水瓜とひだまり。

 

 

 

 

 

 もういつものことながら困っちゃうわ、と頬に手を当てる美弥の母親と一緒に、晴久は隣にある自分の家までとんぼ返りした。出迎えてくれた兄に、これこれかくしかじかと説明すれば、彼はあちゃあという顔で奥の母を呼んだ。顔を覗かせた母に向かって、今度は美弥の母が説明する。晴久が昼間の悪寒はこれだったか、と遠い目になっていると、母は、

「あら、まぁ」

 小首を傾げて、これだ。

 それから、まぁまぁまぁと続けて、晴久の方へ近寄ってくる。晴久は次に母から出るだろう言葉を予想して、心の底から肩を落とした。この人、本当はぼくのこと嫌いなんじゃないだろうか。

 かくして彼女は笑顔でのたまう。

「晴久、あんた探してらっしゃい」

 

 

 

 

 

 

 そういう訳で、晴久は駆けずり回ることになった。村中ほとんどが田圃と畑で覆われたこの小さな農村は、その田圃を円とすると外側に位置するところが森となっている。というより山。なんとか山どうたらと色々名称があるらしいが、ここらへんの人は大抵裏山と呼ぶ。その裏山で晴久は樹の間を潜り抜け、落ち葉に降られ、泥だらけになりながら、美弥を探した。

 ああ、もう!

 何で美弥はこうなんだ。いつも、いつも、いつも、何でか命がギリギリなことを軽ぅくやる。自分からやるのだ。大人達はそれに慣れてしまって全然心配しないくせに、何故か晴久を使わす。だから結局晴久も何だかよく分からないことに巻き込まれて、割の合わない被害に合う。

 樹の幹を伝って、ずざざざざ、とぬかるんだ道とは言えない道を下る。

「み、やぁああああああっっ!」

 何で晴久が探す場所を裏山に決めたのかと言えば、美弥が蝶々を探してくると書いていたからだ。何にもない田圃より、裏山の方が蝶はいるだろう。というか田圃だったら誰か一人くらい見かけている筈だ。

 何より晴久は常のカンで、このどこかに美弥がいると確信していた。何故か、と問われても分からない。この世に生を受けて九か十の経験による賜物というところだろうか。

「みやあああああああ! ど————こ————だ————ッ!」

 枯れそうになる声を在らん限りの叫びに変える。いつも、いつもそうだ。晴久ばっかり美弥の心配をして、当の彼女は見つけてしまえばどこ吹く風。そうだと知っているのに。

 なのに、晴久はいつも、結局心底心配してしまうのだ。

「……っだ、」

 がつん、と爪先が何かに引っかかる。伸びた老樹の根のようだった。うわ、と思った瞬間には彼は躓いて転がり落ちていた。

「————のわああああああっっ!」

 情けない悲鳴を上げながらごろごろと転がり、ごん、と派手に腰を打つ。どうやら着地点についたらしいが、痛い。なんだか今日は痛い思いをしてばかりだ。

「……あれぇ?」

 深く深くため息を吐きそうになった時、気の抜ける声が届いた。晴久は固まった。ぎぎぎぎ、と面を上げる。

「晴久?」

 同じく泥まみれの美弥が居た。

 

 

 

 

 

 大分陽が落ちている。早く帰らなければいけない。

 ——いけないがしかし。

「み、——美弥?」

「晴久ー? 何でここにいるの?」

 ぽけらっと彼女は首を傾けた。晴久は数秒とぼうっとしたまま、

「…………あ、あ、あ、阿呆か——————ッ!」

 怒髪天を衝いた。

 ぜいはぁと息を荒くしながら怒鳴る。

「だぁ、もう、何、何してんだよ美弥のばか! ちょうちょうさがしにいってきますって夢見る三歳児じゃないんだからていうか何で蝶々?! そもそもいっつも注意力散漫なんだよたまにはもうちょっとこう色々周り見て動けって、いっつもおばさんに言われてるだろ!」

 一息に言って、乱れた息を整える。一瞬言い過ぎたか、とちょっとばつが悪くなったが、ぽかんとしていた美弥が、いつも通りえへらっと笑ったのを見て脱力する。……ああ。

 ほんっとうに、いつも通りだ。

 そうしてもう一度思う。

 どうして、こう、こいつはいつも阿呆なんだ!

「晴久、泥まみれだよ?」

「……美弥もだろ」

「あたしはいいの。自分でやってるから」

 にへにへと美弥は笑った。何だかものすごく嬉し気だ。晴久は憮然とする。片膝を立て、樹によりかかるようにして座り込むと、いそいそと美弥が近寄ってきた。……ああ、駄目だこれは。また負けた。何にかは知らず。

「でもさー、晴久はさ、あたしのこと探しに来てくれたんでしょ」

「……分かってるなら無茶やるなよな。美弥、ほんっとう酷いぞ」

「う、ご、ごめん。でも、分かったのは、晴久が怒鳴ってくれたからだよ」

「あ、そー」

「うん」

 もうどうでもいいよ、と適当に返せば、何故かくっついてくる。へへへ、と悪びれない様子に諦めの二文字が浮かんだ。

「で、美弥は何しにきたわけ」

「蝶々、探しに」

「……いや、だからなんで蝶?」

 そこが分かんないんだってば。

 聞くと、美弥は、ああととても柔らかく笑った。不覚、どきりとする。

「あのね、金色の蝶。捕まえたかったの。晴久に」

「…………は?」

 きんいろのちょう?

 そう、と美弥が頷く。晴久は意味が分からなかった。……いや、美弥の言うことが意味不明なのはいつものことだったが。

「晴久、お昼に蝶を見てたでしょ。きれいな、金色の蝶々。あれを、誕生日プレゼントに、しようと思って」

 晴久は絶句した。

 ——蝶?

 ああ、確かに、見ていたかもしれない。だけどそれに、そんな深い意味なんてなかったし、そんな物欲し気に見たつもりはなかった。あれは、多分、現実逃避だったと思う。

 だけどそんな一動作を見て、美弥はこんなところまで来たのだ。

 たぶん、晴久の為に。

「……みや」

「うん?」

「ばかだな」

「え」

 美弥の表情が目に見えてがぁんとなる。ざわざわと鳴る木々の音が、日が暮れたことを告げていた。ああ、本当にもう帰らなきゃいけない。そうじゃないと、さすがに母達も探しに来てしまうだろう。こんな遅く。

 こんな遅くまで、本当にこの馬鹿は何をやっているんだ。

 晴久はぎゅっと美弥の手を握った。ぱちくりと彼女は瞬く。思わずため息が出た。

「美弥、帰るよ」

「え、うん」

「蝶はいいから」

「! 捕まえたってば!」

 ほら、と葉に隠れていたらしい虫かごを見せられて、晴久は今度こそ呆れ返った。本当に見つけるとは。

 空いた方の手で、ぐしゃぐしゃと美弥の頭を撫でる。わぷ、と犬みたいな声を上げる美弥の顔をごしごしと拭う。

「美弥、泥だらけ。汚い」

「うっ。晴久だってドロドロ!」

「ぼくは美弥を探しにきたんだぞ」

「うう……、ごめん」

 虫かごの取ってを片手で握りしめて、美弥はしゅんと肩を落とした。まったく、と晴久は美弥を引っ張る。ここからなら、下っていった方が早く村に着けるだろう。さて右にいくか、左にいくか。そんなことを考えながら、ふと言い忘れていたことに気付いた。落ち込んだままの美弥を振り返って、ひと言告げる。

「ありがと、美弥」

「!」

 現金なことに、そんなひと言で美弥はぱあっと顔を輝かせた。

 ……いい気なもんだよなぁ。

 そう思いつつ、自分もふやけた笑顔に変わっていることには、気付いていない晴久だった。

 

 

 

 

 

 美弥と一緒に帰った晴久は、先ず真っ先に「汚い!」と怒られた。……おかしい。

 兄に風呂へ放り込まれ、美弥は一旦家に帰された。どごん、とものすごい音が聞こえてきたのは多分、美弥の母親が特大級のげんこつを喰らわせた為だろう。いつもながら恐ろしい拳だ。

「おまえも大変だなぁ」

 しみじみと恒夜が風呂の引き戸越しに呟く。晴久はわしゃわしゃと頭を洗いながら、ぶつくさ文句を言った。

「じゃあ、兄ちゃんもなんとかしてよ、お隣さんだろ」

「いや俺に美弥ちゃんは無理だろ。大体行方くらませたあの子を見つけられるのって、おまえだけじゃん」

「なんだよそれ。そんな訳ないし……ぶ、」

「あ、シャンプー入ったんだろ。喋りながらやるからだぞ」

「兄ちゃんが話しかけてくるからだろ!」

「責任転嫁はいかんぞー」

 けらけら笑いながら兄は去っていったらしかった。すっと影が消える。晴久はゆっくり髪を洗い流して、鴉の行水程度に湯に浸かって、のそのそと風呂から這い出た。

 あんまりゆっくりしているとまた母が文句を言うだろうからだ。

 ほかほかしたままタオルを肩にかけてダイニングに向かうと、既に花柄のワンピースに着替えた美弥が来ていた。なんとはなしにぼうっと見ていると、晴久に気付いた彼女が真っすぐやってくる。にへらへらと笑いながら。

「晴久、チキンだって!」

「ん」

 嬉しそうな美弥の顔に、知っているとは言い難かった。……ていうか美弥、その言い方だとぼくがチキンみたいなんだけど。

 来客用の椅子が引っ張り出されたテーブルには、チキンだけでなく、林檎とキャベツとマヨネーズが混ざり合った晴久の感覚からすると美味しいのか変なのか微妙なサラダに、かりかりに揚げられたポテトフライ、ほくほくと湯気立つ肉じゃがやオニオンスープが並んでいた。

 美弥の両親も兄もちゃっかり座り込んでいる。そういえば父が居ないな、と見回すとずれた眼鏡をそのままに、糸目の父がケーキを持って台所から出てきた。

「……父さん、それ母さんが投げたやつじゃないの?」

「ん? そうなのか? まあ味は一緒なんだから良いじゃないか」

「えー……」

「晴久、ケーキって投げるもんだっけ」

「そんな訳ない」

 鷹揚に笑う父は、昔から母に甘い。というか、あんまり突飛な行動を気にしない。緩いというか、なんというか。

「失礼ね、ちゃんと焼き直したわよ。あれは保存食になりました」

 ……それはまた微妙な保存食だ。というかケーキは保存食になるのか。

 苦い顔になる晴久を余所に、母はジュースのペットボトルと葡萄酒を持って席についた。普段お茶か水の彼の家にしては珍しいことだった。

「はい注いで注いで」

 その言葉通りにとぽぽぽぽ、と未成年三人にオレンジジュースが注がれる。そういえばこの兄も未成年だったなぁ、とぼんやり思った。

 大人の間では葡萄酒がなみなみ注がれた。そんなに呑んで酔っぱらわないのか。

 全ての人に行き渡ると、にっ、と母がこれまた小女のように笑った。

「それじゃ、乾杯!」

 陽気なかけ声に、かんぱーい、という声が次々と続く。かんぱーい、と晴久も言いつつ、どうでもいいけどこれって何のお祝いだっけ、と思っていたら、

「あ、ハッピーバースデー、晴久!」

 ついでみたいに付け加えられた。

 

 

 

 予想通り酔っぱらった母達を兄と酒豪の父に任せて、晴久と美弥は晴久の自室に逃げた。

 ある意味大冒険……いや小冒険をした美弥はうとうとしている。ずるずると座り込んで、壁を背に小さくなる彼女の肩を揺すり、ここで寝るなと呼びかけるが聞きゃしない。

「こら、美弥」

「んー……」

「……ったく、もー」

 仕方なく晴久も腰を下ろした。冷たい床はアルコールの匂いがしなくて良い。ふぅと息を吐いて、自分も充分疲れていたことを知る。つられるようにうとうと眠たくなってきた。

 ——ふいに。

 かくん、と美弥の頭が揺れた。そうしてことんと晴久の右肩に小さな衝撃がくる。

 晴久はちょっと慌てた。どうしてかは分からないが慌てた。

「ば、美弥。寝るなって」

「ん、んん……、ごめん、はるひさ……」

 むにゃむにゃと、何にか分からない謝罪が繰り出る。暫く肩を浮かせたり下げたりして抵抗した晴久だったが、結局諦めて、美弥の頭に軽く被さるように頭を預ける。

 と、ふふふ、なぞと美弥が笑う。何か良い夢でも見ているのだろうか。ぼんやりそんなことを思っていたら、心底嬉しそうな寝顔で、美弥が言う。

「……う、はるひさ……だいすきー……」

 晴久は硬直した。

 いっぺんに眠気が覚める。かぁ、と頬から顔中真っ赤になる。どくんと心臓が鳴った。それは一回じゃ止まなくて、引っ切りなしに鳴り続ける。

 落ち着け、と晴久は心の中で叫んだ。

 美弥はこういうことを平気で言う。ケーキも、蝶も、ひゃくにちそうも、大好き、だ。だからこんなのに深い意味なんてないし、そもそも美弥がそういう感情を知ってるかどうかすら怪しい。だから。

 だから。

 そう繰り返しても沸騰した頭じゃその続きが浮かばない。どくどくとやっぱり心臓は煩い。

 ……ああ、もう。

 真っ赤なまま、晴久はぐったり項垂れた。

 くぅくぅと隣で彼女は人の気も知らずに健やかな寝息を立てている。晴久はもう一度、心中で呻いた。

 ああ、もう。

 

 

 

 

 美弥のばか。

 

 

 

 

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