遠い昔から、夢の中で

 

 

 

 
  コーラルフェリアから三ヶ月という期間付きでクラッグランドの王宮にやってきた、名目上第一王子レイモンドの婚約者シャルロットは、うぞうぞと部屋中を走りまくる虫の山に眉尻を落とした。

「ねぇ、ポーラ。やっぱり、王妃様に相談した方が良いわよね」

「ああああっ、あたりっ、当たり前です! な、ななな、なんてことを……っ」

 ぶるぶる震えて今にも失神してしまいそうな侍女の背を宥めるように叩いて、シャルロットは王妃コンスタンティアを探しに行くことにした。ぱたりと部屋を閉める。……閉めてから、首を傾げる。

「ねぇ、ポーラ。出てきてしまわれたりしないかしら」

「恐ろしいことを仰らないでください! 大丈夫です、鍵を、鍵を閉めれば大丈夫ですっ!」

「そう? そうね、ポーラが言うなら大丈夫ね。それなら行きましょうか」

「はい! さっさと、さっさとっ、とっとと行きましょう!」

 心無しか青ざめた顔でポーラが拳を握りしめる。普通に女の子はあんまり虫は得意ではないから、きっとポーラもそうなのだろう。確かにあんなにいてはわたしでもちょっと怖かったわ、とシャルロットは気の毒になってしまった。

「ごめんなさいね、ポーラ。わたしの世話を任されてしまったばっかりに」

「何をおっしゃいますか! シャルロット様は何も悪くなどございません! ポーラはっ、ポーラはシャルロット様のようなお優しいお方にお仕え出来て、幸せにございますッ!」

 目尻を潤ませて勢い込むポーラの言葉がじんわりと胸を熱くする。シャルロットは笑み零れた。自分はなんて幸せ者だろう。苦手なものをあんな風に見ても、優しく接してくれる人がいる。

「嬉しいわ、嬉しいわポーラ!」

 ぎゅうっ、とポーラの両手を握りしめる。びっくりしたらしい彼女は文字通り飛び上がった。何やらもごもごと口走るが、最終的に照れたように笑ってくれた。

「まったく、シャルロット様は無邪気にいらっしゃいますね」

「ごめんなさい、それって悪いことよね?」

「そんなことはございません。貴女様の美徳でございますわ」

 シャルロットはきょとんとしたが、ポーラがそれ以上続けなかったので、まあいいかと思考を放棄した。そう、それよりも、王妃様のところに向かわなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 溶けるような白金の髪、美しい碧の瞳。柔らかな物腰に穏やかな性格、そして責任感と真面目さを兼ね揃えた何ともけちのつかない完璧な王子。それがシャルロットの婚約者、レイモンド・チャールズ・アリントンである。

 ちゃらんぽらんで面白いことが大好きな王と違い、日々王に押し付けられた仕事に奔走している。シャルロットが姿を垣間見ることすら出来ない日もあるのだ。一目くらい会いにきたらどうなの我が息子ながら不甲斐ない、とコンスタンティアがぷりぷり怒っていたが、シャルロットとしては、そんな忙しい相手のもとにやってきてしまって申し訳ない限りだった。婚約者、しかも解消されるかもしれない相手に気力を使う暇なんてないだろうに、彼は会えた日にはとても優しい気遣いを見せてくれる。昔から能天気だと笑われてきたシャルロットからすれば、それだけでもう充分なくらい嬉しいものだった。同時に申し訳ない気持ちも、やっぱりあったけれども。

 完璧な王子に対して、自分は王女という身分以外、ほとんど普通の娘である。変わっているといえば瞳の色くらいだろうか。色素の薄い、ミルクをたっぷり入れた紅茶のような色の髪と違って、瞳は淡い赤——というより、蕩けた木苺のような色である。コーラルフェリアでは『妖精の贈り物(フランボワーズ・アイ)』と呼ばれる瞳だ。自国では珍しいけれど少なくもないが、クラッグランドでは余りお目にかかれないらしい。とは言っても美人の代名詞とはほど遠い。むしろレイモンドを女性にした方がずっと美しい王女が出来あがるのではないかとシャルロットは密かに思っている。それくらい、ものすごい美形だったのだ。

(昔お会いした時は、そんなことは全然気にしなかったものだけれど)

 年月というのは恐ろしいものね。

 コーラルフェリアとクラッグランドは昔から比較的仲の良い国だ。王同士もよく互いの王妃に黙って遊びに行ったりしていると聞く。しこたま怒られるのがオチのようだが。ともかく、そういうわけでシャルロットは、もっとずっと小さい頃にレイモンドと遊んだり食事をともにしたりしていたりする。成長してからは随分疎遠になっていたので、今は少しぎこちなくもあるけれど。

 やっぱり、昔とは違う。ぼんやりしていて、能天気で、もっとしっかりしておくれと母に呆れを通り越して心配されるシャルロットだって、変わってしまったのだろう。もっと悪くなったのか、それとも少しは良くなったのか、いまいち判別のつかないところが情けないが、レイモンドの方は立派に国の跡継ぎとして成長したようだった。素直に凄いなぁと思う。王妃様は怒っていらっしゃるけれど、お仕事をきちんと果たしていらっしゃるんだから、凄いわ、とも。

 ……そういえば、自分はレイモンドに気に入られなければならないのだった。

 しかし容姿も中身も完璧にあちらが勝っていて、かつ特別忌まれている訳でもない。とてつもなく嫌われていたなら、まだ対応の仕様があるものの、これではどうすれば良いものか。もとより能天気でのんびり屋のシャルロットはそういうことを考えるのが得意ではなかった。得意ではないからと言って、放棄して良い訳ではなかったが、忙しい相手を下手に留めて売り込むのも気が引ける。

「どうすればいいかしら」

「まず、王妃様にチク、ごほん告げぐ、じゃなかったご報告ですよ!」

 呟きを耳聡く拾ったらしいポーラに、何のことかと瞬いてから、合点する。そういえば、お部屋の虫をトカゲさんやムカデさんをどうするか、お伺いに来たのだったわ。すっかり記憶の彼方に飛んでいたことを思い出させてくれた侍女にほんわりと礼を言う。……不思議そうな顔をされてしまった。

 気を取り直して豪奢な装飾の扉を軽くノックする。開いた扉の中から、何か書き物をしていたらしいコンスタンティアが水のように滑るドレスの裾を翻して机から離れようとするところだった。シャルロットはぱたぱたと彼女に近寄る。どうかしましたか、とうっとりするような美しい顔で尋ねる王妃に、シャルロットは大変なのです、と答えた。

「王妃様、どうしましょう、大変なのです。わたしの部屋にムカデさんとトカゲさんとクモさんがたくさんいらっしゃっているのです。さすがにお茶の準備が間に合いませんわ」

 言った途端、シャルロットの後ろでポーラがずっこけ、コンスタンティアは沈黙した。

 

 

 

 

 

 

 

 

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