7 真哉、小麦色の天使と出会う。







 色素の薄い、小麦色の長い髪が、高い梯子の上で揺れていた。

 山根真哉は分厚い本を熟読するクラスメイトを、ぽかんと息も出来ずに見上げて、硬直した。
 大分距離のある位置からでも覗ける面差しは、線が細く、長い睫に縁取られた眼は髪と同色の綺麗な小麦色。まるで透き通るようなその眼差しが、じっと紙の上を見つめて動く。
 ……動悸がした。
 実を言うと真哉は、見ている限り大抵そつなくこなすクラスメイトが、何故給食当番をサボったのか、聞こうと思って彼女を探していた。
 理由があったなら言ってくれれば特に気にしなかったのに、いざ当番仕事だと思えば芒はいない。戸惑っていたら大林絵里子がサボりだなんだとまくしたてて手伝ってあげると何だか妙に寒気のする口調で言ってくるのだから堪ったものではない。というか真哉はなんとなく絵里子が苦手だった。なんか怖い。どうせ芒が無理なら一人でやりたかった。先に言っておいてくれれば絵里子につきまとわれることも、最終的に彼女と一緒にやることもなかったのに。……真哉の不満はほぼそこに尽きていた。そもそもの性分が怒りっぽい方でもないので、絵里子さえ絡まなければ怒りもしなかっただろう。
 もとより温和でお人好しな彼は、絵里子が芒に頼んで代わってもらったということを伏せられたとは、思いもしていなかったのである。
 そんなわけで、彼はげんなりと芒を探していた。
 探して探して、漸く見つけたのだ。そう、思った瞬間。
「――――……小木、山?」
 心臓が止まった。
 思わず漏れた声に、ふっと今まで微動だにもしなかった芒が反応する。本から視線を外し、真っすぐに見下ろしてくる。
(……うわ)
 めちゃくちゃ可愛い。
 そんなに女子と仲が良い方ではない真哉は、それまでろくにクラスメイトの顔や造形を気にしてきたことがなかった。というかあんまり関連がなかった。
 だから、このクラスメイトが、こんなに可愛いとは知らなかった。
 ばくばくと心臓がなる。さら、と手触りの良さそうな髪を揺らして何事か問われる。あ、いや、と口ごもってから真哉ははっと我に返った。
「何で給食当番サボったんだよ?」
「サボった、ていうか。頼まれたから」
 へ、と間抜けな声を出す真哉に芒は面倒そうに続ける。
「給食当番、代わってって。大林さん、いたでしょ」
「あー…いた、けど。え、何で?」
「山根くんと一緒にやりたかったんだってさ」
「はぁ?」
 何じゃそりゃ。
 いや、それはともかく、芒はサボったわけではなかったのか。というか俺あいつに騙されたのかよ。何だかものすごく情けない。
「――――それは大林さんに聞きなよ、面倒臭いし、あたしが」
 身も世もない言い草で、芒が会話を打ち切る。真哉は慌てた。別にもう聞きたいこともなかったはずなのに、何故か慌てた。意味を持たない言葉で引き止めようとして、
「芒ちゃん! 鐘鳴っちゃうよ!」
 慌ただしい足音と高い声に遮られた。
 ぎょっと振り返ると、黒い艶やかな髪を伸ばした少女が駆けてくる。図書館ではお静かに、という言葉をふっと思い出した。……真哉はひっそり反省した。充分煩い入り方をしてしまった。
 ぱっと芒が梯子から降りる。入ってきた少女は、これまた同じクラスの木村笑未だった。不思議そうに首を傾げられて、返答に困っていると、いつの間に梯子から降りたのか、苦笑した芒が「当番の話、してた」と笑未をいなす。
 そうこうしているうちに二人はもう出口に向かっていた。その後ろ姿をぽかんと見つめてから、自分も早く行かなければと思い出し、真哉は足を早めた。
 と、くるりと綺麗な髪をなびかせて芒が振り返る。
「あのね、だからそれの話は“絵里子ちゃん”に聞いたげて」
 真哉は思わず、はぁ?と眉を寄せた。
 すると、彼女はほんの少し、柔らかに口元を緩めた。
 とんでもない可愛さだった。



   *


「小木山さん」
 書類整理をしていた良夜は、唐突に話しかけられて一瞬動きを止めた。
 彼は声をかけられ動きを止める一瞬前まで、亡き妻と生きる糧と言っても過言ではない娘のことで頭がいっぱいだったからだ。仕事しながら。
「…ああ、谷口さん。何ですか?」
 ふんわりと下にいくにつれて巻きの度合いが増す肩までの茶髪。薄く引かれたアイラインは品の良さを上手く表しつつ、お洒落だ。ピンと伸ばした背筋はなかなか見ていて気持ちいい。何処からどう見ても完璧な美人である。
 ――ということを、数分前に同僚が言っていたのを良夜は口を開いて三秒後に思い出した。
(谷口さんってモテたんだなぁ……)
 谷口鶴花というこの女性は、この会社ではそう珍しくもない女性社員の一人で、わりと有能な部類に入る。タイピングも早いので、技術部では重宝されているようだ。
 一応先輩に当たる良夜もちょこちょこと助けてもらっている。――助けることの方が多い、ということは気付かない良夜である。
 良夜にとっては良い後輩、という認識しかないのだが、周りはそうでもないらしい。まぁ、器量良し、仕事も早い、極めつけに美人、の三拍子ならそれも分からなくもない。が、良夜にとっての“女性”はたった一人しかおらず、さらに言えばもうこの世には一人もいないのだ。だから、額が触れ合いそうなほど顔を寄せられてもまったく頓着せず、受け取った書類を見ようとしているのだろうと、それを彼女に見える位置まで引き上げる。それで鶴花も身を引くので、やはり彼は気にしない。
「ここが――……」
「ああそれは――……」
 細々と問われたことについて丁寧に教え、礼をされればいやいやと首を振り、定刻を過ぎるとさっさと職場を抜け出していく。――今日は残業なし! 早く帰れる!
 妻亡き今、娘第一度が増したエリート社員は、意気揚々と家路へ走った。
 その後ろ姿を、同僚達が呆れたように見つめてくることも知らずに。





 










 今でも鮮明に思い出せる。
 にっこりと微笑んだ、儚気な美貌の裏の、強靭な心。波打つ柔らかな小麦色の髪の下に隠れた瞳が、いつだって強く瞬き、彼を射抜いたことも。
 
 脆く、泣き崩れた彼女への、あの愛おしさも。

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