リディアンヌは青ざめていた。同時に、掴まれた手首が仄かな熱を持った。旦那様が迎えにきてくださった。 とても嬉しい。 とても、悲しい。 唾を呑み込む。自分の愚かしさに目眩がしそうだった。 ――恋、とは、永遠に続けと願うこと。 今、言わなければ。 「旦那様」 オルレアンの視線を感じる。リディアンヌは微笑んだ。 「謝罪をさせていただきたいのです」 旦那様は瞬き、口を開いた。 「無断外泊のことか」 「そのこともですが、わたしは、もっと酷いことをしているのです」 「……私にか」 「はい」 旦那様の眉間に皺が寄った。そして、目顔で促される。面倒な書類を捌くときのような、心労の滲む真面目で公正な表情だった。この顔をずっと見ていたい、と思った。 「旦那様、わたし、媚薬を盛ったのです。あなたに嫌われるために」 静寂が訪れた。 旦那様は呆気にとられたようだ。 「……?」 意味がわからん、と仰りたいようである。構わず、リディアンヌは続ける。 「薬を盛ったのは、七日、いえ八日前の晩餐のときです。おそらく旦那様は、それ以来おかしな症状を付与されていらっしゃるはずです。その……お気づきではないかもしれませんが」 「いや、自覚はあった」 きっぱりと首を振られ、リディアンヌは目を丸くした。えっ、気づいてらしたの。 「そ、そうでしたか。あの、さぞやその、ご不快だったのでは」 「……いや、多少、困ったくらいだ」 「…………え、あの、そうですか」 なんて寛容なのかしら! 奥様は夫の懐の広さに呆れた。しかしすぐ考え直す。いいえ、もしかしたら、それも『恋している』状態だからなのかもしれない。奥様はきりっと眦を険しくさせた。 「いえ、本当の旦那様なら、とっても嫌な気持ちになっていらっしゃるはずです。薬のせいで正当に怒ることもできないんですわ」 「……そうか」 あまり納得されていない返事だった。も、もどかしい。罪を告白しているはずなのに、なんだかきちんと通じていない気がする。 「あの、ですからですね」 「……それより、なぜだ」 「え?」 「嫌われるために、盛ったのだろう」 きゅっと口をつぐむ。リディアンヌは数度、浅い呼吸を繰り返した。それから、もう一度微笑みを刷く。 「お恥ずかしい話なのですが」 意を決して切り出した。 「旦那様もご存知でしょう、わたしは一度、婚約者に逃げられております」 「……ああ」 「誤解なさらないでくださいね、それが特別辛かったというわけではないのです。エルロイのお屋敷でもお話したように、わたしはあの方を愛していたわけではありませんし、悪い出来事だったとは思っていないので」 「……そうか」 ああ、優しい顔だわ。リディアンヌは、オルレアンの表情の差を分かるようになっていた。この顔は、きっとほっとしている。リディアンヌが傷ついていないことに安堵してくれたのだろう。旦那様は無口で無表情だけれど、何事にも無関心というわけではないのだ。 「ただ、わたしはそこで、考えたのです。人は恋をする生き物なのだと。何かを愛して、何かを選ぶのだと。わたしは小心者なのです。それが再び訪れるのではないかと思うと、こらえきれなかった」 もし、もう一度、この嫁ぎ先にそんな出来事が起きたら。 つまり――旦那様が、恋をしたら。 「三ヶ月」 「……?」 「わたしがこちらに嫁いで、三ヶ月が経ちました。きっとまだまだ短いのでしょう。けれど、長くないかといえば、そうでもないと思うのです。三ヶ月は、充分です。人が人に情を抱くのに、そしてそれがこの先起こるか判断するのに充分な時間です」 そして、三月経とうとも、オルレアンがリディアンヌに恋をする素振りは見られなかった。 いいや、恋ではなくとも、愛そうとする気配でもよかった。でも、情では駄目だと思った。もっと、強いもの。心を縛るもの。そうでなければ、いつかオルレアンのもとに運命が現れたら、きっと簡単に砕け散ってしまう。それであるのに、オルレアンは罪悪感を抱いたかもしれない。情というのは、そういう、たぶんとてもささやかで優しいものだ。 そしてもし、こうして彼の淡々とした気遣いに触れ続けたら、リディアンヌも情を――あるいは恋慕を抱いてしまうかもしれない。 恐ろしかった。 もしそうなったら、わたしは、気が狂ってしまうのではないかしら。 胸に芽吹く予感を無視したかった。未来が怖かった。彼の幸せに打ちのめされるのではないかと思った。 ならば、いっそ、嫌われてしまいたい。 「だってそうなったら、さすがのわたしだって期待せずにいられるはずですから」 そしてきっと、傷つかない。 まあ、仕方ないわね、と微笑えるはず。だって、恋だものね――と。 そして、旦那様も、気兼ねすることなく恋を全うできるだろう、と。罪悪感など、抱くこともなく。 |