「アホか―――――――――――ッッッ!! 」 「うるっさいな! 誰も気にしないっちゅうの―――ッッッ!」 周囲の美しさを台無しにする怒号が、穏やかな朝を迎えたばかりのラファトリジャ中に響き渡ったのは、前回の彼の悲鳴から実に七日と十七時間ぶりのことであった。 トューリィ=ル=ファルストリスはうっとりと華やかな庭を堪能していた。 眼下に広がる色とりどりの花々。マーガレット、リリィ、ストレリッチア、コスモス、そして薔薇。それを護るように茂る、トューリィには名前も分からない多種多様なハーブ。白亜の宮殿にふさわしい華々しさだ。彼女にあてがわれた一室は、それはもうため息が出るほど美しく磨き抜かれ、吃驚するくらい完璧だった。不安というかむしろ「用意してくれてんのかそんなもん」とすら思っていた調度品も、まるで当然のように揃っている。姿見も、天蓋つきのベッドも、時価何ギルだと蒼くなるような細工の細かいクロゼットも、紅まで揃えられた化粧台も。 完璧だった。 こんな部屋、まさか一生のうちで過ごせることになるとは思いも寄らなかった。 さらに言えば彼女の居住予定地であるこの宮殿に勤める人々も良い人間ばかりだった。庭師の老人はにっこり喰えない笑みを浮かべつつ、花の名前や弱点を教えてくれたし、調理室のおばちゃんは豪快に笑って空きっ腹のトューリィにいつもパンを分けてくれる。筆頭女官であるマキリーシャは怒ると怖いが、厳しいだけで何かと気を遣ってくれている。のが分かる。分かり難いが。そして何より嬉しかったのは彼女付きの侍女になってくれた少女が、普通に可愛く普通にいい子な、丁度年の近い娘だったことだ。 そこまでは、全く文句ない。というか文句のつけようがない。 素晴らしい。 なんと幸福なことだろう。 「あの男すらいなかったら!」 がんっ、とトューリィは思いっきり白亜の宮殿の、そりゃもう綺麗な壁を蹴った。もちろんびくともしない。が、微妙に泥がつく。庭先でそんなことをすればまぁ当然のことなのだが、その白を局所的に汚してしまったことには、さすがの彼女少しばかり後ろめたい気分になった。がしかし。 「いやいやいやこれも全てあの男が悪い! よってこれは不可抗力!」 「な訳ないでしょう。何いってんですか」 ぐっ、と拳を握りしめてあからさまに責任転嫁したトューリィは、ざっぱり切り捨ててくれた声にぱっと振り返る。 「ルー」 「まったく、あの方がいらっしゃらなければ、貴女がここにいらっしゃることもなかったのですよ?」 困った顔もせずに、――つまり、有り体に言えば限りなくどうでも良さそうに、一応いっとくけどみたいな表情で正論を告げてきたのは、ルーフィアという、可愛らしい見た目の少女だ。見た目は、の話だが。 彼女はこの白亜の宮殿に連れてこられたトューリィにつけられた、お目付役兼侍女である。 しかし、その役職と反して彼女はいたく適当だ。どうやら姫君として規格外なトューリィを気に入ってくれたらしく、自国の王に対しては辛口極まりない。街中で格好良い騎士を見てきゃあきゃあ言ってる少女のような顔で、毒を吐くのだ。 トューリィはむ、と眉を寄せた。 「そりゃあ、この宮殿の人は好きだけど」 「けど?」 「ぶっちゃけあの男さえいなけりゃそんな選択肢すらなかったんだからそれはそれでいいと思わない?」 「あら」 ぱっ、といかにも良家の子女らしい仕草でルーフィアは口元をおさえる。本当に、見た目だけなら可愛いお嬢さんなのに。 「わたくしどもにあえなくても良かった、と?」 「そうじゃないけど、それとこれは別でしょ。大体もしかしたら違う形で会えたかもよ?」 「まあそれはそうですけど。手っ取り早く会えるのはこの形では?」 「でも気が合うかは会うまで分かんないじゃない?」 「まあそうですわね」 ふむ、と納得したらしい侍女を横目で見てから、トューリィはまたも白亜の壁を蹴りつけた。 「ッあ――――っ、むかつくっ!」 「一応ここは後宮なんですから、あんまり陛下を罵倒なさってはいけませんよ」 とか言いながらルーフィアは眉ひとつしかめない。良い根性してるよ、とトューリィはここにきてから幾度も思ったことを頭におく。 背中程度までしかない、貴族の娘にしては短い髪が風に舞い上げられる。トューリィの髪は稲穂の色だ。少なくとも彼女は養父母にそう言われてきた。だから特に、稲穂の精霊に好かれるのだと。綺麗で優しい色だから、と。夕焼けに照らされた、稲穂の色。仄かに夜露を弾くそれを、溶かし込んだような色素の薄い髪。懐かしい声が耳元で響くようだ。やさしくて、あたたかな。トューリィが愛した彼らの声。トューリィにとって、胸を張れるのはこの髪の色くらいだった。頭が良いわけでも、顔の造作が良いわけでもなく、かといっては身体は貧相だ。折れそうに細い四肢は格好の餌食になる。もちろんうざったいからかいの。だからトューリィは自分のほとんどが嫌いだったけれど、養父母が嬉しそうに褒めてくれたこの髪の色だけは好きだった。 ――と、いうのは今は別にどうでもいい。 「あーもうなんか逃げ道とかないかなー」 「無理ですよう。大体、逃げたらトューリィ様の大切なお義母様やお義父様が危ないのでは?」 「だよねー。あのくそじじぃならそれくらいしそうだよねー。まぁ、へーかはしないだろうけど」 かーっ、腹立つー!とぐしゃぐしゃ髪を掻きむしる。室内の、庭先に面した縁に腰をかけ、ぶつぶつと呪いの言葉を口にする。暫く魔霊も真っ青な悪態をついてから、行儀悪く組んだ膝に頬杖をつく。 「あーあ、ほんっとにへーかが他に綺麗で素敵なお嫁さん早くもらってくれたらなー」 「陛下が他に娶っても、貴女が妻のひとりなのは変わらないでしょうに」 「ぐぁっ」 心底どうでも良さげに呟かれた言葉を、聞き流そうとして聞き流せずにトューリィは変な声をだした。 がくんっ、と手から頬が滑り落ちる。 縁から落ちそうになりつつ、げんなりとルーフィアを睨む。 「ルー、やめてそれ」 「どれです?」 「妻っていうの。今すっごい鳥肌たった」 ぶるりと悪寒を堪えて言う。と、ルーフィアは呆れきった顔を見せた。 「トューリィ様、ほんっっっとうに嫌なんですねぇ」 「当たり前! 私はのんびり余生を生きようと思ってたのに……」 「余生ってあなた、どこのご隠居」 今日もルーフィアのツッコミは冴えている。 「ともかくっ」 ばっと、庭土を平べったい靴で踏みしめる。 「私はっ、はやくっ、この王宮から、で」 「――――おまえはなんて格好をしてるのだこのバカ者――――――ッ!」 意気揚々と掲げた拳と宣言は、悲鳴のような怒号に遮られて、格好つかずにずるっとトューリィの身を滑らせた。 |