とん、と手近なテーブルに空の容器を置いて、エレンは憂鬱に視線を落とした。小心者、とつい先程まで己を詰っていた彼女は、少しだけ冷静になってから、さらに重たい気分になった。すぐに落ち込むところも自分の悪い癖だ。しかも、そういう時、決まって救いを求めるように思い出すのはあのとても高貴なひとのことなのだ。
(……駄目ね、本当)
良い加減しっかりしなくては。これ以上迷惑をかけて、あの方に嫌われたくはない。ただでさえ、普段心労をかけてばかりなのに。
ふ、と息を吐いて、小さく頭を振る。ダンスにもう一度混ざってみよう、とくすぶる躊躇を振り払って決意する。
こつ、と白いリボンが繋がる靴を鳴らし、胸の前で手を握りしめて踏み出す。それだけでも気が滅入る。それでも彼女は音楽の中に入ろうとした。
しかしその寸前、華麗なローズピンクとエメラルド色の縞模様をしたドレスに正面を塞がれてしまった。ひらりと絹のリボンが舞い、フリルが揺れる。ぶつかりそうになったエレンは、慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい……っ」
「——あら、ヴェルロゼット侯爵令嬢ではありませんの」
少し籠った、甘ったるい声が笑み混じりに囁いた。え、とエレンが顔を上げると、その周囲からさざめくような笑声が響き渡る。あら。あら、まあ。本当だわ。かの有名なヴェルロゼット侯爵のご息女様ではありませんの。まあ。彼女が。ひそひそと楽し気に頭上で交わされる会話にびくりとする。同時に、ああ、と諦めにも似た心地になる。手足の先がひんやりと冷めてしまう。
「……ナタリア様」
レジーナの最も親しい取り巻きの少女。艶やかな金の髪がさらりと流れて先がくるんと巻かれている。紫の目を細めた彼女は、可愛らしく小首を傾げた。
「エレン様ともあろう方が、このようなところで何をなさっておいでですの?」
このような場所、とは会場の隅のことを言っているのか。それとも王妃主催の舞踏会という華々しい場のことを言っているのか。どちらにしても彼女の根本にあるのはエレンに対する悪意だろう。思い、彼女は微かに失笑する。
ランズウィルド伯爵の長女であるナタリアは、彼女が信奉しているレジーナと負けず劣らず美しい娘だった。一体何インチかと目も疑るほどの細い腰を逸らし、その下からたっぷりと溢れるタフタの光沢と光に紛れる刺繍を惜しげ無くさらしている。
なんて綺麗な人だろう。エレンははじめてそんな風に思った。今までずっと、青ざめて、俯いて、逃げてばかりいたから。こんな風に正面から彼女のことを見ることはほとんどなかった。というよりレジーナの印象が強過ぎたせいかもしれないが。
「踊りにはいかれないんですの? ああ、それとも、エレン様はダンスが苦手でいらしたかしら」
「それとも踊ってくださる殿方がいないのかしら」
「まあ、なんてこと!」
「お可哀想に」
「本当。お慰めしてさしあげたいわ」
ダンスが苦手なのも、気持ち良く踊ってくれる相手がいないのも事実だな、と彼女はぼんやりと思った。頭がぐらぐらする。シャルロット様。柔らかに微笑む、楽園のようなひと。あの方のお側は、なんて居心地が良かったのだろう。あのどこか浮世離れした微笑は、なんて。
なんて、優しかったのだろう。
自分自身が思っているより、随分弱っていたのだと、エレンは漸く気付いた。こんなことは慣れている、なんて考えていた自分はどれほど甘かったのか。塞ぎ込んで閉じこもって怯えて、何も考えられなかっただけだ。けれども久しぶりに同性の他人に優しくされて、気が緩んでしまった。だから、また浴びせられる彼女達の言葉に、こんなに重たい気分になっているのだろう。和らぎを覚えてしまったから。情けない。
「エレン様? 聞いてらっしゃるの?」
「あ……」
「嫌だ、ぼんやりなさらないでくださいな」
「気味が悪いわ」
「ちゃんとナタリア様のお話をお聞きになって」
かた、と手が震える。唇も同様に。こんな隅に来てしまったことを後悔する。逃げられない。こわい、と瞬間的に思った。
時。
(…………——待って、)
レジーナ様は?
ふいに嫌な予感に襲われた。何故、今日はナタリアだけなのだろうか。いつも彼女はレジーナの側にあり、他の娘達もレジーナの周りを取り巻いていた。今宵など彼女の側で紳士を狩る絶好の機会ではないか。それでなくとも彼女達はこのような会では行動を共にするのが普通だというのに。
エレンは無意識に羽扇を握りしめた。唇がふるりと震える、——怯える。
沼底に突き落とされるような気持ちを抑え、彼女はさっと会場内に目を走らせた。ダンスは目紛しく曲目を変え、楽士達の気も充分盛り上がってきたのか、心無しか一番目の曲よりも随分と情感が込もっている。シャルロット様。異国よりやってきた王女の姿を視界に求める。けれども、最も目立つ人間達の一人であろうかのひとは背の低いエレンが視線だけで見回した程度では見つけることが出来なかった。ざっ——と全身の血の気が引いた。どうして、と思わず呟く。どうして————まさか。
「ナ、タリア様……レジーナ様、は」
「……人の話を聞いていらっしゃるの? あまりにも無礼ではなくて? ああ、それとも何か誤解なさっているのかしら。あのような田舎臭い王女におもねったところで何かのおこぼれにあずかれるとでも思っていらっしゃるの、エレン様」
エレンはえ、と目を見張った。違う。そんな、こと。
(そんなこと、私……思ってな、)
いや、今気にするのはそんなことではない。唇をきつく噛んで、もう一度口を開く。だが、それが音になる前に周りを囲う少女達の大仰な声にかき消されてしまった。
「まあ、なんて浅ましいのでしょう」
「名高いヴェルロゼット侯爵閣下のご息女ともあろうお方が、まあ」
「がっかりですわ」
「本当に、そのような恥ずかしいお考えを持っていらっしゃったなんて」
「ふふ、ですけどあの王女では、ねぇ?」
「ええ、見込み違いですわ。殿下にはレジーナ様の方が相応しゅうございますもの」
「その通りですわね!」
「きっと殿下もお疲れでいらっしゃることでしょう」
「あら、でもあとひと月の辛抱でしょう?」
「まあイヴリン様ったら! 駄目よ、滅多なこと仰っては」
「だって本当のことだわ。そうでしょう、ナタリア様」
「ふふ、もう、仕方ない方ね」
「————っ!」
花がざわめくように立続けに上がる言葉に、エレンは叫びそうになった。——否。どうして叫ばずにいられたのだろう。
(違うわ!)
違う、違う、違う! シャルロット様はこんな風に蔑まれて良い方じゃない。殿下は、殿下はシャルロット様を大切に思っていらっしゃる! そんな。そんな風に、簡単に、どうして。
「……っして、そんな……!」
そんな簡単に、貴女達の欲しいままに決めつけてしまわれるの。
眼の下が急激に熱くなるのが分かった。ああ、なんてこと。エレンは悔しくて上手く喋れなかった。涙が。
涙が、零れそうだった。激情で。
憤りにも似た、何かで。
「……嫌だ、見苦しいお顔」
つ、と眉をひそめてナタリアは不愉快そうに口許を隠した。きっ、とエレンが睨みつけると、彼女はふんと鼻を鳴らし、くすりと嘲笑する。
「……アスター殿下にお気遣いいただいているからって、貴女少し調子に乗り過ぎなのではなくって? 勘違いしないでくださいな。殿下はお優しいだけであなたが特別な訳はないって、そんなこともお解りにならないの?」
ばかな方、と真紅の唇がエレンに向けて嘲笑った。ぱきん、と胸中で何かが崩れる音がする。怖いほど心臓が冷えて、けれども細かに不規則な拍を刻んだ。——解っている。そんなこと、誰に言われなくても。殿下が、お優しいだけだと。だから心を配ってくださっているのだと。けれども。
ああ、こんな、いたい、なんて。
身の程知らず、とナタリアに同調するようにエレンは己を蔑んだ。逃げてしまいたかった。自分のことなど、今はどうでも良いのだ。そう思うのに、心臓を握りつぶされるような心地に倒れそうになる。くすくすと広がる笑みの輪が耳の奥にがんがんと響く。こつ、と高い靴音がした。
「黙ってないで何かおっしゃったら? それとも誰かに助けてもらえるとでも思ってらっしゃるの? ——同情でしか、誰にも相手にされないくせに」
「それは君の勘違いじゃない?」
————え?
軽やかで、けれどもどこか突き放したような声がナタリアの弁舌をあっさりと切り捨てた。と、エレンの左脇にいた少女がどん、と軽く押される。その全くの躊躇の無さにぎょっとして、彼女を押した相手の——アスターの顔を、エレンは呆然と見上げた。不機嫌そうな冷めた眼差し。目が合う。
逢う。
(アスター……様……?)
暫くじっと彼女を見返していた彼は、はあ、と浅いため息をついて近づいてきた。その際周りの娘達を適当に押しのけることも忘れない。さすがにその所行に青ざめるが、彼は意にも介せずぐいっとエレンの肩を引き寄せた。転びそうになるのを片手で支えられる。——な、ななな。
何、この状況。
混乱してうまく頭が回らない。元凶たる当の本人はしかし何も言わずに何故かエレンのドレスの襟を直した。ぱんぱん、と子供にするようにリボンの裾を払われる。
エレン同様ぽかんとしていたナタリアがそれで漸く、はっと息を吹き返した。
「で、殿下……っ?! ど、どうして、こちらに……!」
「僕もたまには母上の夜会に出ようと思ってね。……何、なんか用事でもあるの?」
言外にさっさと去れ、と促している。隠すことなく不快感を表出すアスターに少なからず衝撃を受けたのか、ナタリアの瞳が瞬く間に潤んだ。けれどもすぐすがりつくように愁眉を寄せて身体を寄せる。
「アスター様……そのようなご無理はなさらなくても良いのですわ。折角の舞踏会ですもの、踊ってはいかがです?」
誘ってくれと言わんばかりの態度に、つきりと胸が痛む。そろ、とエレンはアスターから離れようとした。もう、お荷物になりたくない。
だがアスターは興味なさそうにナタリアを一瞥しただけで、エレンを放してはくれなかった。
「……そう、気遣いありがとう。じゃあ僕は彼女と踊ってくるから、そこ開けてくれる?」
え。
ひくり、とエレンは引きつった。ここまでくれば彼がエレンを助けてくれようとしているのは分かる。分かるが、しかし。
(そ、その、お言葉は逆効果です……!)
まさかナタリアがこのような場所で取り乱すとは思えないが、彼のこれからに何がしかの悪影響が出るようなことが起きてしまってはもう合わせる顔もない。
思った通り、ナタリアはかっと頬を紅潮させた。はら、と透明な涙が溢れ出す。……女の子を泣かせたにも関わらずアスターは面倒そうに眼を細めて終わりだ。エレンの方が冷や冷やしてしまう。
「何故……っ、何故彼女ばかりお相手なさるのです?! ですからその方が調子に乗るのですわ!」
びく、と思わず肩を揺らす。先程まで脳内を渦巻いていた感情が濁流のように押し寄せてくる。情けなさで身体中がひりひりしてきた。何よりもこんな情けない娘に優しくしてくれるアスターに、こんな無軌道な怒声を浴びさせることになってしまったことが恥ずかしくて、申し訳なくてたまらなかった。
「……調子、ね」
ふと皮肉気にアスターが呟く。第二王子を中心に騒いでいるせいで、会場の隅であるというのにだんだんと人目が集まってきていた。彼女達を取り囲む少女達とは趣が異なるざわめきが微かに届く。けれども興奮してしまっているらしいナタリアは気にも留めず、アスターの小さな呟きに意気込んだ。
「そうですわ! そのようなうだつの上がらない恥知らずなど、ヴェルロゼット侯爵の娘だからと言ってそこまでお気になさらなくても構いませんわ」
「————調子に乗っている、恥知らずは君の方だと思うけどね」
ぞっとするほど冷たい声だった。
ざわり、とドレスの波が動揺するのが分かる。エレンもだからだ。吐き捨てられたナタリアはもっとだろう、怯えた顔で一歩後ずさっていた。
エレンの肩を握る手が強くなる。彼女はふいに気付いた。アスター様、は。もしや。
(今、とても、怒っていらっしゃる……?)
不愉快に、程度ではない。明確な憎悪の如く深い怒りだ。冷めた眼差しは、そう、思えば始めから確かに苛立ち、確かに蔑みの色を宿していた。
「君の頭が理解出来るように言えば、まず彼女の身分と自分の身分を考えてものを言うことだね。それから、」
ふ、とアスターは笑った。宮廷に集う誰もが憧れる美しい少年は、確かに凄絶なまでの笑みで唇を引き上げた。
「僕は君に名前を呼ぶ許しを与えた覚えはないんだけどね」
空気が凍る。
ナタリアは目を見開き、真っ青になってその唇をわななかせた。あ、と意味をなさない呟きが零れる。こつ、こつとアスターがエレンを引っ張りながら歩き出す。波が割れるようにして道が開いた。当然のように通り過ぎる彼に、呼びかける声はなかった。
呆然としたエレンが我に返った時にはもう彼女達の姿は遠く、まるで何事もなかったかのようにアスターが給仕に飲み物を持ってこさせているところだった。