『そうね。愛してるわ』 多分ね、と艶やかに笑った人は、もう居ない。 * ばふっ、と黒板消しをはたく。 「おわっ、小木山こっちきた!」 「……あ、ごめん」 窓際でばふばふと黒板消しをはたいていたら、丁度直ぐ横の少年がけむたそうに手を振った。煙を払っているつもりなんだろう。……申し訳ない。軽く謝り、今度は比較的軽くはたく。 ばふ、ばふ。 「……ねぇ、何で芒ちゃんがそんなことしてるの?」 日直じゃないよねぇ、という笑未に、あー、と曖昧な返事をする。 「んー、なんか、変わって欲しいって」 「……またー? 今度は誰?」 「今度も、絵里子ちゃん」 ……はたいても綺麗にならない。やっぱりこれだけじゃ駄目か。あとでちゃんと綺麗にしにいこう。 ふう、と窓から腕を引っ込める。そんな芒の後ろで、笑未ががっくりと頭を抱えていた。 「……笑未?」 「芒ちゃあん、あんまり絵里子ちゃん甘やかしちゃ駄目だよぅ」 お母さんか。 甘やかしてはないけど。そう言いつつ、ちょっと笑って、ちょっと首を傾げる。 「なんか、断るのも面倒だし。絵里子ちゃんって」 「そうだけどー」 なんか嫌だー、と自分のことでもないのに笑未はむっつりしている。くるん、とパイナップルヘアが揺れた。うん、今日も見事な跳ねっぷり。芒は密かに賞賛した。 真っ黒な髪に秋の陽が入り込んできらきらしている。こういうのを、天使の輪って言うんだって、聞いたことがある。確か笑未にばっさり振られた夢見がちな年上の少年からだった気がする。美人の証拠だ、とその人は蕩けるように笑っていた。 美人に、なりたいなぁと思う。ぼんやり。 あたしはこんなに普通な顔なのに、どうしてあの童顔の父は美中年なんだろう。おかしい。気に喰わない。 「で、その絵里子ちゃんはどこ?」 「え、なんか山根くん追っかけてたけど」 「わー……それは、お気の毒に」 芒は深く同意した。ごめん、山根くん。あたしには絵里子ちゃんは無理だ。 「ばっかだよなー、真哉も」 がた、と椅子を鳴らして利一が座った。――待て。いつの間にやってきたんだ。無表情にぎょっとした芒だったが、相手はさっぱりきっぱり気にしていない。からからと笑い、さりげなくクラスの視線を集めている。……なんて面倒臭い人種なんだ。 にやにやと笑う顔はなるほど、抓り上げてやりたくなるくらい整っている。たかが小学三年生のくせに毛並みの良い猫みたいだ。羨ましい。ちょっと大雑把に跳ねた髪がお洒落なんじゃないかとさえ思えてくる。 「……柴崎。助けてあげなよ」 「やだよ怖ぇもん」 「…………」 まぁ分かるけど。 けろりと言ってみせた彼に嘆息して、芒はかくりと肩を落とした。笑未が苦笑している。 「あ、小木山。日直も良いけど、給食当番も忘れんなよ」 「忘れないって。この前だって、サボった訳じゃないってば」 「まー知ってるけどな」 からっと利一は笑った。あっけらかん、というのがものすごく似合う顔だ。芒の眉尻が落ちる。じゃあ言うな。 心の声が伝わったのか、利一は、でもさ、と続けた。 「ああ言った方が、良かっただろ? 大林結構しつこいから、なっかなか終んなかったぜ」 「……知ってる。ありがと」 それがまたげんなりなのだ。とは言わなかった。 そうだ。本当はちゃんと知っている。一応、たぶん、この男が助けて――ものすっごく認めたくないが、助けてくれたんだろうと。知っているがしかし。 「そう何度も何度も繰り返されると有り難み失せる」 「あっはっは、有り難みなんていらねぇだろ」 とりあえず今日頼んだぜ、などと笑いながら、呆れた顔の笑未にどつかれて、彼はさっさか自分の席に戻っていった。 国語の授業というものは総じて眠たいものである。 担任が頬杖をついて左端の席の生徒を当てる。実に嫌そうな顔をした少女が、もたもたと立ち上がり、教科書を片手にたどたどしく音読し始めた。まいちゃんはいいました。どうしてミミは目をさまさないの? せんせいはかなしそうにわらいます。ミミはこのからだをぬけておほしさまになってしまったの。だからここにはもういないのよ。せんせいはいいました。まいちゃんはせんせいのいったことばのいみがわからなくて、なきだしてしまいます。どうして? どうしてミミはおほしさまになってしまったの? ゆっくりした口調で、どんどん眠気は増してくる。かくんと頭が落ちそうになるのを必死に抑えるが瞼はもうほとんど落ちている。眠い。 ミミ、というのはうさぎのことだ。死んだうさぎ。この話の中で、学校の飼育小屋で飼われていた、小さな白いうさぎ。 おほしさまになってしまった。なんて曖昧でありきたりな言葉だろうか。だけど限りなく嘘は薄い。おほしさまになる。つまりは天に、天国に。あるいはその言葉すら本当ではないかもしれないけれど、外聞的には合っている。地の国と言われるより余程良い。少なくとも、芒は母は空にいてくれたなら嬉しいと、思う。……願う。だって、きっと土の下よりきれいなところだと思えるから。 「はい、いいですよ。じゃあ後ろの……」 ほっとしたように少女が座る。代わりにいたく面倒そうな様子で後ろの席の少年が立った。いかにも嫌々、“まいちゃん”の言葉が続く。 ああまいちゃん、泣かないで。せんせいはいいました。泣くことなんてないのよ。ミミはおそらでしあわせになったのだから。せんせいはそういって、まいちゃんのなみだをぬぐいました。ひっくひっくとまいちゃんはすすりなきます。だって、ミミ、動かないんだもん。かわいそうだよ、せんせい。まいちゃんはうったえます。せんせいはほほえんで、いいえ、とくびをふりました。いいえ、まいちゃん。ミミはもうくるしくないの。だからまいちゃんがないていたらこまってしまうわ。まいちゃん、わらって。ミミもそういってるわ。まいちゃんがしあわせそうだったらミミもうれしいわ。だからわらって。まいちゃんはまた大きくなきました。けれど、そうしたらもうなきません。がんばって、えがおになりました。なみだをふきながらいいます。そうか、ミミはしあわせなのね。 芒はぼんやりと思った。突っ込んだ。――キリスト教かい。 死んだら苦しみから抜けて幸せになる、って。まぁそうかもしれないけど。実際このうさぎは死ぬ直前までぴくぴくと痙攣して、ひどく痛々しかった。確かにそれならば苦しみは消えたかもしれない。命も永遠に消えたが。 けれどそれは必ずしも幸福に直結するものだろうか。死に伴い魂も自我も消えたのならば、その感情の故もないと、考えてしまうのは芒が子供だからだろうか。 ――母さんは。 母は、良夜の愛した妻は、芒達があなたがいなくてかなしいと、そう思うことに困るのか? 泣いて欲しくないと思うのか? ……笑って、幸せそうに笑って、面影すら薄れてしまうことを喜ぶのか。 嫌だ。 そんなことは、嫌だ。たとえそれを母が喜んでも、芒は嫌だった。忘れたくない。ひとかけらも。今、まだ自分に残っている母の思い出の、ひとかけらだってなくしたくなかった。 分かっている。これは我が侭だ。芒の。 たとえ悲しんでも苦しくても淋しくてたまらなくても、忘れないで欲しいという、我が侭だ。情けない。だけど怖くてたまらない。とりこぼしてしまうことが、何より。 怖くて。 きゅ、と無意識に胸許を掴む。肺の中が嫌な感じがした。すかすかしている。 がたん、という音とともに、長い段落を読んだ少年が椅子に座った。では、と特に表情を変えることもなく、担任はチョークを持つ。カツカツと高い音を立てて黒板に文中の一節を書き付けた。芒はそれで慌ててシャーペンを取り、開いていなかったノートをぱらぱらとめくる。と、斜め後ろの席でふあぁ、という盛大な欠伸が聞こえた。こっそりと目を向けると真哉が口を覆って目をしばたたいているところだった。ぷ、とうっかり笑ってしまう。目が合った。はたと動きを止めた彼は、次の瞬間かぁああっと赤くなって、照れたように頭を掻いた。うん。 なんて平和。 朴訥とした柔らかな空気が、芒にはなんだかふと涙腺が緩みそうになるくらい、優しかった。 給食当番は意外な程普通に終った。給食着を脱いで、食膳台に備えついている棚の中に仕舞う。 「おう、おつかれ小木山」 からりと微笑う利一に、少々戸惑ってから、うんと応える。うん、おつかれ。へたくそに返すと、彼はますます笑みを深めた。……釈然としない。何だというのだ。 「あのな」 「うん?」 なに、と首を傾げる。ついでに給食帽を取った。さらりと小麦色の髪が落ちる。ひらひらと毛先が背中に揺れて、頬で跳ねた。面倒に思いつつ前髪を直す。ん、よしよし。 「あいつ、超人が好いからさ」 「……山根くん?」 「そー。ユズや俺と違って、滅多に揉め事起こさないしな」 いやそもそも何度もあっさり揉め事を起こすな。呆れたが芒は黙っていた。半眼で彼を見上げる。利一は何故かを手を伸ばしてきて、くしゃりと芒の頭を掻き撫ぜる。ほんの一瞬。 「なんかあったら助けてやってよ」 「……役に立たないと思うけど、まぁ。ていうか、柴崎は?」 「まー、俺も気をつけないことはないけどさ。俺女子怖いし。いざとなったら逃げる」 おい。というかそれは女子に何かされること限定なのか。 「……期待はしないどいて。あとその微妙に不吉なのか笑えばいいのか分からない予想、止めときなよ」 「あっはっは、洒落にならんかんな。んで、代わりにな」 眼を細めて、利一は配膳台を廊下の端まで一気に押す。ずず、とあんまり耳によろしくない音が鳴った。芒も傍まで寄り、停留位置を微調整する。一息ついたところでぽんと肩を叩かれる。そういえば何か言おうとしていたなぁ、と顔を上げると利一は得意そうな表情で、 「代わりに、俺らは小木山の役に立つよ」 当然のように言った。 きょとんとして、ぱちぱちと頻りに瞬きする。そうして芒が軽く驚いていると彼はさっさか教室に戻っていってしまった。 芒はよく分からないまま、ちょっとななめった。 ……俺らって、誰さ。 * ふうと椅子に背中をもたれ、ぎしりとスプリングを鳴らす。何だか酷く疲れた気がして、彼はポケットの中から小さな手帳を取り出した。 ぱらりとそれをめくり、娘と妻が写った写真に口許を緩める。当然、そんな彼の姿に同僚が残念そうな眼を向けていることには気付かない。 ふと、彼は手帳のカバーの中に仕舞い込んでいた一枚の紙を引き抜いた。古ぼけたその紙には、小さな、どこか控えめな文字が踊っている。というより沁みていると言った方が合っているだろうか。少なくとも最近のものではないことを示すよう、その文字も擦れて滲んで見えた。 人目も気にせず彼は微笑った。少しだけ、泣きたそうに。 そうして壊れ物に触るように紙を持ち、祈るように額に押し付けた。 許しを乞うように、そっと。 |