そのにじゅうに:奥様と魔女




 室内は薄暗いながらも、骨組みがぼんやりと透明な光を帯びるから、充分に中を見通せた。魔女は長い睫毛をそよがせ、一見にして上機嫌であると分かるほど楽しげに両目をすがめている。普段はどろりと濁る目が爛々と輝いていることを微塵も隠せていない。友人のそんな様子に、リディアンヌはもちろん驚いた。きょとんと――それからしげしげと魔女を見やる。
「まあ、いったいどうしましたの? アニエス。とっておきの竜珠を手に入れたときみたいな浮かれようよ」
「ふふふん。まあね、蒔いた種が実ったみたいでねえ。魔女は退屈が好きだけど、それと同じくらい、退屈を吹き飛ばす喜劇が好きだよ」
 あらっ、と奥様は目をきらきらさせた。魔女の不穏さを微塵も考慮しない明るさである。
「じゃあ今度一緒にアール・ブリュレの歌劇に行きましょう! わたしあなたとお出かけしてみたいわ。そしたらコルセル菓子店でお茶もしましょうね」
「き、喜劇ってそういう意味じゃ……ていうか誘うな! 誰が一緒に、あ、遊びになんて行くか!」
 せっかく格好つけたのに……とぶつくさ言いながら、魔女はひとつ咳払いする。
「ほら、小人ども。客がきたからおまえたちはどこぞへ御行き。リディアンヌ、ばかなこと言ってないでさっさと用件をいったらどうなのさ」
「まあ、ばかなことではありませんわ。そうねえ今度の……」
「あーそういうのはいいから!」
 癇癪を起こて喚いた魔女は、頬杖をついて半眼でリディアンヌを見た。リディアンヌは微笑み、そしてそれを頼りなく崩した。
「アニエス……わたし、たいへんなことをしてしまったわ」
 ふうん、と魔女は相槌を打った。小さな青金石の天秤に、硝子の小壜からとろりとした液体を注ぐ。何かの実験だろうか。魔女はいつも、不可思議なものを作っている。
 あの媚薬みたいに。
「リディアンヌ」
 アニエスの赤すぐりの両目が光の波を孕んで妖艶に揺らめく。呑まれそうなほどうつくしいのに、どこか不吉で陰鬱だ。その昏い瞳よりも鮮烈に赤い唇が、きゅうっと吊り上がる。
「後悔なんてしないんじゃなかったの?」
 享楽的で加虐的、魔女の骨頂とも言うべき愉悦を浮かべてせせら笑う。――それ見たことか、愚かな子ども。さあ、ほら、絶望の顔を見せておくれ。騙されたのだと泣く顔を。
 ニヤニヤと悪徳を仄めかす友人に、リディアンヌは、けれど、泣き笑いになった。魔女は笑みを引っ込め、つまらなげに睫毛をはためかせる。
「ごめんなさい、アニエス。わたしの大事なお友達。あんなに、言ってくれたのに」
「……ふん」
「馬鹿な人間で、ごめんなさい」
「……ふん。ふん、ふん。本当に馬鹿だね、そんなこと知ってるよ。あんたは馬鹿の中の馬鹿だよ。魔女の魔女たるこのわたしが、そんなことも知らないわけないだろう。あんたが馬鹿でも、わたしにはなんら不都合ないんだからね」
 ふん、ふん、ふんっ! とやけに気まずげに偉そうぶって鼻を鳴らす、彼女の頬は微かに赤い。リディアンヌは、なぜだか胸の奥に優しくてあたたかいものがじんわりと沁みるのを感じた。疲弊した心が癒され、リディアンヌは改めて、この魔女を好きだと思った。
 悪ぶりで意地っ張りで恐がりで、わたしを試してばかりのアニエス・アジュール。カサンドルの恐るべき魔女。何か悪戯を起こすのが大好きなくせに、すぐ不安になって、でも不器用だからこんなふうにリディアンヌを窺ってくる。でも、わたしは、あなたに対してだけは不安にならない。あなたがどんなことをしたって、わたしは結局アニエスが大切で仕方ないのだから。
 この気持ちは、揺らがない。
 友達は、揺らがない、のだ。
 ばつの悪い顔で天秤を突つくアニエスの手を、リディアンヌはそうっと握った。びくっと狼狽しながらこちらを見てくる赤い両目。安心する。アニエスは、リディアンヌをたぶん、けっこう好きだ。それが分かる。
「……ちょっと、なれなれしいよ。まったく、あんたって本当図々しいね! こんな時間に押し掛けてきて、やっぱりわたしに泣きついてくるし」
「ごめんなさい、アニエス」
「ふん。馬鹿なあんたの考えなんてお見通しなんだからね」
「ええ」
「……ど、お、せ。しんどくなったんだろう」
「……うん」
 子どものように、リディアンヌは頷いた。
「あの真面目でカタブツな領主から、真面目な告白でもされたわけ」
 ぶっきらぼうに言って、魔女は空いた片手をおそるおそるリディアンヌの頭のてっぺんに添わせた。ひどくぎこちなく撫ではじめる。天井の骨組みのクリスタルが輝きを揺らす。天秤の皿に溜まった液体から、きらきらした粒子のようなものが銀河みたいに溢れて空気中へと広がっていく。
 不思議な夢のような部屋。
 リディアンヌはぽたぽたと涙を落とした。くすぶっていた悔しさと情けなさと罪悪感と、そして最も避けたかった渇望が、アニエスの優しい手によって溶けるように流れ出す。
「わたし、最低です」
「ほお」
「旦那様のお心を、ぐちゃぐちゃに踏みつけたのだわ」
「承知の上じゃあ、なかったわけ?」
「……分かっていると、思っていました。ひどいことをするつもりでしたわ。でもこれほど、酷いことだと、理解していなかった」
 心を操るなんて最低だ。だからやった。
 正気に戻ったとき、いかにお優しいご領主様といえど、きっとリディアンヌのことを嫌いになると思ったから。
「ねえ、アニエス。どうしよう。わたし、もっと、旦那様を傷つけてしまうのかしら。あの方は、正気に戻られたとき、どう思うのかしら。わっ、わたしを……嫌いになるだけで、済む? このことは、愚かな妻をもらったと、それだけで終わる?」
 恋とは、素晴らしいものなのだ。
 あらゆる行動を支配するくらい――それほど強い、大切な感情!
 こんなふうに利用して良いものでは、なかったのに!
「リディ……」
 本当に珍しいことに、アニエスが声を上擦らせた。いつもは意地でも呼ばない愛称をうっかり口に出してしまうくらい、動揺していた。微かな困惑と呆れを表情に映し、あんたは、と呟く。
「ときどき、ものすごく思い切ったことというか、意味の分からない行動に出るねえ」
 いやはや、ちょっと予想外だなあ。洩れ聞こえた言葉に、リディアンヌは顔をあげる。
 魔女はこれまた珍しく、優しい苦笑を刷いていた。
「リディ、あんたそんなに、あのひとを好きになるのが怖かったの?」

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