美弥はまるで子供みたいに笑う。 ぼくがどんなに慌てふためいても、ただただ嬉しそうに笑って、何でかくっついてくる。 そうしてくすくす笑いながら、そっと耳たぶを花の蜜みたいな声でくすぐっていく。
美弥っていうのは、そういうやつだ。
episode 02 そっと耳打ち
今日は朝から美弥の機嫌が良かった。 「……美弥、何してんの?」 美弥の家の裏手で畑の隅にしゃがみ込んでいる彼女に呼びかけるのも忘れてそう聞くと、美弥は驚いたように顔を上げた。 「晴久! なんで」 「美弥、遅いし。こないからおばさんに聞いたら勝手に連れ出せってさ」 ふう、と息を吐く。白くなる。ぐるぐるに巻いたマフラーは、あんまり温かくない。だがないよりはマシだろう。目深に被ったニット帽をぐいと引き下ろして、 「美弥、時間」 遅刻する、と腕時計を示す。のんきな幼馴染みは漸く、あっと焦ったような声を上げた。
季節は冬だった。 そんなに寒くない地方である筈なのに、どういうわけか雪だけは慣例行事にきちんと降る。今年ももう直降り始めるのだろう。ああ嫌だ。晴久は寒いのが苦手だった。 木々が枯れ、枯葉すら落ちない殺風景な砂利道をのんびり歩く。中々危ない時間帯だが、緩い学校なのでまぁいいかと諦めることにした。走ると余計に寒い。一本道が終わりを告げると丁字路になり、それを左に曲がると、田圃の土手を追い越しす形になる。ぷげぇ、と潰れた蛙のような声に視線を落とすと潰れてないが見た目は潰れているように見える小さな蛙が目つき悪く飛んでいた。 「……寒い」 「ねー、手袋欲しい」 「ていうか、美弥はマフラーくらいしなよ」 防寒具がダッフルコートと白い毛糸で編まれた帽子のみの美弥の姿にぞっとする。よく平気だな。ただでさえスカートなんて寒そうな恰好で、ぶらぶら歩いては躓いて田圃に転がり落ちそうになっているのだ。もっと寒さ対策を……というか怪我対策をしてほしい。 「晴久は、寒いの駄目だもんねぇ」 ふにゃりと笑う美弥は文句なしに寒そうで、寒がりの彼としては見ているこちらの方が寒くて寒くて堪らなかった。はー、と白いため息を吐く。致し方ない。晴久はしゅる、と自分のマフラーを取った。きょとんとする美弥の首にそれを巻きかける。 「ほら、大事に使いなよ」 ぐるぐるとしつこいくらいに巻いてやる。 マフラーに埋もれた美弥はぱちくりと瞬いたあと、くすぐったそうに、けれどこの上なく嬉し気にふやけた笑顔になった。 「へへ、ありがとー」 「んー」 「でもあたしより寒がりの晴久に借りるの、なんかすっごく気まずいよー」 「いーの、見てるぼくの方が寒い」 ぽん、と頭を撫でてやる。美弥はまたもふへーとにやけた。本当に今日は朝から機嫌が良い。 「……何、美弥なんかあったの?」 そういえばさっきは結局聞かなかったな、と思ってもう一度問いかける。 「んー? ああ、へへ、あのね」 「あっれ、晴久、と山菱?」 美弥が思い出したように言いかけた時、そこそこ聞き慣れた声がそれを遮った。ゆっくりと瞬いて、声がした方を見る。はたしてそこには垂れ目気味の、いつぞや誕生日に種をくれた友人が晴久達以上にのんびり歩いていた。 「達也がいる、ってことは、確実に遅刻かぁ」 「おま、何でそうなんだよ! 間違ってないけど!」 間違ってないじゃんか。 自覚はあるらしい。晴久はおまえね、と呆れたが自分も今遅刻仲間になっていると気付いてちょっと落ち込んだ。 遠藤達也というこの友人は、垂れ目といつでも眠そうな外見に反さず、大抵遅刻してくる。そうして何故かたまに変な生き物を連れてやってくる。生き物自体が変なのではなく、どこで見つけたという類いのおかしさだ。つまるところ全体的に達也がおかしい。 「おはよ、遠藤くん」 「おう。はよ、山菱」 にっ、と笑った達也は流れるように晴久にもおはようと言ってまたのんびり速度を落とした。……。 「おはよう達也。何でさらに遅くなる?」 「いや邪魔しちゃ悪いかなと」 「意味分かんないよ。単に面倒なだけだろ」 「……いや、それもあるけどさぁ」 達也はなんだか痒そうな顔になった。ぐにっと眉間に皺を寄せる。バイト中の恒夜みたいな顔だ。 「あ、そうだよ遠藤くん! 遅刻しちゃう」 「いやもう確実に遅刻だから」 「大体俺遅刻魔だしなぁ」 「ちょっとでもはやく!」 珍しく比較的常識的なことを言って、しかし達也の台詞は完全無視の美弥がぐいぐいと背中を押してきた。ふわ、とこんな時期でも水瓜の匂いが鼻孔をくすぐる。甘い、透明な、匂い。美弥の家の水瓜。 「あたし、今日あんまり真島先生怒らせたくないんだよぅ」 いつも唸らせてるくせに何言ってんだか。 肩をすくめつつも、晴久と達也は一応足を速めた。 ああ、冬って本当寒い。
帰り際、そういえば美弥にマフラーを貸したままだったことに晴久は気付いた。 まぁいいか、どうせ隣の家なんだし、と思わなくもなかったが、たとえそれがなくても先に帰れば美弥は盛大に落ち込むことだろう。仕方なくひゅうと屋内でも吹きすさぶ風に首をすくめながら、晴久は教室を出た。寒い。おかしいくらい寒い。もしや本当に明日あたり雪が降るのではなかろうか。げっそりする彼の背は見事ナナメに傾いでいた。 「……ほんと、しんしゅつきぼつだよな、美弥って」 でもしんしゅつきぼつってつまりどういう意味なんだろう。 やっぱりぼんやりとしか分からない四字熟語だった。 ぺたぺたと上履きを鳴らして廊下を歩く。と、不意に甘い匂いがした。透き通るような甘さ。——美弥、だ。 「——ありがとう、真島先生!」 晴久はばん、とこの寒いのに廊下の窓を喧しくこじ開けた。そのまま飛び降りるような勢いで、外を見下ろす。 「美弥?!」 「……はるひさぁ? どこ?」 晴久のマフラーをへたくそに巻いた美弥は、中庭で担任と土をいじくっていた。 (気付かないし!) 晴久は人目も気にせずしゃがみ込んだ。否、へたり込んだ。さすがの彼も外まで行くのは御免被りだ。未だ晴久の居場所に気付かぬ美弥は、はるひさー、どこー? などとのんびり声を上げている。晴久は窓の外へ、腕だけ出した。そうしてひらひらと振ってみせる。 「ここ」 届かないだろうなと思いつつ、小さな声で呟く。だが。 「——晴久、みっけ!」 明らかに嬉し気な声で、彼女は何ともとんちんかんなことを言った。 晴久は驚いて、ぱちぱちと幾度か眼をしばたたいた。待ってて、今いくー、と彼の方に向けて美弥が言う。え、ともう一度窓外を覗くが彼女はもう姿を消した後だった。担任の真島がくすくすと笑いながら見上げてくる。揶揄うような色を含んだ眼差しが、なんだかひどく、気恥ずかしかった。 美弥は、どうしてか晴久の声だけは、聞き逃さない。
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