そのにじゅうはち:わたしの無口な旦那様




 ふん、ふん、ふふん、と魔女は機嫌良く鼻歌を歌っていた。きゅっきゅっと大ぶりの天青石を磨いて、その質感にうっとりとする。ああ、宝石って素晴らしい!
 ニヤニヤと悦に入ったとき、とんとんとんと何やら怨念のこもった叩扉の音がした。一気に機嫌が下がった。
 無視をしても、えんえんと叩き続けてくる。
 観念して重い腰をあげ、扉を開く。すると予想通りの人物が立っていた。
「……魔女どの」
「お忙しいご領主様が何の用かね。おまえさんの訪問でわたしの機嫌が急降下だよ。さっさとお帰り」
 オルレアン・バシュラールはこめかみを引き攣らせた。
「媚薬の件だ」
「あーうん、そうだろうと思ってたよ。それはもう解決済みだろ、嫁と楽しくやってればいいじゃないか」
「あの、薬は、なんだ」
 魔女はちらっと視線をやった。そして鼻で笑った。
「感情増幅剤だよ。対象に抱いている感情と欲求を増加させ、抑えられなくするってだけさ」
 そもそも、リディアンヌは媚薬というものをよく分かっていないと魔女は思う。彼女が望んだのは惚れ薬だ。媚薬なんて言葉、どこで聞いてきたのだか。彼女の近くにいた魔女が自分で良かった。アニエスは彼女のことをよく知っていたから、リディアンヌが勘違いして頼んできていることが分かったのだし、他の魔女ならそれに気づいても嬉々として本物の媚薬を渡したかもしれない。
 まあ、アニエスも惚れ薬は渡していなかったのだが。
「……増、幅?」
 何やら怒りの気配をまとう男にアハハと手を振ってやる。
「そ。わたしは知ってたよ、ご領主。おまえがずーっとリディアンヌに惚れていたことも、あの子の最初の婚約に無言で魂飛ばして友人たちを心配させていたこともね。だってわたしはカサンドルの魔女だもの。なわばりに関することは、知っておかないとねえ」
 ニヤァ……と最上級に忌々しいだろう笑みを浮かべてみせると、オルレアンは氷のように冷たい目をして言った。
「変態め」
「失礼だね。ま、だからさあ、リディアンヌがああいう屈折したことを考えていたことは知らなかったけどね、惚れさせたいといってももう惚れられてるし、惚れ薬飲ませても意味ないだろ。それならやけに奥手でのんきなご領主の制御を外してやれば、きっと伝わると思ってね!」
「多大によけいなお世話だ。死ね」
「ひっどいねえ、感謝してほしいくらいだってのにねえ! それにしても、おまえ、世話焼きになるんだって? ぷふーっ、何それ過保護? それともそう見せかけた独占欲かい。青っ」
「頼むからその舌を切り落とさせろ」
「なんだよ、自分で訪ねてきといてさあ。聞きたいことはそれで終わり? わたしは石を磨くので忙しいんだ、さっさと帰っておくれ」
「待て。薬の作用を解け。あれが気にする」
 魔女はつまらなそうに肩を竦めた。
「そんなの、とっくに解けてるさ。リディアンヌが泣きついてきた日には、もうほとんど消えてたんじゃないの?」
「それは……耐性がついたということではないのか」
「もともとそのくらいで効果が切れるように作っていたんだ。どうせリディアンヌは耐えられなくなるだろうと思ったから」
 オルレアンは納得いかない顔ながらも、嘆息ひとつで帰っていった。やれやれ、と魔女は凝った肩をくるりと回す。
 それにしても、どうしてあの子はああものんびりなんだろう? たった一度踊っただけの相手を、そんなに鮮烈に覚えているなんて、まさしく恋のはじまりだったのだろうに。
「ほーんと、ばかだねえ」
 貶す声に滲む愛情を、しかし魔女だって分かってない。






 部屋で縫い物に励んでいたリディアンヌは、夫の帰宅に手を止めた。自然とやわらかな笑みが溢れる。
「旦那様、お帰りなさいませ」
 難しい顔をしていたオルレアンは同じように微笑み、ただいま、と穏やかな声で言った。最近、オルレアンの口数は少し増えた。相変わらず、あまり喋る方ではないけれど、あいさつはしてくれる。それが、リディアンヌにはとても嬉しい。
「旦那様、今日は鴨肉が入ったそうです。晩餐が楽しみですね」
 オルレアンは微笑んだまま、こっくりと頷いた。奥様は満足した。彼が外出着から着替えて戻ってくるまで、リディアンヌはまた縫い物を再開した。慈善バザーに出すものなので、なるべく良い出来にしたい。女中が新しい糸玉の入った籠を持ってきてくれたので、笑顔で礼を言って受け取る。
「そうだわ、ベティ。匂い袋を作ろうと思うのだけど、あなたもらってくれるかしら」
「まあ、よろしいのですか?」
「ええ、試作品になるから、申し訳ないのだけど。あと、リュビと、ラナと、ああ、マルクにも。確か奥さんが今産み月なのよね、気持ちが落ち着く香草で用意したら使ってくださるかしら」
「きっと喜ばれますよ。もちろん、わたくしどもも大喜びですが」
「あら、上手ねえ」
「本当ですよ?」
 つい引き止めて楽しく会話している間に、オルレアンが戻ってきた。女中はさっと頭を下げて去っていく。
 今日は月に一度の、旦那様完全休息日なのだ。決めておかないとつい働き続けてしまうご領主様を、領主館の人間が心配して決めたらしい。だから、外出から帰ってきた旦那様は、今日ばかりは一日リディアンヌと過ごしてくれるのである。
 リディアンヌはついにこにこしてしまう。そんな彼女の手許を、オルレアンが覗き込んでくる。リディアンヌは笑顔でぴしっと撥ね除けた。
「あ、旦那様。まだ出来上がっていないので、見てはだめです」
「……」
 オルレアンは何か不満がある顔をした。奥様は小首を傾げる。
「旦那様?」
「――――旦那様、ではない」
 リディアンヌはきょとんとした。まさか怒ってしまわれたのかしら、と不安になった彼女に対し、オルレアンは苦悩深き溜息をついた。

「ずっと疑問だったのだがね。どうして君は、私の名前を呼ばないのだ」



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