薔薇の花は君を待ってた

 

 

 

  

 

 ざくざくと進んでいくエレンは回廊の真ん中でハッと我に返った。慌ててジュリアンの腕から離れる。おそるおそる見上げると、ふわりと笑いかけられた。甘ったるい顔。エレンはひいっと内心悲鳴を上げた。腹の上に包丁を掲げられた羊の気分だった。怖い。

「あ、ああ、あの」

「何です? ブルネットとサファイアの姫」

 じり、とエレンは後ずさった。何故つい先刻あれほどの口論を繰り広げていたというのにこのような甘言を浮かべられるのだろう。それとも口封じのつもりなのだろうか。

「エレン様? 花の蕾が雨に濡れたように青白くなっていらっしゃいます。ご気分でもお悪いのですか?」

 ——は、花の蕾……?

 何のことかと一瞬思考が停止しかけたが、すぐ唇のことだと気付く。……あなたのせいなんですが、とは気の弱いエレンには言えなかった。

「じゅ、ジュリアン、様。あの、しゃ、シャルロット様に、あのようなことをお、仰るのは、」

 しかし意を決してこれだけは言わなければと根性を出した。気合い。気合いだ。ああ、もう、これがアスター様ならもっと気楽に詰れるのに。

「何のことです?」

 ジュリアンが面白そうに目を眇めた。うっと詰まる。な、何が、って。

 こつこつと大理石に靴の音が響く。侍女が控えているだろう部屋の前に立ち止まったまま、エレンはそっと視線を落とした。

 ああ。

 怖い。

 どうして、自分はこんなに情けないのだろうか。

(結局、シャルロット様にあのことを言えなかった……)

 言わなければいけないと、思っていたのに。

「エレン様?」

 びく、と肩が揺れる。盛んに瞬きしてしまい、頭の中がぐるぐるしてくる。それでもエレンはぎゅっと唇を噛み締めて、ジュリアンを睨んだ。

「ば、ばか、とか! 花が、咲いて、る、とか! そ、そん、そんな、こと——あんな言い方、で……!」

「事実でしょう?」

「そんっ、——そう、かもしれません、けど」

 確かにお花が咲いている気がしないでもないけど。

「でも、もしかしたら、傷ついていらっしゃるかもしれないではありませんか! 女性が、お嫌い、で……シャルロット様のお言葉がお気に障ったかも、しれません、けど、でも、それなら同じように適当におあしらいなさったら良いではございませんか。それを、何故……っ」

「傷ついているようには見えませんでしたが」

「そんなこと、それこそどうしてあなたにお分かりになるのですか! 誰にも——誰にも、誰が、どのように、どのようなことで傷つくかなんて、分かるわけが、ないのに」

 妖精のような、ひとだった。

 コーラルフェリアからやってきた、微笑みの絶えないお姫様。遠目に見てはその朗らかさに憧れて。夢の中で生きているような、まるで裸足で楽園を踏みゆくように軽やかで、もし声を聞けたならと思いを馳せた。シャルロットは気付いていないようだったが、王太子の異国から訪れた婚約者などという存在は、彼女が思っている以上に注目される。良い意味でも悪い意味でも。もちろん嫉妬する娘もいるが、エレンのように憧れる人間もいるのだ。ティースプーンとナイフとフォーク。それくらいしか持ったことがないような細くて白い腕とちいさなてのひら。驕りなど知らぬげに微笑い、王妃の後をついていく姿。そうして極めつけに世にも稀なフランボワーズ・アイ。傍にいるだけで、柔らかい幸福の中に潜り込めるような気がする、ひと。無垢で綺麗なお姫様。

 けれども先程の思いのほか現実的で容赦のない言葉を聞いて、もしかするとそれだけではないのかもしれないとエレンは思った。無垢であるだろう。紛れもなく純粋でそうしてひどく綺麗だ。けれど、そのように穏やかにあれるのは、彼女が強くあるからかもしれない。ジュリアンが言ったように。

 あんな風にのほほんと闇を許容する人間が、守られているだけの、無邪気な姫であろうものか。

(でも、だからって、……だからこそ、何にも感じないなんて、きっと、ない)

 哀しくても、笑えるひとなのだ。……空気が読めないのは、まあ、否定出来ないが。お花が咲いていそうなのもやっぱり否めないが。

「……随分と肩を持ちますね。そんなに異国の姫というのは魅力的ですか?」

「シャルロット様が、好きなのです。とても、綺麗に笑う、方だから」

 すき。

 好き、という、言葉を、エレンは久しぶりに口にした。このような直截的な言葉を貴族の娘が使うことは少ない。それにエレンは引っ込み思案で、さらには今レジーナの悪戯相手に選ばれていたところなので、もっと使う機会は少なかった。彼女が飽きれば、と思っていたのだが、まさかあんなに癇癪を起こすとは。つくづく恐ろしい。

 ジュリアンはふっと眉を開いてエレンをまじまじと見てきた。ぐい、と額を寄せられる。……ち、近くないかしら。

 密かに怯えていると顎を掴まれた。とんと軽く上げられる。ひい。

「あ、ああああの、」

「……風変わりな方達ですね」

「は?!」

 恐怖にぐるぐるしていたら、不意に聞き慣れた声が、妙に切羽詰まった風情で耳をつんざいた。目を見開く。

「エレン?! オルポート卿、何をなさっていらっしゃるんです?!」

 ——アスター様。

 声に出して名を呼ぼうと口を開きかけた瞬間、首根っこを掴まれてぐいっとジュリアンから引き離された。足をくじきそうになるが、一瞬身体が僅かに宙を浮き、何か温かいところに収められた。ほうと息を吐いてからぎょっとする。

「アスター様?!」

 エレンはアスターの胸に抱き寄せるように受け止められていた。かあああ、と頬が赤くなる。こんな時だというのに心臓がばくばくと壊れそうになった。

 もう、怖さなんて、全然ない。

「オルポート卿……まさかあなた、エレンにまで手を出したのですか……?」

「お美しい方に敬意を示すのは当然でしょう、殿下?」

(——はいい?!)

 煽るようなジュリアンの台詞に何故かアスターの手の力が強まった。小さい頃から世話になっている彼には、きっと妹、いや顔見知り古馴染みの娘が好色な遊び人にからかわれているように思えたのかもしれない。……自分で分析しておいて、少しだけへこんだ。つりあわないことは、分かっているけれど。

「……ジュリアン様、おかしなことを仰らないでください」

 エレンは楽し気な彼に向かって気弱にぼそぼそ呟いた。ジュリアンは軽く肩をすくめて、「冗談ですよ、そう怒らないでください」と一矢報いたような風にのたまった。いちいち面倒なひとだ。

「紅茶は私が頼んでおきましょう。エレン様は殿下とシャルロット様のところにお戻りくださって結構ですよ」

「え……でも、」

「ふふ、私が殿下に射殺されそうですから」

 自業自得では……と呆れたエレンの気を逸らしたのは、不機嫌そうなアスターの呼びかけだった。目をぱちくりさせている間にもジュリアンは部屋に入っていってしまう。

「あ、あああ」

「あああ、じゃないよ。何やってんの、君」

「わあっ?」

 首だけで振り返りかけてもぎゅいっと頬を挟まれて向き直される。相当苛立っているらしかった。普段からエレンが気弱なことを知っている彼にしてみれば、迂闊過ぎるように見えるのだろう。妙なところで過保護というか、世話焼きなひとだから。

「あ、あの、アスター様」

「何」

「お、怒って、らっしゃい、ます?」

「当たり前でしょ。あんなのに絡まれて、さっさと逃げれば良いのにさ」

「わ、私にそんなこと出来るわけないじゃないですか!」

 情けないことを大声で叫ぶ。アスターははんっと嫌味ったらしく笑った。

(も、もううう!)

 エレンはじわりと目尻に涙を溜めた。ふるふると拳を震わせると、アスターが吃驚したように目を丸くする。それから四方八方に視線を彷徨わせてあからさまに狼狽えた。丸見えだった。が、ちっと舌打ちしてそらっとぼけるように、殊更そっけなくなる。

「何泣いてんの。だったら最初から気をつけてなよ。ったく、馬鹿じゃないの」

 そんなことをぶつくさ言いながらも服の袖で目許を拭ってくれる。ああ、もう。エレンは何だかもっと泣きたくなった。ふわふわと胸の裡が甘くなる。いつまで、と彼女は思う。いつまで、このひとの傍に寄ることが出来るだろう。いつまで、このひとに覚えていてもらえるだろう。

 いつまで。

 いつまで、好きでいて、良いのですか。

(アスター様)

「……何だよ」

 無言になってしまったからか、気まずそうにアスターが口を尖らせる。それでも彼女は何も言えなかった。喋るのも勿体ないような気が、した。最近はあまり会っていなかったから、何だかひどく幸せで、夢の中にいるようだった。碧の目がじっとエレンを見る。照れたように赤く染まった目許に、エレンは無意識に手を伸ばした。

 触れる。

「……っ、エ、レン?」

「……あっ、す——すみません!」

「別に悪いなんて言ってないけど……何?」

「シャルロット様が、夜会で一緒にならないか、って誘ってくださって」

「夜会?」

「今夜の、王妃様主催の夜会です。丁度、シャルロット様がいらしてから一ヶ月と半分くらい経ちますから、それでじゃないでしょうか」

 聞いていらっしゃらないのですか、と聞けば、あーそういえば聞いたような聞いてないような、とはっきりしない答えが返ってくる。

「……アスター様」

「良いんだよ、別に。大したことじゃないし。……で、君は誰といくの?」

「あ、お父様にお願いしようと思って……」

「ふーん。……僕が行ってもいいけど」

「えっ、無理です!」

 エレンは即答した。ぶんぶんとそれはもう勢いよく首を振る。と、アスターはちょっとむっとしたような顔でぐりぐりと彼女の頭を圧迫してきた。い、いいい痛い。

「何でだよ」

「だ、だって、私では不釣り合いです!」

「君の基準はどこにあるわけ? 似合う似合わないなら兄上とシャルロット様が一番変な組み合わせだよ」

 そういうあなたはどうしてそんなに不機嫌そうなのですか。

 口から出掛けた言葉を寸でのところで呑み込む。

「そんな、なんて失礼なことを仰るん、」

「別に悪い意味じゃないんだけどね。兄上は少し、優し過ぎるきらいがあるから」

 もの憂げに長い睫毛が影を作る。そうするだけで、アスターは簡単に浮世離れして見えた。妖精のような。

 ——そう、シャルロット様と、同じような世界で、生きるひと。

 エレンはちょっと俯いて、ほんのりと唇に笑みを乗せた。遠い。なんて遠いのだろう。けれど。

 けれど、自分は彼のそういうところが好きなのだ。

「……まだ何か、嫌なことあったの?」

 ふっと妙に優しい声でアスターが言ってきた。どうしてだろうと思ってから、すぐに俯いていたからだと気付く。エレンは酷い人見知りで、いつも自信がなくて、だから習慣のように下を向いてしまう。それを気にするような人はいなかった。……アスター、以外には。

(……あなたも、)

 あなたも、優しいです。

 そんなことを言えたら良かった。でもエレンは首を振って綺麗な青の目に視線を合わせるだけでも精一杯だった。アスター。エレンが焦がれたひと。彼がどういう人間か、彼女は、とても、よく知っている。そう。

 基本的に善い人なのだ。意外にも世話焼きで。

「ふうん? ……まあ、何かあったら言いなよね。君、どんくさいんだから」

「は、はい」

 ……言葉は酷いけど。

 肩を落として、ついでに眉尻も下げて項垂れる。うう、事実なんだけど。

「じゃあ僕はまた兄上のところに行かなきゃいけないから。……気をつけなよ」

 ぽそりと付け足された言葉に、エレンは小さく頷いた。

 ええ、アスター様。

 どうか、あなたも。

 

  

 

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