何事にも動じない奥様の仮面はもうさっぱり剥げ落ちて、彼女は途方に暮れた子どもの顔で、魔女の家の戸を叩いた。
 たった一回。
 情けなさに、指先がふるえる。これでは、アニエスは入れてはくれないわ、だってアニエスったらたいそうな面倒くさがりなんですもの――――
 
「やあ、きたね。そろそろだと思ってたよ」

 けれどこの日に限って人嫌いの友人は、まるでとても社交的な少女のように、いつもは重たい扉をすばやく開いてくれたのだった。

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