晴久が『俺』というのは。 心境と視界の変化というものだろうか。 それは、晴久が。 「美弥ちゃん!」 ランドセルを背負って、晴久の掃除当番が終るのを待っていたら、そんな声が聞こえた。先程別れたばかりの留美のものだった。もう帰ったのではなかったのだろうか。行儀悪く机に腰掛けていたのから降りて、ほてほてと教室のドアまで向かう。ひらりと泳いだ手をはっしと捕まえた。 「留美ちゃん。なぁに?」 マフラーを晴久のようにぐるぐる巻きにした留美はにっこりと笑った。 「だいじょうぶ。美弥ちゃんは、ちゃあんと渡せるよ」 ほら、これで忘れないでしょ。 そう囁いて、今度こそ彼女は帰っていった。 美弥はぽかんとして、それからゆるゆる、くすぐったいような幸福な気分になって頬を緩めた。うん、ともう遅い返事をする。返さないままになっている晴久のマフラーをかきあわせて、よしと気合いを入れてみた。ぐっ、と拳を握る。 「ごめん美弥、帰ろう……って何やってんの?」 美弥は固まった。ヘンな姿勢のまま振り向いて、——ずるっと足を滑らせる。拍子にぐわんと紙袋が浮き上がり、慌てて支えようとしてくれた晴久の額に激突した。げ。一気に肝が冷える。うわああ、しかも角だよ。 「ごめ、はるひさ……っ」 「……何でそこで滑る」 呻くように言われた次の瞬間、ふっとため息が首筋に降る。ぴく、と美弥は何やらよく分からない動揺で僅かに揺れた。そろそろと晴久を見上げて、不機嫌呆れが半分半分の眼差しにぶつかり、美弥はしょんぼりと謝った。いーよ、と軽い口調で呟き、晴久はぽんぽんと彼女の頭を叩く。美弥はなんとなく落ち着かない気分になった。最近、晴久はよくこんなことをする。まるで美弥のお兄さんみたいなやり方で、美弥に触る。ぽんぽん。軽やかで、なだめるよう。美弥はそれが、何だかひどく情けなくて堪らない。晴久が。 晴久が、遠くなってしまったような心地がする。 自分よりずっと、大きい人みたいに。 さく、さくと溶けてきた雪を踏みながらぼんやり曇り空を見上げる。雪が軋む音。晴久の白い息。それから美弥の。 ああ、とまろびそうになりながら、そのたんびに晴久が繋いでくれた手に助けられて、田圃が真っ白だ、と思う。ところどころに見え隠れする黄土色が霞んでくるほど。 「晴久」 美弥はあと少しで家だというところで、足を止めた。止めてしまった。晴久が瞬きして、立ち止まる。繋いだままの手。ああ、これも、おかしい。だって晴久は、いつもは手を繋ぐのを嫌がるのに。どうして今日は、学校から繋いでいてくれたんだろう。 「晴久が『俺』って言うのは、晴久が変わったから?」 は、と美弥の幼馴染みは口を半開きにする。なんのこっちゃ、と言いたげだ。 「それは『変化』? じゃあ、晴久は、もう、違うの?」 眼に映るものは、耳に聞こえるものは、その手が触れる感触は。 記憶に残る思い出すらも、違うのだろうか。 晴久は暫く黙っていたが、ふと美弥に視線を合わせるようにかがみ込んだ。ほんの、少し。だって、美弥と晴久の背はそれほど変わらない。少しだけ。少しだけ晴久の方が視線が高いくらいだ。だけど、昔は同じだった。ずっと同じ目線で、そんなことしなくても、視界は同じ場所にあった。 なのに。もう晴久は、美弥とは違う。うだうだと、もたついてばかりの自分とは。 「みや、」 柔らかい声に、はっと顔を上げる。繋いだ手が優しく外されて、手袋をしない美弥の手は、凍るような冷気に震えた。けれど直ぐさまそうっと両頬を触られる。綿毛のよう。手袋越しに伝わる微かな温み。 ふわ、と晴久が笑った。 「美弥、違うよ」 おかしいくらい、柔らかな声だった。いつもの晴久とは思えないくらい、穏やかで、優しくて、てらいなく甘い。あやすみたいに。 美弥は泣きたくなった。晴久はたまに、こういうことをする。美弥が本当に落ち込むと、怒鳴りつけて必死に宥めすかして約束をくれたあの時から、不意打ちのように優しくなる。美弥を泣かせるためだ。だけど美弥はいつも泣かない。泣きたくない。それを知っているから、晴久はただ笑う。そういう人だと、美弥も知っている。 ずっと、傍に、居た筈だから。 「美弥、こんなものに深い意味なんてないんだ。そんなことで、美弥が怖がることなんてない」 「……怖がって、ないよ」 「嘘つけ。——美弥」 「なに?」 「美弥は、俺が、怖くなった?」 ほんの少し、変えただけで。 そう密やかに言われ、美弥はぶんぶんとかぶりを振った。違う。怖くない。晴久は、怖くない。いつも。 怖いのは。 「だいじょうぶ、美弥。兄ちゃんが言ってたよ、人は成長するしかないんだって。だからこれも、変化じゃなくて、成長だ。跳び箱が一段多く飛べるようになるみたいなものだよ。だから、だいじょうぶ、美弥」 美弥、と何度も、晴久が呼ぶ。ああ、その、声が。美弥はとても好きだ。とても。 「これからも、俺はいつも通り、美弥の傍に居るよ」 美弥はきゅうと奥歯を食いしばった。ああ。多分ものすごい情けない顔で、美弥は晴久を窺うように睨んだ。 ああ、そうだ。 それがいちばん、怖かった。
美弥にとって、晴久は神様だ。 この小さな村にもさびれた神社がひとつあるし、名も知れない祠がぽつぽつ残っている。だから、たぶん、普通に神様はいるんだろう。と、美弥は思っている。だけど、それとは違って、晴久は神様なのだ。 約束をくれた、あの日から。 救いようもなく幸福になったのだ。 一瞬で、死にそうになるくらい息苦しくなった、あの瞬間に。
はるひさ、と情けない顔のまま、美弥は紙袋を突き出した。 「あげる」 「へ。……なに、これ?」 「バレンタインデー、なの」 晴久の動きが止まる。ばれん、たいん? と首が曲がる。美弥はちょっぴりがっかりした。やっぱり知らないのかなぁ。 「あのねぇ、バレンタインは、」 「あ、違う違う。知ってるよ。母さんに聞いた。じゃ、なくて。……美弥が?」 信じられない、と言いたげだ。 「……うん?」 「作った、のか?」 「え、うん」 「…………美弥が?!」 「何でそんなに驚くのー」 ちょっと失礼だ。むぅ、と眉を寄せると、彼はだって、といたく動揺した風に言う。 「だって、美弥だぞ?! 料理なんて、台所に立った時点で大惨事だろ!」 むか。 美弥は少々どころかたいそういらっとしたが、己を省みるところ、あんまり上手い反論が見つからなかったので、黙った。というか事実だった。ちょっとしてから、でも、と言い訳する。 「でも、あたし、別にしょうじょまんがみたいに料理下手じゃないもん」 「俺しょうじょまんが知らないし」 「……う。もー、ゲキヤクじゃないからだいじょうぶだって!」 ぐい、と押し付けるように渡すと、晴久は以外にもあっさり受け取った。どころかこんなことを言ってくる。 「別にいらないなんて言ってないだろ。……ありがと、美弥」 「!」 美弥は眼をまん丸にした。 何だかものすごく嬉しそうな笑顔でのその言葉に、ふわわわわっと体内の熱が上がる。どきどきと心臓が鳴った。わ、わ、わ。美弥は堪え切れずにえへへへへ、とだらしなく口許を笑み崩す。ちょっとでも、喜んでもらえたらしい。というのが、とんでもなく嬉しかった。良かった。遅くまで起きて、ちゃんと片付けして、今日も起きれて、今日晴久が休みじゃなくて、良かった。 「……美弥、怪しいぞ」 「う。いーのー、怪しくない」 マフラーに顎をうずめてさりげなく晴久の手を握る。そのままほてほてと早足になる。美弥は深く息を吸って言った。 「あのねぇ晴久。あたし、晴久すっごい好き」 「……知ってるよ」 ぷいと照れたように晴久はそっぽを向く。いつも通り、憮然とした顔。美弥は破顔した。ううん、と心の中で否定する。ううん、知ってない。知ってないよ、晴久。 だって、あたしはバレンタインにたったひとり、あげたいひとって意味で好きなんだから。
だから、だからね晴久。この『好き』はつまり。
紛れようもなく恋なのよ。
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