たぶん、あの時だ。 あの時。
晴久は、あたしの神様だった。
episode 04 幸せの音
ものすごく、眠い。 くわわ、と大きな欠伸をして、眼を擦る。見なくてもくっきり隈が出来ているのが分かった。睫毛が乾いてパサパサしている。うう、眠い。 いってきまぁす、ともごもご言いおいて、くすくす笑う母の声を聞きながら玄関を出ると、丁度晴久がドアを叩こうと片手を上げているところだった。ぱちくり、と瞬く。釣られたように晴久も瞬く。美弥は破顔した。眠気も吹っ飛ぶくらいに、嬉しくなる。 「晴久。おはよう」 「……おはよ。何、どうしたの。珍しい」 「何がー?」 「俺が呼び出す前に出てくるなんて」 美弥はむぅと唇を尖らせた。何それー、と眉を寄せる。しっつれーだなー、と続けようとして。 ふと、強烈な違和感に固まった。 口が半開きになる。危うくどてんと転びそうになった。何故か。でもそれはいつもの事だ。そう、いつも。いつも、だ。いつも、じゃないのが、今。 「は、——はるひさ!」 固まった美弥をおいてさっさか歩き出してしまった晴久に向かって、彼女はつい、とんでもない大声で叫んでしまった。 ぎょっと晴久が振り向く。なんだよ、と驚いたような声で聞いてくる。だが、なんだよ、はこっちの台詞だ。彼女はぱくぱくとしきりと口を開閉させて、 「どうしたの?!」 また叫んだ。 美弥の大事な大事な幼馴染みは、はぁ? とさっぱり意味分からなそうに首を傾げる。ああ伝わってない。 「な、な、なんで」 「何」 「なんで、おれ、なの?!」 晴久の動きが止まった。止まったというか、意外なところを突かれた、といった感じだ。きょとんして、それから漸く思い至ったように、ああと呟く。 「俺、もう十歳だし。来年はもう小五だし、そろそろ変えようかな、って」 かな、って。 なにそれ。 「そ、れ——関係あるの?」 「んー、ていうか年相応に、って。達也なんかもそうだし。別にぼくのままでも良いけど、まぁなんとなく。気分」 「気分ッ?!」 「ってばか転ぶぞ! 大人になったら戻すよ。あーでも私の方が良いのかな。どうなんだろ」 「な、な、な、そん、それが、理由なの?」 「……なんだよやけに気にするな」 「なんかよそよそしい!」 口調も! という意味を込めて言ったのだが、伝わらなかったらしい。そう? なんて訝しげだ。寒そうに震えて、マフラーをぐいと寄せる。もう既にどうでも良さそうになっている彼の服の裾を美弥はぐいーっと引っ張った。 「年相応に、って、でも、ずっと『ぼく』の人だっているよ?」 「まぁそうだけどさ。でも、俺、そういう感じじゃないし」 「……それ、誰に言われたの?」 美弥はカンが告げるままにそう聞いた。晴久もそれが分かっているんだろう、何でそう思うんだ? なんて無駄なことは聞かずにあっさりと答えてくれる。 「兄ちゃん」 恒夜さんのばか!
はー、と重いため息をついて、お弁当を広げる美弥の肩を、友人の留美がとんとんと叩いてきた。ぼんやり顔をあげる。なぁに? と尋ねると、彼女は不思議そうに、 「美弥ちゃん、何でそんなに沈んでるの?」 聞いてきた。お弁当を広げようとしていた他の友人達がげほっと咳き込んだ。聞いちゃうなよ! という声が聞こえるようだったが、当の二人は気付かない。 「んー、と」 「あ、言い難いならいいよう。ごはん入んなくなっちゃうもん」 自分で振っといてそれか! と誰かが突っ込んだ。しかし美弥も留美も気付かない。各々お弁当を広げ、プラスチックの箸入れを開ける。 「て、いうかねぇ。すっごく、どうでもいいっていうか、くだらないことなんだよねぇ」 だから、言っても呆れちゃうかなぁ、って。 などと彼女はのたまったが、まさに『そんな今更』な言葉である。 案の定、留美はそれこそどうでもよさそうにしかしはっきりぐっさり言った。 「わたし、美弥ちゃんにはいつも呆れてるけど」 「ばっ、ちょ、留美ちゃん! くうきっ、空気読もうよ!」 さすがに一人がそう言いながら留美の腕を掴んだが、彼女はそうー? とぽやぽやするだけでまったく反省の色が見られない。というかきっと聞いていない。美弥はそんな友人達をぼへらっと観ながら、むーと首を振った。 「んんん、そういうんじゃなくてー」 多分、留美が言っているのは自分の普段の行動というかドジについてだ。日頃ひたすら迷惑をかけまくっているから——実際は迷惑なんて可愛いものではなく、命の危険と美弥自身の安全を心配させているのだが——当然だが、美弥の思うそれとは少し違う。だって、本当にくだらないことなのだ。しかも美弥自身に関わることではない。 あぐ、ときんぴらごぼうを口に運ぶ。 「んーとねぇ。……晴久の、ことなんだけどねぇ」 「まぁ美弥の悩み事に関わるのは大抵晴久くんだよね」 「う、そう? 他にもあるよう」 「そうかなぁ。まぁ、それで?」 ん、と頷く。頷きつつ、もぐもぐと咀嚼する。ごくんと飲み込んで、箸を伸ばす。二人以外の友人達ははらはらしていてまったく箸が進んでいなかったのだがそれにも気付かない。 「……変だー、って。思わない?」 「……美弥のこと?」 「違うよう。晴久のこと」 留美はきょとん、として周りを振り返った。が、その周りの少女達も、よく分からないという顔をするだけだ。そう? 別に。普通だと思うけどなぁ。ていうかそれって美弥のせいで疲れてるんじゃ、などなどと口々にそんな言葉が飛び交う。美弥は肩を落とした。 そうかー、変じゃ、ないのかぁ。 違和感、なんて感じるの、あたしだけなんだー。 そんなことを困ったように呟いた。それを留美が聞きとがめる。 「晴久くん、様子変なの?」 「んーん。それはいつも通り。じゃ、なくてねぇ。晴久、自分のこと、俺って言うんだよう」 ぽつりと零せば、一瞬ざわめきの波を引いた。ああ、と一人が納得したような声を上げる。 「そういえば……そうだった、かも」 「そうだよう」 「……うーん、まぁ、ある意味変って言えば変だけど。それがどうかしたのー?」 「……とんでもなく違和感、が」 「それ美弥だけだと思うけど」 現にわたし達気付かなかったし、という留美の言に、みんなしてうんうんと頷く。そっかー、としょんぼりする美弥に、ところで、と誰かが話題転換する。もうどうでも良くなったらしい。卵焼きを頬張りながら、美弥は仕方なく続きを待った。まったくもう、人の気も知らずに。そんな、ここには居ない幼馴染みへの不満がもたげる。まったく。 ……ああ、でも、本当に。あたしはどうしてこんなに参っているんだろう。きっと、全然、大したことじゃあない筈なのに。 「——で? 美弥ちゃんはあげたの?」 不意に向けられた言葉に美弥は反応出来なかった。え、と戸惑いが零れる。赤いリボンをつけた少女が、だからーっ、と繰り返してくれる。呆れ混じりに微笑みつつ。 「美弥ちゃんは晴久くんにチョコあげたの?」 ——あ。 美弥はぴき、と固まった。それで周囲が、ああー、とさらに呆れ顔になる。つきあい長い彼女達にはすぐに友人の常変わらぬドジに得心したようだった。美弥はそんなことは露とも知らず、かたかたと手を震わせる。 すっかりうっかり忘れていた。ざぁっと血の気が引く。ああ、もう、どうしてあたしってこうなの! せっかく。せっかく! 夜中、ずぅーっと起きてまで、作ったのに! 隈が出来るほど時間がかかったのは別に美弥が少女漫画の主人公のように料理下手というわけではなく、これまたいつも通りに予想のナナメ上をいくドジを踏みまくって台所が台風跡地みたいになってしまったのを料理時間の三倍はかけて片付けていたからなのであったが、彼女はそれはカウントしないことにした。うう、情けなく唸る。 もう。 なんでこうなんだろう。 美弥は実のところ、そこまで何も考えていないわけじゃない。と、自分では思っている。だけど色々色々、大事なところで抜けていて、それからとてもそそっかしいのだという自覚くらいはあった。それで村の人にも級友達にも迷惑をかけてばかりだとも。——神様みたいな幼馴染みには特に、とも。 今日はバレンタインだ。だいすきなひとにチョコレートを贈る日。女の子が。そう、美弥の母と姉が笑っていた。ひそやかに、春の花みたいに。やわらかく。それから美弥の額を人差し指で弾いて、だからお父さんやお友達にちゃあんとあげるのよ、とつけ足した。ふぅん。ふぅん、と美弥はその時相槌を打って、そうなんだ、と首を傾げた。床に届かない足をぶらぶらさせて。だいすきなひと。だいすきなひとに、あげるんだ。ふぅん。ほわり、浮き立つような心地になる。あげたら、喜んでくれるかな。ちょっとはお返しになるかな。そんな取り留めのないことを思って、彼女も漸う、母達と同じように笑った。少し驚いたように瞬く二人を不思議に思いつつも、そんな疑問はすぐに頭の中から飛んでいくくらいに、美弥はその時幸せだったのだ。 だというのに、すっかり忘れて渡さず終いだなんて。 はぁ————、と重いため息が肺を空っぽにするくらいに吐き出る。食べ終わって空になった箱を包み、鞄の中に押し入れる。するとぐいと襟を引っ張られた。椅子から転げ落ちそうになって振り返ると、留美がくすくすと笑っている。のが目の中いっぱいに映り込む。美弥はぼんやりした。 「……留美ちゃん?」 「だぁいじょうぶだよ、美弥ちゃん。放課後でもいつでも、渡すぐらい出来るでしょ。美弥ちゃんはそれこそお隣さんなんだから、帰ってから渡したって良いじゃない」 「ん、そう、なんだけど」 「うん?」 「一回失敗すると、」 「うん」 「何だかまた、忘れてしまいそうで、こわい」 留美はゆっくり瞬きした。ぱち、ぱち。湿度を持った睫毛が上下する。あれぇ、と不思議そうな呟き。何だろう。今、何かおかしなことを言っただろうか。 「……美弥ちゃん、って」 「なぁに?」 「……ううん、なんでもない。え、と。——まぁ、美弥ちゃんなら、明日まで忘れちゃうくらい、ありそうだけど」 「……うん」 「そんなに渡したいの?」 「うん」 「どうして?」 どうして。きょとんとしてしまう。どうして、ってそれこそどうして。渡したい、のは当然じゃないだろうか。だって。 「だって、あたし、晴久大好きだもん」 留美ちゃんが表情の読めない顔になる。それから何か考えるように俯いて、何事か口をもごつかせる。美弥はそんな友人の姿をぼんやり見つめた。どうかしたの、とまだお弁当を食べている少女が聞いてくる。美弥は何でもないよと首を振った。と、唐突に留美が口を開いた。 「……学校であげたいの?」 「え? ああ、うん」 「どうしても?」 「え、そういうわけじゃ、ないけど。みんなの分も、持ってきた、し」 言うと、留美はまた沈黙した。反対に水色のお弁当箱を包み始めた少女が、あたしもー、と暢気に手を振った。それに数人が連なる。友チョコ、というやつだ。 「あ、じゃーさ、今渡しちゃうよ」 「朝時間なかったんだよねー。揃ってなかったし」 「ちょっと待ってて、今とってくるー」 口々に言って、ばたばたと動き始める。美弥も慌てて紙袋を探した。手にとって、その拍子にばさっと落とす。うう。予想通り。 「ん、留美ちゃん。はい」 隣の留美に小さな袋を差し出すと、彼女はありがとー、と嬉しそうになって受け取ってくれた。美弥はほっとした。バレンタイン、というものを知ったのは、確か三年生が終る頃、丁度この時期だったか。上級生達がやり取りしているのを怪訝に見ていた彼女達に、先生が、バレンタインなのよ、と教えてくれた。それなんですか、と聞けば、お母さんに教えてもらいなさい、とあしらわれてしまったけれど。 だから、これは初めてのバレンタインだ。少なくとも美弥にとっては。街の、もっとずっと向こうに行けば、もっと早くに知っていたかもしれないけれど、小さな小さな村と街だけで過ごしてきた彼女達が知るには、まぁまぁな頃合いだった。大抵の人間が、ゆったりまったりしているのだ。 「はい、わたしからも」 可愛い花模様のラッピング。口許が緩んで、えへへ、と笑ってしまう。ありがとー、と返すと留美も同じ様に微笑んだ。ほんわりしている間に他の少女達も戻ってきて、飛びつくようにチョコレートの包みを渡してくる。少々不格好なのはご愛嬌だ。それぞれ心底嬉しげに受け取っては差し出して、教室の反対側で物欲しそうな顔をしている男子達にはまったくさっぱり気付かなかったのだった。
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