ひたいに蝶々 

こうさんとあたし。 

 

 
 あたしは美人という部類に入るらしい。

 

 

 らしい、っていうのはあたし的には自分の顔は別に可もなく不可もなく、というくらいで、どんなに鏡を見ても美人とはいまいち思えないし、ずっと鏡を見ていたいとも思わない。まぁ不可じゃなくてラッキーかな、程度には思っていた。

 でも世間一般から見ると“美人”なんだそうだ。

 で、それでモテるかといえばそうでもなく、どっちかというと男女ともどもに敬遠されるタイプの“美人”だったらしい。だけど何事にも例外っていうのはあるもんで、妙なひとに妙な感じに好かれ、妙な厄介事だけはほいほいとやってくる。

 と、いうことに、全部ひっくるめて気付いたのは小学四年生の頃だ。

 そう自覚したあたしが何だかものすごく黄昏れてやさぐれてしまったことを、高校二年生になった今でもよく覚えてる。今でも思うからだ。勘弁してくれ、と。

 誰もが振り返るような美人なら、それなりに面白いかもしれないがしかし、あたしはごくごく平凡な美人で、さらに言えば突っかかりやすい美人だった。

 つまり、世の元気なご令嬢達が『調子こいてんじゃないわヨ』というベタベタな展開を繰り広げやすくかつこてんぱんにのしてしまいたくなる相手、って訳だ。

 ということであたしはたった今、夏休みに入ったばかりだというのに見知らぬ番号で呼び出され危うくリンチにあいかけ、ついブチッときてお世辞にも上品とは言えない微笑みを浮かべた娘さん方にアッパーをかましてきたところだった。

 あー疲れた。

 夏も盛り、うだるような暑さだっていうのに、よくやるもんだ。

 さんさんと破壊力の半端ない日差しが降り注ぐ公園の、なるべく木陰の辺りを渡り歩きながら、あたしはため息をつこうとして、

「はあああ——……」

 自分よりずっと盛大かつ暗澹としたため息に眼を丸くした。

 ……何このお兄さん?

 

 

 

 

 

 丁度いい感じに樹の幹が垂れて影を作るベンチの真ん中に陣取って座る彼は、重苦しいため息のわりに中々若々しかった。まるで新入社員みたいなスーツだったけど、ジャケットは脱いで白い清潔感のあるシャツの袖は肘まで捲っている。膝にその露出した肘をついてがっくりと項垂れる哀愁感漂う姿には微妙に不似合いだ。

 大学生くらい、だろうか。

 あたしはうっかり足を止めて彼に見いってしまった。丁度ため息をつこうとした瞬間に上がったのが、なんとなく驚いたからかもしれない。

 兎も角、このまま通り過ぎても別に構わない筈と思いつつも何だかそれはそれで気まずいという葛藤の末、

「えーと、お兄さん。どうかなさったんですか?」

 話しかけてみた。

 数秒、反応はなかった。だけどやがてあたしの薄い影に気付いたらしくばっと勢いよく頭を上げた。ぽかん、とその口が半開く。

「……え?」

「なんか、ものっすごい、ため息でしたので」

 また数秒彼は反応しなかった。が。

 数秒後にはみるみるその顔を真っ赤に染め上げた。

 あたしは吃驚して、——うん、正直に言おう。引いた。ドン引きした。大の男が顔を真っ赤にしても可愛くない。酔っぱらっているように見えるだけだ。じりりっと後ずさってこっそり退路を確かめてしまってから、えぇと、と耳に届いた声に瞬きして意識を集中させる。

「君、誰?」

 最もです。

 あたしは半笑いした。ですよねー、そう聞きますよねー、と照れ隠しに頭を掻く。照れ隠し。これは照れ隠しだ。断じて誤摩化しじゃない。

「嶋浪高校二年、観鹿島佳秧です。かなえ、でもみかじまでもどちらでも。お兄さんに話しかけたのは飴をねだっている訳ではなく、たまたまあたしがため息をつこうとした瞬間にお兄さんが盛大なため息をつかれたからです」

 そう言って、握手を求めて手を差し出すと、ため息青年は今度は数秒固まってから、苦笑とともに手を握ってくれた。

「参ったな。俺、女子高生に負けてる気がする」

 さぁそれは知りませんが。

 あたしはそんな皮肉をいうことはなく、ただ軽く肩をすくめてみせた。

 

 

 

 ベンチで隣を座るよう勧めてくれた彼は、霧坂恒樹さんと言った。

「こうさん、とお呼びしても?」

「新しい呼び方だなぁ。良いですよ、俺も佳秧さんとお呼びしても?」

「了承済みです」

「そうでした」

 あっさり切り返すと苦笑が返ってくる。あたしは眉根を寄せた。

「何故に敬語なんですか?」

「佳秧さんが敬語ですから」

「さっきは普通だったじゃないですか」

「気分というか」

「なんかむずむずします」

「俺ももやもやします」

「じゃあ普通に喋ってくださると至極有り難いんですが」

「佳秧さんがタメ口利いてくれるなら」

「年上の方につい敬語が出てしまうのは、とっても通常通りだと思いません?」

「言い負かされた感満載ですが道理ですね」

「譲歩していただけたら光栄です」

「じゃあ代わりに愚痴を聞いてくれるかな」

 するりと、まるで違和感のない滑らかさで切り替えられた口調に、あたしはにっこりと微笑んだ。

「お安い御用です」

 お兄さん——もとい、こうさんは、ほんのちょっと情けなさそうな顔をした。それから、ほんのり、哀しいような痛いような苦い色が瞳を過る。 

 俺ねぇ、とこうさんが口火を切る。

「俺ねぇ、昨日振られちゃったんだよね」

 おおぅ。

 恋バナか!

 そんなに重いため息をつくほどの恋だったのか、とあたしはこっそり意外に思った。なんとなく、色恋沙汰にうとそうに見えていたから。

「っていうかね。一年くらい前から付き合ってたんだけどさ。向こうに告られて。なんかちょっと見た瞬間一時停止しちゃうような美人でさ」

 ほほう美人。昔から中途半端より四歩ぐらい上の中級美人は爪が甘いか残酷かお馬鹿か、もしくは恋人にベタ惚れだと相場は決まっている。らしい。ってことをなんか誰かに聞いたことあるなぁ。

「そんでね、まぁ、最初はおっかなびっくり付き合ってしまった訳ですが」

「って押され負けたんですか」

「ぐっ——いやそのまあその通りなんだけど! 佳秧さんその直球傷口抉る」

「塩は塗ってませんからまだ大丈夫です。それで?」

「……あ、うん。それでねぇ、ちょっと甘えたな、うーん、女の子らしいひと、だったんだけど」

「ほほう」

「相づち親父くさいなぁ。まぁ、なんというか、慕ってくれて悪い気はしないし、そのうち情が沸いてきて、気付けばどっぷり、……そのー」

「愛しちゃったワケですね」

「うんいやうん間違ってないんだけど否定出来ないんだけどちょっと直球過ぎてお兄さん心が痛いなあ!」

「それはお兄さんが純情だからです。それで?」

「うう……佳秧さん本当に容赦ないなぁ……」

「愚痴吐かれる時は容赦ない対応が最も効率的かつ効果的なんです。それで?」

「そ、それで。まぁ良い感じだったんだ、けど」

 はぁ、と重いため息。

 陽に灼けて色素の薄いこうさんの髪が、さらさらと揺れた。夏の午後によく似合う髪色だった。

 日溜まりみたいだ。

「昨日ね」

 話してる内容はどろどろだけど。

「急に、他にイイ男出来たからって、捨てられちゃってさ」

「二股?」

「ぐっは!! そそそそれはさすがにきついんですけど……ッ?! 」

「やですね」

 ぽつり。

 微かに眉間に皺を寄せて。

 あたしは感想を述べてみる。

「なんか、やですね」

 こうさんは言葉に詰まったようだった。

「うまく、こう、言えない感じが。特にやです。なんかもやっとして、ぐわってなります」

 我ながら要領を得ない言葉だ。だけど、でも、それが今のところの感想だった。

 哀しいとかむかつくとか苦しいとか痛いとか。そういうもののようで、ちょっと違うみたいで。

 あたしはこうさんじゃないからこうさんの気持ちは分からないけど、ただ、あたし個人の感想は『なんかやだなぁ』だった。

 もしあたしがこうさんの友達だったら何それざけんな、とか言うかもしれない。だけど詳しいことも知らないたまたま道ばたで出会しただけのあたしには、多分、そんなことは言えなくて。

 こうさんの話を聞くしか出来ない。

「……うん、そうだね。なんか、やだなぁ、って。多分俺も、ずっと思ってて、こんなとこで燻ってるんだなぁ」

「盛大なため息吐いて?」

「う……そ、それ忘れてくれない?」

「これが出会いの奇跡というものです」

「間抜けな奇跡だなぁ」

「奇跡が素晴らしかったらすぐそうと知れちゃうじゃないですか。これぐらいが丁度いいです」

「んんん? そう? うーん……まぁ、それもそうかもなぁ」

「そうですとも」

 まぁ別に、綺麗で素敵な奇跡もあって良いと思うし、むしろそんなことが起きたらとびきり喜ぶべきなんだろう。でも、小さい奇跡の方が、ラッキーな気分になれる気がするから、多分あたしはこれでいい。

「……なんかさ、何でだよ、とか、思うんだけどね」

 困ったように、こうさんは笑う。

「ひでぇよ、とか。責められないんだよねぇ。結局、情が移っちゃったから。多分振られなきゃ今も付き合ってたから。っあー、これも、なんか嫌な感じの、ひとつかな」

「ぶっちゃけ何でこうさんがその美人さんに選ばれたのかはよく分かりませんが」

「ちょっ、それ言う?! そこまで遡っちゃう?! 」

「あたしは遭ったばっかりですし、全然、全然こうさんのこと知らないので、なんとも言えませんが」

「なんか聞くの怖いんだけど」

「……もしあたしがこうさんの彼女なら、そんな風に今だに愛してもらえたら、すごく嬉しいんじゃないかなぁと思います」

 ぴたり、とこうさんが止まった。あたしは勿体ない彼女さんだ、と思った。こんな風に、何だかどうしようもない振り方してさえ好いてくれるような相手は、あんまり居ない。そもそも恋情でなくともそこまで長く想いが続くのは、何だかとてもきれいで、情けなくて、優しくて愚かで、ひどく尊いものに思える。恨み言になるのではなく、ただ、哀しいようなやるせないような気持ちで、だけどまだ想う。嫉妬に狂うばかりが恋ではなくて。たぶん、燃えるような恋と同じくらいの数で、優しい優しい恋もあるんだろう。そういう想いの抱き方だってあるんだろう。

 だから、理不尽に、一方的に、他に男が出来たなんて理由で切り捨てられても嫌えない。きっとそれもある種の執着だ。

 あたしはふと、今日あたしを呼び出しやがった女の子達を思い出した。

「……あのですねー、今日あたしは呼び出しをくらいまして」

「へ?」

「つまりリンチですね。夏休みにまで結構なことです」

「へえ……っていやいやいや! 何それ?! だ、大丈夫、——だったみたいだけど」

 本気で心配してくれるらしいこうさんに、へらっと笑って、

「あたしは世間一般からすると美人の部類に入るそうです」

 その笑顔のまま言った。

 は、とこうさんがいぶかしむ。というより多分、呆気にとられる。

「でもですね、なんだか男女ともに惹かれ難い類いの美人なようで、そんなに好かれることは多くないんです。恋愛的な意味でも。でも、たまーにたまーに変わり種に好かれるんですよね。で、それが割合モテる方だったらしく。てよりそういう場合、多いんですけど。そんで、まぁ、この泥棒猫! みたいな剣幕でいびられた訳ですが。なんかまぁ軽く知るかよそんなことんなのあっちに言えやボケ! くらいは思っちゃった訳なんですが。でも、あの子達も、すっごい、そいつのことが好きだったんだなぁって思います。まぁ今落ち着いてるからですけど。ていうかアッパー仕返してきましたし。めっためたにされてたらこんなこと言えなかったかもですが。まーちょっと、そんなに思えるくらい、好きなのかぁ、って思うと、そんなたくさん、そんな強く、思ってもらえるほどのひとが、何であたし、って思えてきて、しかもあたしはそのひとのこと眼中なくて、で、ああそれはむかつくよなぁ、とか。なんとなく思うと、あの子達を責め切れないんですよねぇ。むかつくし、もう一発くらい、いれてやれば良かったって思うし、嫌いですけど。いつも、思うんです。恋って理不尽だ、て。ものすごく不毛で、やるせなくて、どうしようもなくて、なんかイメージ泥まみれで。なのに、すごくすごく羨ましい。物理的意味をなしにして、精神的な意味だけで言えば、ひとはしようと思えば独りで生きていけるもんでしょう。農家さんや魚屋さんや牛乳絞るひとや水を綺麗にするひとやお給料出すひとや電気引くひととか。そういうひとが居ないと今の世の中生きていけませんって最もなことをどこぞの誰かが皮肉気に言って、だけどそれをカウントしなきゃ、恋なんてしなくてものうのうと生きていける。でも。でも、何だかあたしに突っかかって来る子はほとんど誰かが好きなんです。気が狂いそうな、むしろもう狂わせられちゃってる恋をしてるんです。もしくは幼稚な。もしく深過ぎる。もしくは浅く、けれど嫉妬心だけは一人前な。何にしろ恋です。紛れもない恋情です。きっと、あたしさえ居なければ、もしかしたら彼女達は割合薔薇色だったのかもしれません。タイミング、悪いんですよねぇ。ああ、そう、タイミング」

 長広舌に自分でうんざりしながら、それでもじっと聞いてくれていたこうさんに感謝しながら、ぽん、と両の手の平を叩き合わせる。ああ、何だかこれじゃあ立場が逆だ。あたしはこうさんの愚痴を聞いてた筈なのに。

「いつも恋ってタイミングが悪いんです。だけどもしタイミングの悪い恋が、それでも実ったら、それって最強だなぁとか思う訳です。だけど」

 理不尽で、狡くて、情けなくて。

「だけどタイミングの良い恋なんてものが落っこちてきたら、それは何だかものすごく、奇跡です」

「奇跡?」

「主観ですけど。うわこの人カッコイイ! じゃなくて、ほんのりとでも好きって想ったり、が、タイミングよく叶うなら。そういうものを見れたなら。あたしは、こんな泥臭いリンチなんて水に流してやりたくなるほど幸せになれる気がします」

 

 大陽が眩しい。影がさらに薄くたなびく。遠くから子供の笑い声が届いた。夏の、匂いがする。

「だからこうさん、あたしはとても、こうさんの想いが眩しいです」

 日差しみたいに。

 眼を細めて、囁くように言えば、こうさんはぽかんとあたしを見て、また数秒停止して、それからぎこちなく、片腕を持ち上げた。

「……こうさん?」

 こめかみの下、耳の上あたりに、低めの体温が近づく。こうさんの手だ。

「佳秧さんは……——」

「————恒樹!」

 ぱちん。

 と、しゃぼん玉が弾けるように、溶けてしまいそうだった夏の空気が急に現実感を帯びた。

 甲高くて、どこか鼻にかかったような甘い声に。

 あたしは瞬いて、硬直するこうさんを見上げる。きょうこ、とその唇が動いた。

 きょうこ?

「なん、で」

「恒樹!」

 呆然とするこうさんに、何だかお化粧の匂いが激しい女の人が威勢良く抱きついた。ややや、この表現はおかしいかもしれないけど、そうなのだ。絶対に、拒否られるとは思いもしていないような、大胆で自信がある感じ。

 あたしは突然の展開というか乱入者に驚いて、まるでさっきのこうさんみたいにぽかんとしてから、はっと気付いた。

 もしや、これがこうさんの元カノか。

 お洒落なOLさん、という感じの、可愛らしい服装で、いかにも男女ともども人気がありそうなあたしと正反対の後ろ姿だ。こうさんの話では美人てことだったから、さらに。後ろ姿も美人ってちょっと凄いなぁ。

「恒樹」

 甘ったるい声が空気を震動させて風を含む。……なんか、声だけ、好きじゃないなぁとか失礼なことを考えてしまった。

「やっぱりアタシにはあんただけね。もういやんなっちゃう。酷いんだもの! 全然アタシの言うこと聞いてくれないの。ね、恒樹、またあのカフェ連れてって?」

 甘えるような。

 毒を含んだような。

 ……何このひと。あたしは憚ることなく顔をしかめた。

 いいこと、のはずだ。

 恒樹の未練のひとが、自分でヨリを戻しにきたのだから、とってもとってもいいことの筈だ。これこそタイミングの良い奇跡。

 ……でも。

 なんか、釈然としない。胸にしこりが残ったような不快感。何——この、ひとの。言動?

 あたしは眉を開いた。そうだ。言動だ。あたしが穿ち過ぎなのだろうか。妙に高慢に聞こえる。

「響子……? 昨日言っていた、イイ男はどうなったんだ?」

「だぁからぁ、そのオトコがさいてーだったの! ぜぇんぜん気が利かないしぃ。奢ってもくれないのよぅ?」

「……たまたま、手持ちが少なかったんだろ」

「そんな訳ないわ! だぁってあいつ、お坊ちゃんだもの。お金なんてがぽがぽ入ってくるわ」

 ……いやそうとは限らないんじゃ。

 ていうかまさか。

「……響子さぁ、俺と別れたのは、そいつが金持ちの息子だったから?」

「ぇえ? それもあったけどぉ」

 あったんかい。きょうことやらが場所をとっているせいで、あたしは木陰からはみだすことになった。じりじりと焼け付くような直射日光に当たる。暑い。

 こんな衆人環視の中でよくやるよまぁ、とあたしはそっとベンチから離れた。ふわふわと揺れるきょうこさんの長い茶髪がばしばしとあたしの頬にぶつかるからだ。……このひと、あたしがいること分かってんのかなぁ。もしこうさんの知り合いでもないただの同じベンチに座っちゃったひとだったら大分気まずいと思うんだけど。いやあたしも似たようなもんだけどさ。

「……響子」

「なぁに?」

 可愛らしく、きょうこさんが小首を傾げる。

 あたしは、このひとこうさん振ったこと覚えてんのかなぁと呆れながらこうさんの反応を見た。

 驚いた。

 こうさんは、何だか痛そうな顔をしていた。

「……響子、お前昨日俺を振ったんだろ」

「ええー? でもぉ、あいつとも別れたもん。いいでしょ別にぃ。そんなことよりアタシ行きたい店があんの。ちょぉっと高いんだけどぉ」

 いいでしょ? と当然のようにきょうこさんが言う。

 こうさんはやっぱり、痛そうで。何か言いたいことがあるのに言えない、みたいな。そんな表情だった。

 ……なんか。

 不快。

 このひとがこうさんの、まだ好きなひと。

 ……噛み合わないなぁ。

「こうさん」

 あたしは見るからに不機嫌面で、きょうこさんに抱きつかれたままのこうさんを呼ぶ。

 栗色の綺麗な眼が丸くなって、あたしを見た。

 なんのきらいもない、柔らかい眼差し。

 あたしはベンチの裏に回って、こうさんの背中の傍までいく。さわさわと揺れる雑草の中には淡い色の名前も知らない花が咲いていて、その花の蜜を求めるように蝶々が飛んでいる。はたはたと揺れる羽。はたからみるととても綺麗だ。あんまり近寄りたくはないけど。

 ぎし、とベンチの背に、肘を乗っけてこうさんを見下ろす。

「大丈夫?」

 こうさんはやっぱり、数秒反応しなかった。

 だけど次の瞬間、ふわりと穏やかに微笑んだ。

 大きな腕が伸びる。こうさんの腕。

 ぽん、と頭に軽い衝撃。

 あたしは瞬きした。

 こうさんに、多分、撫でられた。

「ちょっと恒樹? 何そのコドモ。誰?」

 心無しか険どころか棘も含んだ声できょうこさんがこうさんの袖を引く。その過程で何故かじろっと睨まれた。えええ。

「俺の相談を聞いてくれたひとだよ」

 ……こうさん、その説明なんかあたしが優しいひとみたいに聞こえるんですけど。

 胡乱な眼をしてしまった、時。

「子供じゃない」

 とん、と。

 こうさんが、優しく、きょうこさんの肩を押した。

 簡単に、本当に簡単に、きょうこさんが離れる。

「響子」

 耳に柔らかく響く、やっぱり優しい声。今までで一番、優しい。

「俺とお前はもう終ったんだ。だからもう付き合えないよ」

 優しくて、有無を言わせない。

 だけどそこはさすがきょうこさんで、ぎっと凄まじく怖い顔でこうさんを睨んだ。あたしは思った。なるほど美人。でも怖ぇ。

「なに、それぇ? あんたはアタシの言うこと聞いてればいいんでしょ! 何で馬鹿言うわけぇ? 意味分かんないんだけど。……何、あんたロリコンにでもなったの?」

 あたしはぎょっとして、きょうこさんを振り返った。嘲笑混じりに示すのは、多分あたしのことだろう。否定しようと身を乗り出す。

 けど。

「そういうことだよ」

 腕を取られてこうさんにまた頭を撫でられた。

 ————いや。

 イヤイヤイヤ。何言ってんの。

 そんなの通じる訳ないじゃん、と呆れてこうさんを見る。間近で眼が合うと、その色が容易に察せられた。ちょっと済まなそうだ。……はいはいもうちょっと付き合えば良いんですね。

「い、みわかんない。そんなちんくしゃが?! アタシの方がずっとイイ女なのに、なんなの?! 」

 イヤイヤイヤ。その言い分がなんなのだから。てかちんくしゃっておい。ひでぇよ。

「——って痛ぁッ?! 」

 ぎゃー! 何このひと! 髪の毛引っ張ってきたんですけどー! 痛い痛い痛いいきなりこれはないんじゃないでしょうかあんた大の大人でしょう!

「おい響子!」

 こうさんが声を荒げる。慌てたようにきょうこさんの腕を掴んで、なんとか離そうとしてくれるけどでもこうさんソレもやっぱり痛いんですけど力加わって!

「こっ、の女……ッ! コドモがオトコ誑かしてんじゃないわよ!」

 ええええええ。誑かしてねぇええ! あんたがこうさん振るから愚痴聞いてたんだろおおお?! くそぅこの女あの子達同様にアッパーかましてやろうか。いやでもこうさんの好きなひとだしなー。

「————響子!」

 ふっ、と不意に痛みが引いた。眼をぱちくりさせてそっと窺い見ると、こうさんが怖い顔で無理矢理きょうこさんをひっぺがしていた。

「な、何よ」

「帰れ。お前ならまた顔の良いお坊ちゃん捕まえられるだろ。俺には大して執着ないんだから、もういいだろ俺は」

 さっさと失せろ。

 とかもしこうさんが不良だったら言ってたんだろうおなぁって感じの眼で、こうさんはきょうこさんを突き放した。きょうこさんは、真っ赤な唇を噛み締めて、そら恐ろしい顔で、

「サイッテー!!」

 ばしーんっ! とこうさんの頬を叩いて去っていった。

 ……こ、怖。

 てか最低って……そりゃあんただろ。

 ドン引きしているとふわふわと妙に危な気な手つきで髪を梳かれた。

「……こうさん?」

「ごめんな、佳秧さん関係ないのに」

「いやいやお安い御用ですよ。乗りかかったどころかどんぶら航海中の船でしたから」

「はは。でも痛かったろ」

 心配そうに眉根を寄せられる。あたしは少し驚いた。よくいびられているせいで、こんなことはよくあって。もしきょうこさんがこうさんの好きなひとじゃなかったらあたしは容赦なく仕返していただろう。三倍ぐらいに。

 だから、心配される、ということが、何だかものすごく珍しくて。妙にくすぐったいような気分になった。

「大丈夫、ですよ」

 にっこりと微笑う。

「こうさんこそ、本当に良かったんですか。まだ、好きだったんでしょう」

 よくわからない趣味だけど。

 こうさんはうーんと頬を掻いて。

「……あのね、佳秧さんは、とても良い風に言ってくれたけど。本当はそんなに綺麗なものじゃないんだ。多分、そんなに好きじゃなくてもただ取られるのが嫌とか何であんな奴がとか妬みだけでまるで自分が正しいみたいに佳秧さんを攻撃する子も居たんだと思う。さっきの響子しかり、ね。そんで俺は、本当に響子に惚れてたのか。なんかさっきの会話で目ぇ醒めた気がするんだよなぁ。恋というよりやっぱり情が移っただけだったのかもしれない。だけどずっと恋人としていたから、妙にショックでうじくれて。なのに、振られた時は大して反論出来なかったんだ。なんで、とか、そんな、とかその程度。結局分かったって言って受け入れて。佳秧さんが言うような、ひたむきで、良いものじゃあなかったよ」

「でも好きだったんでしょう」

 あたしは自嘲するようなこうさんの口調が何だか納得いかなくて、間髪入れずに言った。

「強い想いじゃなくても、少しは好きだったんでしょう? だから、さっきもすぐ突き放せなかったんでしょう? ほんの、少しだったかもしれないけれど。もしかしたら一欠片だけの想いだったかもしれないけれど。本当は、恋ですらなかったのかもしれないけれど。——嫌いでは、なかったんでしょう?」

 だってそんなに長く一緒に居て。振られるまで離れずに居て。ほんの少しも好きになれなかったなんて。それが恋情じゃなくても、やっぱり、少しは愛着があったんじゃないだろうか。あたしは。あたしは恋をしたことがないから。だから本当のところよく分からないけど。でも。

「それに、あたしを恨む女の子達だって、確かにただ羨んで妬んだだけの子もたくさん居たかもしれないけれど、本当に好きで好きです好きで堪らなかった子も居たんじゃないかなぁと思います。少なくとも、そうであって欲しいなぁ、とも思いますが。お見合いじゃないんです。自由に相手を想って良いんです。多分。だから、こうさん、ほんの少しでも恋だったのなら」

 蝉の鳴き声が、耳鳴りみたいに響く。さっきまで子供の笑い声の方が大きかったのに、どうしてだろう。

「綺麗じゃないなんて言わないでください」

 どんなに泥まみれだって、その想いの一片だって知らないあたしから見れば、ひどく眩しいものだから。

「……佳秧さんは、格好良いね」

「え?」

 格好良い?

「佳秧さんって、花みたいだね」

「花?」

「そう。蝶はそれにふらふら惹かれてやってくる。凛と立つ野生の花に。もしくは庭先で生き残った花に。立ち止まって、掴まって、花の香りに酔いしれる」

「蝶……」

「良い意味でも、悪い意味でも。ただ止まるだけの蝶と、蜜を吸い尽くそうとする蝶と。でも花はどちらにしても、大概許しちゃうんだねぇ」

「あたしはそんなに優しくないと思いますけど」

 むっと眉をしかめて反論すれば、こうさんは可笑しそうに笑った。

「そう?」

「そうです」

「うーん、まぁ、それは蝶が分かってればいいかもね」

「はあ?」

 蝶って誰だ。

 思った瞬間ごんっと額に何かがぶつかった。痛ぁ?! 

 ち、ちかちかする。何?! 何で今こうさんに頭突きされたのあたし!

「ちょ、こ、こうさん……? めちゃ痛かったんですけど……」

「佳秧さん高二だっけ」

「へ、あ、はぁ。話聞いてます?」

「俺の友達にね、詩人がいてさ」

 詩人? そういえばこうさんって何の仕事についてるんだろう。それともやっぱりまだ学生なのか。

 耳にかかった髪を、丁寧に梳かれる。幼い子供にするような優しい手つき。夏なのに少し冷たい手の感触が気持ちよかった。

「超シスコンで、よく妹の額とかにキスしてんだよね」

「そ、それは……すごいお兄さんですね」

「だよねぇ。で、それをからかうとさ、そいつはにっこり笑って、『これはね、蝶々が、花に吸い寄せられるようなもんさ。愛情と感謝を込めて、蝶々は花に止まるんだ。だからこのキスは蝶々の祝福だよ』とかなんとか意味分かんねぇこと言ってね」

「はぁ……」

 なるほどすごい発想だ。でもキスしてることには変わらないんじゃ。

「…………こうさん?」

 何か、距離が近くなった気がする。と、ぐいっと頭を引き寄せられた。おわ。

「佳秧さん、ありがとう」

「へ、……ああ、愚痴の話ですか? 聞くくらいお安い御用と言ったじゃないですか。全然ですよ」

「それもだけど。何だか色々救われたからね」

「?」

 何もしてないと思うけど。

 でも、こうさんがそう言うならそうなんだろう。それはとても嬉しくて。何故かほんのり胸が熱くて。

 こうさんは笑ってる。笑み崩れるような穏やかさで。

 眼差しが蕩けるみたいだ。不覚にもどきりとして、心臓が痛い。な、何だこれ。

「————ありがとう」

 ふわり。

 額に、何か柔らかくて熱いものが押し寄せる。

 微かに身震いして、あたしは目を閉じた。

 ひたいに蝶々。

 一羽、止まる。

 

 

 

 

 

 あたしは美人という部類に入るらしい。

 

 だけど花にたとえられるような美人じゃない。むしろ敬遠されるタイプの美人。らしい。

 が、まぁ、色々色々あるもので。今までやっかまれて面倒ばっかり起きていたからか何なのか。恋すらせずに高校生までなってしまったものだけれど。

 

 どうやら花は、蝶の熱に浮かされたらしい。

 

 前途多難な恋が一つ。

 あたしのとこまで降ってきました。

 

 

 


 

 


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