薔薇の花は君を待ってた

 

 

 

  

 

「きゃっ」

 どん、と胸の辺りに誰かの頭がぶつかった。

 レイモンドは慌てて退き、ふらりとよろめく令嬢に支えの手を差し出した。曲がり角は焦って曲がるものではないな、と反省しつつ。

「失礼しました。大丈夫ですか?」

「は、はい」

 わたくしこそ失礼を、と頬を薔薇色に染めた少女は迷いなく彼の手を取った。ぱたぱたとよれてもいないドレスの襞を直す。ああ早く行かないとあの偏屈な書庫の主が帰ってしまう、と彼は密かに不安になったが、人にぶつかっておいてそんなことは言えまい。レイモンドはにこりと緩く微笑する。

「ご無事なようで安心致しました」

「そんな、殿下からそのようなお言葉を賜われるなんて、幸福の極みにございますわ……!」

 うっとりと彼女は言い、強く彼の手を握りしめる。良かった良かったと単純に安心したレイモンドはなんとなく雲行きが怪しくなってきたような気がして、ちょっと笑顔の色を白くした。……んんん?

 くるくると毛先まで細かに巻く、流行りの髪型を揺らして彼女は上目遣いになった。片手をそっと唇に寄せ、身体はレイモンドに寄せてくる。

「殿下は本当にお優しい方でいらっしゃいますのね」

 ここに至ってレイモンドは、この令嬢は一体どこの誰の娘だったかな、という考えに没頭し始めた。王家とお近づきになりたい貴族商人は山ほどいるが、これほど露骨に、かつ悪くすれば不敬だと言われるやもしれぬ行動に微塵の迷いもなく突撃出来る家、そしてそれに何の疑いも持たない何だか生温い気分になる家といえば、どことどことどことどこがあったか。

「殿下……いかがなさいましたの?」

 はっと気付くと少女が切な気に潤ませた目で甘くレイモンドを見上げていた。いつの間にか彼の手を掴むのが両手になっている。手袋をつけてくれているところが幸いか。

「いえ……あなたがご無事なようで、安心していただけですよ」

 とりあえず無難なことを言ってみた。そしてさりげなく手を引き抜こうとする。……出来なかった。何だこの力の強さは。最近の子女はこんなに剛力なのか。

「まあ……嬉しゅうございます」

 ……今の自分の発言のどこにそんな要素があっただろうか。いやない。

「殿下……」

「……何でしょう」

「どうか、わたくしのことはレジーナとお呼びくださいませ」

 ——レジーナ?

 レイモンドは片眉を跳ね上げた。

 どこかで————ああ、そう、シャルロットから聞いたのだ。いや、その前にもどこぞで近く聞いたような気がする。同名なだけかもしれないが。

「レジーナは殿下をお慰めしとうございます」

「……は? あの、意味がよく、」

「……分かっておりますわ、殿下のご心痛。あのような鄙の匂いのする、頭の弱く美しくもない方を、隣国の王女であるからというだけで娶らなければならないなんて……本当に、お可哀想ですわ」

「…………」

 可哀想なのは、どちらだろう。

 このような女のいる国に嫁がされた姫か。それともこのような悪意を彼女に向かわせる自分の無能さか。

「————そういう意味なら確かに“可哀想”だな俺は」

「え?」

 ことりと可愛らしく小首を傾げてレジーナ嬢は聞き返した。小さ過ぎて聞こえなかったらしい。

 彼女の瞳に同意を求める色はない。何故なら自分の考えが是も非もなく事実だと思い込んでいるからだ。彼はそういう人間をとてもよく知っている。この城に、彼の庭に、おののくほど多く蔓延っていることを知っている。

 そんな、ところに、自分はあの棘すら生まぬ花畑のような人を縛りつけるのだ。

「彼女は尊いコーラルフェリアの王女です。戯れでもそのようなことを言うべきではありません。特に私の前では」

 幾分眼差しが冷えてしまうの仕方なかろう。唇が今にも笑みを捨て落としてしまいそうなのも。

 目を見開き、唇を震わせ、微かな勘気の色を覗かせるレジーナに目礼し、レイモンドはすっと彼女の横を通り過ぎた。

「……っ、レイモンド殿下! わたくしはっ」

「もうぶつからないよう、どうかお気をつけて」

 外聞もなく叫んだ少女の言を遮ってそれだけ言い置くと、彼はもう振り返りもせずに書庫へ向かう。苛立ちではなく、どうしようない罪悪感と八つ当たりにも似た嫌悪感で吐き気を覚える。かつ、かつと靴の底が鳴り、たわむように耳に響いた。

「……殿下」

 控えめな呼びかけに彼は慌てて眉間の皺を解いた。おそるおそるといったていの顔見知りの姿にほっとしつつ微笑ましい気分になる。

「エレン様。こんにちは、うちの弟がまた何か言いましたか?」

 からかうように言うと、彼女は素早く首を振った。焦っているのが手に取るように分かる。……良かった、弟はまだ飽きられてはいないらしい。もどかしい二人だが、まあ、ゆっくり幸せになってくれたら兄としては満足なわけで、下手な手出しをすることはない。が、たまにアスターのぶっ飛んだ素直じゃなさに頭を抱えたくなることもあるので、このように確認して一人安堵していたりする。兄心というだけなのでわざわざ弟に教えてやることはないが。面白くないし。

「あ、あの……、お久しぶり、です、殿下」

 まだ少し怯えたようなのは、久しぶりに会ったからだろう。ここ二ヶ月くらい何故か父の横暴が増したせいで出歩くことが少なくなっていた。その為か、エレンだけでなくあまり仕事の用のない相手に会うことも妙に減っていた気がする。まるで引きこもりのようだ。……地味に落ち込む。

「どうかなさいましたか?」

「……あの、」

 妹にするように穏やかに問いかける。エレンは躊躇ってから、意を決したように口を開いた。握りしめた手が白い。

「あの、どうか、シャルロット様にお気をつけて差し上げてください。今日の、夜会、は、特に。あ、の」

「……え?」

「も、申し訳有りません! 差し出がましい、口を……でも、あの——本当に、どうか、シャルロット様を、お守りください。あの、方は、気丈でいらっしゃるけれど、異国の方です。一ヶ月かそこらで全てに慣れるなんて、出来ません、から。……クラッグランドはコーラルフェリアほど、シャルロット様のことを存じ上げません。それでなくとも、妬みや羨望は、人をおかしくさせますから。悪意、は、人も、場所も、関係なく、生まれ、ます、から」

 たどたどしく告げられた内容に背筋がひやりとした。何か、とても嫌な予感がした。それから何かを見落しているような。

「……れ、レイモンド殿下? 申し訳有りません、わた、し」

「ああ、いえ、こちらこそすみません。……姫と仲良くしてくださっているんですね。ありがとうございます」

 びくびくと青ざめていたエレンは、レイモンドの言葉に吃驚したように顔を上げて、それから不思議そうになった。

「……殿下は、シャルロット様を、憎からず思っていらっしゃるのですか?」

 レイモンドは咽せそうになった。なんて直球な。ごほん、と咳払いをして、小さく、もちろんです、と答える。

「そう、ですよね。申し訳有りません、先程レジーナ様とのお話を聞いてしまって……少し不安になってしまったのですけれ、ど。早とちりですね」

 ほっとしたようにエレンは何度も頷いた。レイモンドはああだから急にこんなことを、と納得した。大人しくあまり人が得意ではない彼女にしては珍しい気勢だったから、驚いてはいたのだが。

「可哀想、なんて、聞こえて、焦ってしまい、ました」

 ……あれを聞いていたのか。

 レイモンドはちょっと困って苦笑した。確かに、悪い意味に聞こえるかもしれない。

「あれはそういう意味ではありませんよ。……というか、よく聞こえましたね」

「昔から耳は良い方なんです」

 ようやく馴染んできたらしい彼女はにこにこと微笑んだ。

 耳が良いにも程がある、と軽く冷や汗を掻きつつ、ふと思い立ってブルネットの髪を撫でる。

「どうか、これからも姫のことをよろしくお願いします」

 心の底から祈るような気分で頼むと、彼女は神妙な面持ちで頷いた。

 

 

 

  

 

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