黙ったままのレイモンドが、はあああああ、と深いため息をついたので、シャルロットはびくっと肩を跳ね上げた。
「れ、レイモンド様? どうなさいました、か? あ、あの、ご気分が優れないのでしたら、」
「違いますよ。……あなたが、ご無事で良かった」
こつ、と額を押し付けられた。心底ほっとしたような彼の姿に少々面食らう。
「え……そんな、」
相手はただの少女だ。そこまで酷いことをされるわけではなかっただろう。少なくともこのように心労をかけてしまうほどではなかった筈だ。
「……女性と言えど、コープランドの家系は侮れないんですよ。振り切れるととんでもないことをしでかすから」
心を読んだかのような言葉にぱちりと瞬きする。ああ、とシャルロットは酷く申し訳ない気分になった。また、迷惑をかけてしまった。
「……ごめんなさい」
「いいえ、あなたのせいではありません。あなたの側にいられなかった、私の責任です」
「ちが、」
ふわりと額が離れる。水のように美しい碧の瞳がひたと彼女を射抜いた。
「聞きました」
端的な言葉だった。だから、シャルロットにはそれが何のことか分からなかった。きょとんと見上げる。彼は痛みをこらえるような顔になった。
「どうして、仰ってくださらなかったのですか」
「え……」
「虫や、薔薇の棘、ドレスを裂かれたり、毒入りの焼き菓子。そんな酷いことをされていたのに、どうして何も仰らなかったのです」
「! 誰が、」
「陛下は全てご存知ですよ。たとえ貴女のご命令と言えど、彼女達も陛下には報告するしかなかったのでしょう」
彼女達、というのはおそらくポーラ達のことだろう。それもそうだと納得してしまって、シャルロットは穴があったら入りたい気分になった。ポーラ達には酷いことを頼んでしまった。きっと、とても困ったでしょうに。
「シャルロット様」
どうしてです、と聞く彼の顔を見れなかった。俯く。
「……もう、ご迷惑を、おかけしたくはなかったのです」
言い訳だ、と思った。本当はそれだけではない。
面倒だと、思われたくなかった。
こんなことをされていると、嫌われたくなかった。だって。
だって、レイモンド様は、きっとどうにかしようとしてくださる。こんなに優しい方だから。——こんなに、忙しい方なのに。
「何故、迷惑、だなんて」
砂を噛んだような声だ。ぎゅ、と唇を噛み締める。
「わ、わたしは、コーラルフェリアの王女だから、あなたのお側を許されたの、です。それでなくとも、お忙しい殿下の、お仕事の妨げになっているのに。わた、わたしは、」
ああどうしよう。こんなことを、言いたくはなかったのに。だって、当然のことだもの。
「わたしは、あなたの恋人でもないのに」
これ以上よりかかるなんて、許されるわけがない。どんなに自分がこのひとを好きだと思っても、どうなるかなんて分からない。もう、会えなくなるかもしれない。なのに。ああ。
このひとを好きだと知ったのは、もう、随分昔のことだったと、思い出してしまった。まざまざ、と。
「……シャルロットさ、」
呆然と、レイモンドは零した。つう、と頬を何か熱いものが流れる。涙だ、と瞬間的に理解した。
「……そんな、ことを、気になさっていたのですか?」
震える指が頬をなぞる。とてもゆっくりと、雫を拭われた。
だって、とシャルロットはまた反駁する。
「だって、殿下は、こんな三ヶ月、不要だったのでしょう。陛下が、組んだ、縁談だと……お忙しいのに、わたしのような、厄介ごと、を」
レイモンドがはっとしたように目を剥いた。まさか、と唇が動く。
「あの時の私の失言を、」
『だいたい陛下が組んだ縁談でしょうが! なのに何で私はこんな時まであんたの尻拭いなんかしなきゃならんのです!』
あの時、シャルロットはその通りだと思った。こんな忙しい彼の忙しい仕事の一つとしてきてしまった。彼ほどの美貌もない。細やかさも、得意なものがあるわけでもない。頭の回転だって、早い方ではない。
こんな状態で、どうしてレイモンドの気を惹けるというのだろう。
「————すみません」
ふいに、ぎゅうと抱きしめられた。
耳元に低い囁きが落ちる。悔いを含んだ声音だった。すみません、と繰り返される。何故、彼が謝るのだろう。
「違います、俺は、決して貴女を迷惑だなんて、思わない。貴女が来てくださって心の底から嬉しかったし、貴女が部屋に迎え入れてくださる時が、ここ二ヶ月弱、一番幸せな時でした。むしろずっと申し訳ないと思っていたのは俺の方です。少しも貴女の側にいられなかった。貴女が、そんな風に思っているとも気付かなかった。それもあんな、——あんな、ことを言ってしまって」
抱擁が強くなる。抱え込むように抱きしめられる。
「あれは政務に嫌気が差していただけです。貴女を疎んじた訳がない。貴女はいつも、文句のひとつも言わずに微笑んでいてくださった。良いんです。仰ってください。何でも、何だって、仰ってください。不安になったらいつだって俺はあなたの話を聞くから。だから、どうか、そんな風に思わないでください。俺は、」
薔薇の匂いがする。風に紛れて月影に花びらが舞った。雲が晴れる。鳥の鳴き声。
「俺は、あなたが、すきです」
浸透する。
柔らかく、勁い、声が。
「レイモンドさ、ま? それ、は」
シャルロットは震える手を伸ばした。抱きしめてくるレイモンドの背に。
ああ、しがみついても、良いのだろうか。
けれども彼女の腕が触れる前に、彼はそっと身を離した。視線が合う。美しい碧に映る自分は泣いていた。
「……いつか、俺とシャーリーがもっとずっと小さかった頃。貴女がくれた花冠が、ずっと、俺を王太子たらしめていた。ずっと、」
噎せ返るように甘い。
あまい、薔薇の、匂いのする。
幼い自分が贈った、小さな花冠。
彼は、喜んでいて、くれたのか。
「あの頃からずっと、俺は貴女がすきだった」
とても静かに、彼は言った。
「……っ、わ、たし」
シャルロットは必死に彼の手を握った。嫌だ、と、思われないだろうか。そんなことが頭を過る。けれども握り返されて、彼女は子供みたいに泣いた。
「わたしも、ずっと、レイ様がすきでした」
ずっと、あなたに。
焦がれていました。きっと、レジーナのように、強く。
見開かれた碧の目が揺れ、彼は一瞬息を止めた。握った手ごと、引き寄せられる。壊れ物に触るかのように、手の甲へくちづけられる。大したことではない筈だ。なのに、心臓が止まりそうになる。
「……俺の妻に、なってくださいますか」
泣き笑いのような顔で、彼は言った。シャルロットは泣きながら頷いて、だいすきな婚約者に抱きついた。
花冠をつくろう、コーラルフェリアに戻り、そうしてクラッグランドに戻ったら。
いつか王様になるこのひとに、ちっぽけな薔薇の花冠を。