ふわり、と鼻先をあまい薔薇の匂いが過った。
ああ、これは、レイモンド様がお好きな淡いアプリコット色の薔薇の匂いだわ、とシャルロットは懐かしい気分になる。ダンスの相手が何事かまくしたてるのを気にも留めず、その香りに思いを馳せる。そうこうしている間に曲が終わり、無念そうな男へと綺麗にお辞儀をして、シャルロットはそっと輪を抜けた。
いつもより少しだけ高いヒールのせいだろうか。さすがに疲れて足が痛くなってきた。一休みのつもりで開け放された庭先へ降りる。そこかしこで同じように休んでいるらしい人々の囁き声が聞こえてきたりして、のんびりと首を廻らせると睦言めいた会話を交わしている男女もいた。甘やかな空気にちょっぴり頬を染めて、ぱたぱたと早足になる。シャルロットとて他人様の逢瀬を見物して楽しむような趣味はなかった。お幸せに、とただそんなことを心の中で思ってみたりする。
さやさやと木々が風に揺れている。やわらかく降り注ぐ月光が目に優しい。煉瓦で囲われた水面に映った月はどこも欠けることなく満ちていた。ひらりとその波間に花びらが落ちて、たわんだ緩やかな波紋が生じる。
きれい。
きらきらと光の粒が舞い上がる。池に手を浸したい衝動を我慢してシャルロットはにこにこした。手袋をしていなければ躊躇なく指を遊ばせていただろう。揺れる薔薇の首に人差し指を這わせて、棘を避けながら撫で上げる。もう随分遠のいてしまっていたけれど、まだ花冠を作れるだろうか。薔薇はまた練習しないと難しいかもしれない。だが白詰草なら。
(……駄目だわ。殿下はもう、立派な王冠を継ぐ方なのだから)
冠は、駄目。
でも、とシャルロットは眉を寄せる。でも、指輪はどうかしら。帰郷する前に、指輪だけでも、贈ってはいけないかしら。
それだけならば、きっと戯れだと許していただけるかもしれない。
かさ、と草の根が鳴ったのはその時だった。
誰かきたのかと振り向くと緋色に染め抜かれたレースがばさりと閃いた。
「……あ、ら?」
その人が見つめる視線の先が自分だと気付いて、シャルロットは戸惑ったように瞳を揺らしたのだった。
*
ほら、と差し出された飲み物の容器を反射的に受け取ったエレンはぐいと目許を拭われて蛙が潰れたような声を上げてしまった。い、いた、い。
「あ、アスター、さ」
「君、本っ当馬鹿だよね」
がぁん、と彼女は顔を歪めた。
するとアスターはすぐさま面倒そうに、ちっと舌打ちした。こ、怖い。このひと、仮にも王子なのに、どうしていつもこう微妙に粗雑なんだろう。
「……言っただろ、付き添うか、って」
「え、」
「人から離れるから、こういうことになるんだ」
ばか、と頬を擦られる。触れられる手の甲が少し熱い。それとも自分が熱いのだろうか。
「……ごめん、なさい」
心配してくれたのだと、知っている。優しくて、不器用で、身内に甘い。慰めるのは下手。小さい頃は彼の言葉を汲み取れなくて、エレンはよく泣いていた。でも多分、そのせいで彼を傷つけたこともあるだろう。それでも彼は変わらず接してくれたのだ。——ああ。
どうして、自分はいつも惑わされてしまうのだろう。誰が何と言おうと、きっと、アスターはエレンのことを欠片でも親しく思ってくれているのに。あんな風に落ち込むのは、この綺麗なひとに失礼だ。
「殿下」
「ん」
「私、殿下の友人ですか」
「……は」
第二王子は固まった。ふるりと唇が戦慄く。その反応に、エレンも固まった。え。
「……そ、そうです、よね……やっぱり、釣り合いませんよね……」
ずうん、エレンが前のめりになると、アスターは慌てたようにぐいっと彼女の手首を引っ張った。違う、と言い難そうに彼は反駁する。
「君は極端なんだよ。だから、つまり、僕は——君が、す」
「す……?」
な、なんか、切れてる? 長年の付き合いから、エレンは彼が酷く苛立っているのが分かった。どんどん眉間の皺が険しくなる。え、ええええ。どうして。
「……だ、だから」
「は、い?」
「僕は、君が、嫌い、じゃ、ない」
「…………え、あ」
エレンはまじまじとアスターを見つめた。そっぽを向いて、苦々しい顔をしているアスターを。
ほう、と胸の裡からじわじわと熱が押し寄せてくる。熱い。
嬉しい。
「あ、ありがとう、ございます……!」
「……何なの」
はー、とため息が落ちた時、ぶふ、という妙に愉快そうな笑い声が聞こえた。
「ふ、ふふふ、殿下は素直でなくていらっしゃいますね」
「ジュリアン様?!」
「……オルポート卿。どこにいらっしゃったのですか」
「お二人が戻っていらっしゃるのを待っていたのですよ」
しかし、と華のような麗人は笑いを堪える。
「シャルロット殿下に頼まれていたのもあって、一応私が行こうと思っていたのですがね。アスター殿下が自分が行く、と」
「オルポート卿!」
「良かったですね、エレン様。今度はお望みの方でしたよ」
「え、あの、」
ふ、と整った目尻が緩まる。何の気なく手を取られ、あっと思った時には騎士もかくやという見事な仕草で甲に口付けられていた。かあ、と微かに頬が赤くなる。本当に凄い人だ。色々と。
「姫君に祝福を。……すぐに窮地に駆けつけられなかったことだけは、悔やみますが。すみませんね」
「い、いえ、そんな! あの、気にかけてくださって、ありがとうござい、ます」
たどたどしく呟くと、ジュリアンは今までにない穏やかさで微笑んだ。エレンはぽかりと瞬く。このように、笑うひとだっただろうか。時々連れ出される夜会やお茶会で見かける彼は、いつも少し恐ろしくあったものだけれど。
「折角ですし、踊っていらしたらどうです?」
何故か不機嫌になっているアスターを見て、ジュリアンはぱっとエレンの手を離した。勧めながら、彼はやることがあると言い残して去っていってしまう。
苦笑してその後ろ姿を眺めてから、彼女ははっと息を呑んだ。
そうだ、一体何をしているのだろう。自分ものんびりしている暇ではない。
もしこの嫌な予感が当たっているのだとしたら。
「あ、アスター様!」
「何、」
面食らう彼に詰め寄って、エレンは手を握りしめた。アスターがぎょっとする。
「シャルロット様はいずこにおいでですか?!」
「え、シャルロット様……? いや、見てない、けど」
「お願いします! シャルロット様をお探しください! あの時、レジーナ様がいらっしゃいませんでした。……シャルロット様は私のことを気にしてくださいましたが、けれど、レジーナ様は——レジーナ様が最も敵意を抱いていらっしゃるのはシャルロット様なのです! レジーナ様はレイモンド殿下に憧れて、つまり伴侶となりたいと夢見ておいでなのです。アスター様、彼女は躊躇いません。手に入らないなら、手に入れようとするでしょう。ナタリア様も、」
息が詰まった。
ああ、そうか。
ナタリアもそうだったのだ。彼女は。
「ナタリア様も、アスター様に焦がれておりました」
だから、彼の近くを占めるようにつきまとうエレンがうとましかったのだろう。割って入ったアスターを、激昂した彼を見た彼女の瞳は、確かに恋情の色があった。
「……お願いします。どうか、シャルロット様をお救いください。私、私は、シャルロット様に助けていただく前の日に、レジーナ様達があの方を罵っていらっしゃるのを聞いて、いたのに。何か、きっと何かしてしまうと、気付いていたのに、言い出せなかった。あの方のお顔を曇らせたくはなかった。ですが、もし、この——クラッグランドで、シャルロット様が傷ついてしまわれたら」
「エレン、」
「間に合わなかったら、アスター様、お願い、」
「エレン!」
びく、と肩を揺らしてエレンは口を噤んだ。静かな怒声が耳の中で反響する。
「……あのね、そうしたらまた君は一人になる。彼女達が、またやってこないとどうして言える?」
「私は、大丈夫です。だって、」
だって。微笑う。
「だって、アスター様が、嫌いじゃないと仰ってくださった。だから、もう、大丈夫なんです」
アスターはあからさまに嫌な顔をした。はあ、と浅いため息。
「……君の」
「はい」
「君の、そういうところが、嫌いなんだよ」
この、強情。詰るように彼は言う。それでもエレンは幸せだった。
「はい」
頷く。それで彼が行ってくれると、エレンは思った。けれども思惑は外れ、アスターは彼女の手を引きながら王の座る上座へ歩を進める。
「あ、アスター様!」
「シャルロット様は大丈夫だよ」
ふん、と不本意そうに言われた言葉にえ、と顔を上げる。アスターの顔を覗き込もうとすると、彼はふいとあらぬ方を向いた。
「シャルロット様には、兄上がいらっしゃるんだから」