泣くのはやめて呪文を唱えて

 

 

 

  

 

 

 エレン・ブラックストンは紙のように白い顔で凍り付いていた。

(…………聞いてませんよ、シャルロット様……!)

 まさか、舞踏会だったなんて!

 初めから夜会、とだけしか聞いていなかったし、ここ数日散々な目にあっていたせいで社交にも精通していなかったエレンは、その内実がどのような趣向によるものなのか、全く考えていなかったのだ。父は知っていたようだが、彼も彼で娘は知っているとでも思っていたのか、馬車に乗るまで教えてくれなかった。そういう訳で、何故かただの立食会だと勘違いしていた彼女は羽扇を握りしめたままふるふると隅で震えていた。もう、もう、どうして、ちゃんと聞かなかったの私! ああどうしよう、心の準備が……——

「エレン、私はラングレイ伯爵と次の乗馬会のことで話をしてくるから、輪の中にでも入ってきなさい。お前もたまには楽しく踊った方が良い」

 楽しく踊れるわけがないではありませんか! 

 そう叫びたいエレンの心境などさっぱり無視してヴェルロゼット侯爵は人波に消えてしまう。そんな馬鹿な。パートナーを放って意気揚々と友人の集まりに走る男がどこにいるというのだ。酷過ぎる。ため息をついて、エレンはするすると後ずさった。さっさと壁の花になろう。

「失礼、お嬢さん。お暇ですか? よければ僕と踊りましょう」

 ——思った側から何だか胡散臭そうな人に捕まってしまった。

 やに下がった顔で差し出された手が、エレンの反応を待っている。紅玉や翡翠の多くあしらわれた指輪が無数に嵌まった指。手袋の白が埋まるのではないかという飾りっぷりだ。そっと窺うと紫に黄色と赤の柄もののスカーフが目に入る。……悪趣味。明らかに清らかならざる思惑が滲んでいたが、エレンは仕方なくてのひらを伸ばした。忘れがちだが、自分は一応父の娘なのだ。王の覚えもめでたいヴェルロゼット侯爵の。その当人はさっさと趣味仲間の方に行ってしまったが。

 にんまりと相手の唇が歪む。撫で付けられた前髪がぱらりと一筋こぼれた。憂鬱な気分で足を踏み出す。——と。

 さわり、と背中を撫でるように引き寄せられた。乱暴に手を掴まれる。エレンはぞわっとした。恐怖よりも気持ち悪さが勝る。————ああ、諦めないで逃げれば良かった!

 激しく後悔するが、時既に遅く、今にも彼女達は踊りの輪に入ろうとしていた。けれどもふいに甘い蘭の匂いが鼻孔を掠める。一瞬呼吸が楽になった時、背中の嫌な感触は離れていた。

「やあやあ探しましたよ、エレン様。次のワルツは私と組む筈でしょう? 忘れてしまうなんて、酷い方だ」

 エレンはぽかんときらめかしい人を見た。装飾品も少なく、特に派手な恰好ではない。だが眩しいくらいにきらめいて見える黄金の髪と妖しい魅力をこれでもかと言うほど含んだ群青の瞳。そして淡い金のスカーフが上品に彼を彩っている。そこに立つだけで溢れる華々しさに、趣味の悪いスカーフの男は少々たじろいだようだった。

「な、——なんだ、あなたは。無礼だろう!」

「それは申し訳ない。だが彼女は私と先に約束をしていてね。悪いが引いてもらえないか」

「で、出来るわけ、」

「ディマン卿。今宵は我らが麗しの王妃陛下の舞踏会。無闇に騒ぎを起こすのは得策ではないと思うが」

 穏やかに、けれども一片の鋭さを持って囁かれた男は、ぐっと声を詰まらせた。おのれ、オルポート、と品もなくぼそぼそ呟く。けれども金の麗人は微笑むだけだ。やがて男は悔しげに踵を返し、足音高く去っていった。

 エレンはほうっと胸を撫で下ろした。助かった。ありがとうございます、と呟いてジュリアン・オルポートを見上げる。彼はにこりと艶麗に目許を和らげ、優雅に一礼した。清潔感漂う腕を差し出される。きょとんとする彼女に向かって、彼は早く取るよう目で促してくる。エレンはあれ、と思いながらも手を伸ばした。瞬間ふわりとリードされる。……さすが、上手い。

「……って、あの、ジュリアン様?」

「危ないところでしたね? エレン様。ディマン卿は好色で有名な方ですよ」

「え、あ、ありがとうございます。あの、でも、何故ダンスを」

「おや。つれないですね、私を海に棲まう人魚のように容易く恋に落としたのは貴女でしょう」

 どうしよう。違う意味で困った相手に捕まってしまった。

「あ、の……」

 どんどん顔色を悪くする彼女を見たジュリアンは、クッと可笑しそうに吹き出した。くすくすと細かに喉を震わせる。からかわれたのだ、と気付いたエレンは、腹を立てる前に心底ほっとした。

「すみませんね、殿下ではなくて。シャルロット様に貴女のことを頼まれたものですから。……まさか、こういう普通の手助けをすることになるとは思いませんでしたが」

 エレンはぱちりと瞬いて、つい先程別れた隣国の王女を思い出した。レイモンドと共にはじめのダンスを踊りにいった、妖精のようなひと。彼女が、そんなことを。

(……私が、また、レジーナ様達に何か言われないように、気遣ってくださったのね)

 そう思うと何だかとても申し訳なくて、けれど不謹慎にも嬉しいような気持ちになる。

「まったく殿下はタイミングの悪い」

 楽しそうに言うジュリアンの“殿下”とは、アスターのことだろう。この引く手数多の、美しい娘を落とすことにかけては宮廷一と言っても過言ではなかろう男にはエレンの意中の人を見抜くことくらい朝飯前なのだろうと、彼女は微かに頬を赤らめた。

「……そんなことは、ないです」

「そうですか?」

「はい。それにいつもいつも、頼ってばかりではいけませんから」

 そろそろ一人であれくらいあしらえるようにならないと、と不格好に笑えば、ジュリアンはちょっと不思議そうな顔になる。エレンの腕を引いてくるりと回らせてから、彼は器用に肩をすくめた。

「殿下もお可哀想に」

「え?」

 聞き返した時を見計らったようにワルツが終る。ジュリアンの腕はあっさり離れ、波に紛れた。呑まれそうになって、慌てて外に出る。飲み物が配られているあたりまで抜け出し、エレンは漸く人心地ついた。

 給仕のから薔薇水をもらい、一休みする。シャルロットに誘われたから来たが、もう既に帰りたい気分で一杯だった。おそらくレジーナの癇癪もそろそろ止むだろう。それまで彼女に鉢会うことのないよう気をつけて行動すればいいだけの話だ。——それでは駄目だと、理解はしているのに。そんな考えがぶくぶくと浮かんでくる。小心者。薔薇水を飲み干して詰るように思う。小心者、どうしていつも私はそうなの。容器の首を持つ手に力を込める。軽快なマズルカの音楽がたわんで耳まで押し寄せる。

 答えは、出ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シャルロットとぎこちないにも程があるダンスを踊り終えたレイモンドは、早速高位貴族やその娘達に捕まってしまっていた。げんなりである。

 延々と四方八方から続く全くと言ってどうでもいい言葉の数々に、良い加減辟易としていたところで、あくまで上品に喚き散らす男の背後に友人の姿を見つけた。ちょいちょい、と片手で呼ばれる。レイモンドはこれ幸いとばかりに自分を取り囲む面々へ愛想笑いを残して逃げ出した。

「……助かったよ、アレックス」

「もてもてですねぇ。後ででも良かったんですよ」

「やめてくれ」

 レイモンドは本気で呻いた。

 それより、と話を逸らす。苦笑しながらアレックスが先を遮った。

「分かってますよ。連名の書状、貰ってきました。ついでにアリンガム侯爵の印もいただいちゃいました」

 にっ、と少々人の悪い顔で笑う。あとはどう穏便に済ますかですねー、などと楽し気に目論む彼を一瞥して、レイモンドはふと目許を険しくさせた。

「アレックス」

「はい?」

「俺が直接言い渡すから」

「……は?」

「それから、」

 ぽかん、と口を間抜けに開く友人を置いて、彼はかつりと靴を鳴らし、緋色のマントの裾を払った。

 閃く。

「派手にやるぞ」

 彼にしては珍しく不愉快な顔で、冷然と呟いた。

 

  

 

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