水瓜とひだまり。

 

 

 

 

 

  僕が五歳の頃のことだ。


 美弥が酷く泣いたことがある。

 

 

 

 

 

 

 

 episode 03 素の君に惑わされ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは新年恒例の餅つき祭の日で、例年通り雪が降っていた。美弥はやっぱり手袋もしないで村を駆け回っては転んでいた。

 その頃、美弥の間抜けっぷりはそこまで重要視されていなかったが、晴久に降り掛かる災難は相変わらずだった。——いや。

 いや、けれどそれも、今ほどは酷くなかったのだ。

 というよりも彼女の周囲の人間に等しくとばっちりが振りまかれていたといった方が正しいかもしれない。つまりその分散されていた災難が今では晴久に余す事なく回っているということである。何故だ。おかしい。

 兎も角、そんな、まぁこれといって何か特別なこともなくのほほんと冬の日は過ぎていくようだった。

 のだが。

 例によって例の如く、美弥はやらかしてしまったのである。





「……あ、」

 どてん、と。

 はしゃぐ村の少年達に押されたらしい美弥は、どうやったらそうなるのだと絶句したくなる見事絶妙な角度でスッ転んだ。

 否。絶句した。そこにいた村人のほぼ全員が絶句した。

 並んだ保温ポッドを巻き込み、バケツの上に立てかけてあった杵と柄杓それぞれもぶっ倒し、手水用の水入りボールにまで足を引っ掛けて、終いには臼に頭を突っ込んだ。とても人が作る音と思えぬなんとも肝の冷える音が響いた。正直凍った。晴久はその時美弥が死んだんじゃないかと本気で思った。

「……み、」

 暫く茫然としていた村人の一人が、はっと彼女に駆け寄った。突っ込んだままぴくりともしない五歳児を慌てて引っぱり抜き、起こしやる。ぐるぐると眼を回していた美弥はぐったりしていたが、漸く合った焦点で己が引き起した惨状を見て常にないほどざっと青ざめた。

「み、美弥ちゃん! 大丈夫かい?!」

 晴久も背を押されるように駆けて美弥に近づく。硬直が解けたらしい他の村人達もわらわらと彼に続いた。彼女を押したある意味諸悪の根源(、、)も真っ青な顔で泡吹きながら寄っていく。

「み、美弥……? だいじょう、」

 晴久はおそるおそる、美弥に手を伸ばした。青ざめた美弥はのろのろと顔を上げ、——零れそうな両目にはっきり怯えの色を浮かべた。晴久は息を止めた。まるでひび割れるみたいだった。びく、とつい伸ばした指を引っ込める。その瞬間美弥は猛然と起き上がり、めちゃくちゃに走り出した。

「————え、美弥っ?!」

 どよめく村の人達を振り切り、まろぶように走り去っていく。晴久は一瞬思考が停止して、またも茫然としてしまった。けれどだんだんざわざわと喧噪の激しくなっていく周囲を抜けて、同じ様にめちゃくちゃに駆け出した。何も考えずに、先を走る美弥を追いかける。ぼすぼすと長靴がいちいち雪に埋まるから走り抜くいことこの上ない。それでも美弥を追いかける。灰色っぽく見える畑も雪を被っていて、視界すらばらばら降る六花でまばらになる。だけど。

 だけど、美弥のちいちゃな背中だけは瞼の裏まで灼きついている。



 落ち込んだり何か困ったことがあったりすると、美弥は大抵自分の家の裏庭にいる。

 案の定、今は雪に埋もれて白く染まった水瓜畑の畦の前で彼女は膝を抱えていた。わりと全力疾走した晴久はひぃひぃと情けなく息を整えてから、深くため息をついた。ほとほとと重い足取りでちっちゃなちっちゃな背中と頭に声をかける。

「み……」

 かけようと、したのだ。だが。

「……っ、ひっ……う、ぅぐ……っ」

 無理矢理に押しつぶすようなしゃくり声に、またも思考が停止した。ついでかつてない勢いで混乱する。ぐるぐると沸騰しそうなくらいに頭の中身を回転させる。知らず、ずりずりと後ずさっていた。——なんだ、なんだこれ。なんで。

 美弥、泣いてる。

 五歳の晴久の知る中で、少なくとも覚えている限りでは美弥が泣いているところなんて見たことがない。それも、こんな、痛そうな泣き方。

「み、みや……」

 晴久は思わず名を呼んだ。どうしてか美弥の泣く声が耳に痛かった。苦しくて苦しくてなんだか晴久の方が押しつぶされてしまいそうだった。

 晴久のその微かな声は、だけど美弥に届いてしまったらしく、ぐりんとちっちゃな頭が振り返った。透明な塩水が眼のふちに浮かんでいる。その眼が大きく見開いていた。息が詰まるような数拍の後、美弥はふらふらと後ろ足に身を引いた。晴久はぎょっとした。——落ちる!

「ばかっ、美弥!」

「え、————」

 一足飛びで美弥の傍までいき、間一髪で白い腕を掴む。ぐい、っと引っ張った勢いで晴久よりほんの少し低い背の美弥は、自然と彼のもたれかかる形になる。ぼす、と美弥の顎が肩に当たった。たたらを踏む。後ろにひっくり返りそうになったところを何とか堪えた。……あ、危なかった。晴久はひっそり冷や汗をかいた。

「み、美弥、だいじょうぶ?」

「…………——」

 無言。

 晴久は固まった。無反応。そんな馬鹿な。彼の経験からいってこういう場合の美弥は大抵お喋りになって慌てて謝って明るい顔をして見せる筈なのに。そう思ってしまってから、ふとそれがどこか狡い考えのような気がした。こういうのは不可抗力だ。うっかりなんて誰にでもある。兄ちゃんも言ってた。なのに、今にも落ちそうだった美弥に明るさを求めるのは、どうにも無理を強いるみたいに感じる。今の彼女の反応の方が、きっとずっと一般的なのだ。晴久はちょっと反省して、落ち込んだ。多分、一番仲が良いお隣さんに理不尽を強いていたのだと、苦い気分になる。ごめん。ごめん、美弥。

「……ごめん、なさ」

 晴久はびくっとした。心を読まれたかと思った。が、その小さな呟きはどこからどこまでも美弥のもので、そういう彼女の顔色は酷く悪い。

「美弥? ぼく、だいじょうぶだよ」

 美弥も、もうだいじょうぶだよ、と宥めるように肩を叩く。だけど美弥はふるふるとかぶりを振った。そうしてもう一度、ごめんなさいと呻く。

 呻く。

「ごめ、ごめん、なさ……っ、なんで——なんで、あたし、こんな。ごめんね、ごめんねはるひさ。い、いっつも、あたし、めーわくばっかり……っ。な、なんで、しっぱいしちゃう、んだ、ろう。み、みんなのお餅、だ、駄目に、しちゃった、よう。せっ、せっかく、きれいに準備でき、たのに。みんな、楽しみに、してた、のに……っ!」

 ごめんなさい、と。

 何度も何度も美弥は謝る。

 晴久は声をなくした。なんて、なんて言えばいいのか分からなかった。

 そもそも今日あんな大惨事になったのは究極的に言って騒いでいた少年達のせいだろうし、きっとあれくらいまたセットし直せるだろう。でもきっと美弥が言いたいのはそういうことじゃない。美弥のいつもドジ間抜けはいつものことで、多分彼女の天性の性質な訳で、それはみんな分かっているし、きっとこの村の人達は誰も彼女を責めないだろう。だけど美弥はいつも苦しかったのかもしれない。今みたいに。台無しにしてしまったり、巻き込んでしまったりすることが怖くて。怖くて怖くて堪らなくて。謝りたくて謝りたくて堪らなくて。きっと、きっと本当は泣きそうだったんだろう。でも美弥は泣かない。いつも笑って、祈るように謝って、防衛本能みたいに明るくなる。泣く権利なんてない、って、多分、阿呆の美弥は思っているんだ。

「はる、はるひさ。ごめんね、ご、ごめ——ごめんねはるひさ。もっと、もっと頑張る、から、きら……嫌いに、ならないで」

 ぐしゃぐしゃに泣きながら、美弥はぎゅうっと晴久のコートの裾を握りしめた。かたかたと指中震えていた。——晴久は泣きたくなった。

 嫌いにならないで、なんて。

 どうして。

「ばか! ばか、美弥。ぼくが、嫌いになる訳ないだろ。ばか」

「う、ひ……っぐ、ぅ……、だ、って」

「だってじゃない。いいか。いいか、美弥。ぼくは、きっと、ずっと美弥の傍に居る。他のひとがどうかは知らないけど、ぼくは美弥のとばっちりでも何でもうけてやるし、美弥がぼくにそんな風に謝らなくたっていい。ぼくになら無理しなくていいし、泣いたっていいんだ。美弥。ぼくは美弥を嫌いにならない。ずっと。ずぅっとだ」

 言い含めるようにして、ぎゅうっと無理矢理美弥を抱きしめる。雪の中で冷えたコートの冷たさと、だけど美弥の温かさが伝わってくる。みや、と何度も何度も心の中で呼びかける。ごめん。ごめん美弥。ぼく、ずっと、気付かなかった。ずっと一緒に居たのに。美弥は阿呆だけど何も考えてない訳じゃないって、知ってたのに。むちはつみだって、前兄ちゃんが言ってた。だからぼくのこれは、“つみ”だ。

 美弥、ごめん。

「……ほんとう?」

 風に紛れるような呟きに、腕の力を少し緩めて彼女を覗き込む。きれいなきれいな涙が美弥の赤くなった頬を滑った。すうっと涙の痕がついている。透明な眼差しが突き刺さってきた。晴久はうん、と頷く。はるひさ、と美弥がまた泣き出しそうな顔で彼を呼ぶ。

「はるひさ、ずっと、ずっとそばに、」

 多分一番言いたいところが喉に詰まってしまうらしかった。だけど晴久は待った。じぃっと美弥を見て。

 ひぐっ、としゃくりあげながら、彼女はなんとか言う。

「……ごめん、——そ、そば、に、いて」

 怯えながら、震えながら、美弥は言った。それだけ望むのすら怖がって。

 だから晴久は笑った。晴れの日みたいに笑った。

「うん。そばにいるよ、美弥」

 みるみる溜まった涙を流し、美弥は大声をあげて泣き出した。

 きっと、はじめて。




 自室でそんなことを思い出していた晴久は、ベッドに寝っ転がったまま顔面に雑誌を乗っけて呻いた。

 ああ。

 今のこの美弥からとばっちり受けまくっている現状はつまり、自業自得だったらしい。

 思えば被害が割り増したのあの日からだ。もちろん美弥にそんなつもりはないのだろうが、普段張っている緊張が彼の前では緩んでしまうのだろう。なんてことだ。五歳の自分の馬鹿。もっと言い様がなかったのか。ミライの受難な自分に謝れ。

 ずずず、と雑誌が横に滑り落ちた。トン、と床に角がぶつかる。両手を投げ出して彼は考える。

 ……もしかして。

 かああああ、と顔中赤くなる。

 ああ、もしかして、ぼく。


 あんな時から美弥が好きだったのか。

 


 

 

 

  back top next

inserted by FC2 system