4 芒、母と父の小さな思い出。







『大丈夫よ芒、何とかなるわ』

 柔らかで、優しい声音。多分、これは母の声だ。ずぅっと昔、十の半分にもなってなかったころ、母がおっとりした表情で、だけど不敵に言ってくれた。あれは。
 あれは、芒が花火に泣いてしまったときのことだ。




   *




 ふ、と芒は目を覚ました。
 ぱちぱちと緩慢に瞬く。どうやら寝ていたらしい。正座したまま横倒れになっていた。むっくりと起き上がって右頬をさすると床の板目の痕がついていた。がっくり。
 花火。
 芒は怪訝に眉を寄せる。自分は何で花火なんか怖がっていたのだろう。確かに初めは刺激が強いかもしれないが、幼児ならば、驚いて喜ぶならともかく何故に恐怖で泣き叫ぶ。薄ぼんやりとしか覚えていないが、結構凄惨に怯えていたように思う。何でだ。
 芒はなおも首を捻りながら、『よくわかる節約術』の本を引きずり寄せた。
 ぱらぱらとめくりながら、自分の手が随分冷えていることに気付いた。軽くその手を握り締める。どうしてか、いつものように本の内容が頭に入ってこない。疲れているときに似た感覚が、全身を襲う。芒は仕方なく本を放った。こういう時はいくら読んでも無駄だろう。
(……おかしいな)
 疲れている筈がないのに。
 芒はうっすらと目を閉じた。そういえば宿題をやっていない。まぁ笑未にまた見せてもらうか。それにしても、いつものことながら学校を休んでしまった。うえに、ケーキ食べてるし。法事だから仕方ないけど、やっぱり少し、後ろめたい。そんなことをつらつらと考える。
 刹那。

 ――ガチャン、
      ガチャ、
 

「……どろぼう?」
 一瞬目を点にして訝ってから、それはないかと直ぐに思い至る。今の音は正しい手段で解錠した音だ。と、いうことはつまり。
「芒―――――ッ!」
 父だ。
「父さん?なんか早かったね」
 ほたほたと玄関に向かう。ぜぃぜぃと荒い息を吐く父が靴箱にもたれかかっていた。どうやら大分急いで帰って来たらしい。
「……水いる?」
 とりあえず芒は訊いてみた。良夜はげんなりした顔で、
「ただいま芒、まずお帰りが欲しいなぁ」
 強要しちゃいかんことを強要した。芒は呆れたが、一応お望み通りに、
「……お帰り」
 返しておいた。





 こと、と仏壇の引き出しから良夜は太い蝋燭を取り出した。燭台に一つずつ挿していき、今度はマッチを擦る。ぼっ、と瞬く間に赤く揺らめいたそれを、蝋燭の先端に近付ける。じりじりと待っていると、蝋燭が同じように燃え上がった。
 芒は良夜の後ろでぼんやりとその作業を眺めていた。流れるような動作。慣れた手際。長年この作業をやり続けたことがはっきりと知れるような。
 数秒、静かな沈黙が降りた。
 良夜がゆっくりと芒を振り返る。線香を二本、手渡してきた。
「ほら芒。二本つけてやってな」
「ん」
 受け取った線香を、一本ずつ火に近付ける。じわじわと線香の先が白めいていく。くん、と鼻の奥を突くような匂いが、鼻腔をくすぐった。慎重に深緑の線香を香炉に立てる。白い煙が静かに燻った。くすんだ金が僅かに曇る。妙に豪華なお仏飯は、命日だからと父が気合いを入れていたためか、未だに仄かに匂いが漏れていた。
 音を立てずに手を合わせ、数秒黙祷。胸中で母を思う。綺麗で、柔らかで、身体の弱かった母。芒はちらりと父を盗み見た。とても、静かな顔で父は手を合わせていた。優しい表情だった。そのことに、芒は何故かほっとした。もう一度目を閉じる。今度は父と母の二人を思う。父は、母をとても愛している。昔から、今まで。ずぅっと。きっとこれからも。母も、父を愛していたのだろうか。今も、空の上から愛しているのだろうか。
「芒」
 はっと芒は瞼を上げた。良夜がにこにことこちらを見ている。
「そろそろ寝ようか」
「うん、……あのさ、昔、母さんが生きてたころ、あたし花火を見て怖がったことがあった……ような夢を見たんだけど、何であんなに怖がったんだろ」
 うーん、と最後は自問自答のように呟く。が、良夜は表情を引き攣らせた。
「……ぁあー……、あれはなぁ。母さんがな、まぁ……なんというか、無茶な火の点け方をしてなあ。うっかり爆発させちゃったんだよ」
 は?
「なんかもう地上で打ち上げ花火、みたいなことになっちゃってな」
 おいおいおいおい。
「前日に花火の本を買ってきたり炎色反応について調べたりしてたから、不思議には思ってたんだけど……」
「何でそこで訊ねなかったの」
「いや、また変なことしてるなぁ、と思ったくらいだったからなー……」
 …………また?
「母さんて、優しくて綺麗でおっとりした美人じゃなかったの?」
「そりゃ外見はね。でも中身は無茶なことが大好きな無茶な人だったから」
「……外見に惚れたの?」
「まさか! 父さんは母さんの中身に惚れたんだよ! もちろん外見も好きだけどね中身に惚れたから外見に惚れたというか秋穂さんの存在そのものに惚れたというかいゃあもぅ初めて会った時の秋穂さんの美しさといったらただのセーラー服が何か神聖なものに見えるほ」
「はいはい惚気はもう良いって」
 だんだん恍惚とした表情になってきた上に母さんから秋穂と呼び名が戻っている。芒はうんざりと良夜から離れた。まだ惚気足りなさそうにしている父にひらひらと手を振って、芒は就寝の言葉を口にした。
「おやすみ父さん」





 布団の中に潜り込み、直ぐに安らかな寝息を立てる。父が母の話をしてくれたおかげで、きっと今日はよく眠れるだろうと密かに安堵しながら。



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