BACK TOP NEXT 

 
 
 
 
 そうこうしているうちに時は過ぎる。気付けばさらりと婚礼は終了し、來燈と夫婦の関係になって一ヶ月が経過した。冬の終わりに祝言を上げたので、今は春の初め。早咲きの桜が咲きこぼれ始めている。窓の外にはらりはらりと舞い落ちる光景は柔らかい陽の光と相まってとても心和やかになるものだった。早く目が覚めると、朝の静けさとともに見れる地を浮き微睡み揺らぐが如くの情景が特に綺麗で、月由はすっかり早起きである。
 そんなこんなで、瑯家の使用人に奥方様、と呼ばれる違和感も少しずつなくなってきた頃、月由は大いに首を捻っていた。
「……華白」
「はい、月由様」
 さすがにもう姫様とは呼ばない華白だが、もとより月由付きの侍女だからか、こちらは奥様と呼ぶのに激しい違和感があるらしく、名で応じることに決めたらしい。今ではまったく耳に馴染んでいた。
「わたくし、結婚て、もっとこう、難しいものだと思っていたのだけど」
「はい」
「……ただ一緒に暮らすだけなのね」
「は、…………はい」
「…………その沈黙は、なあに」
 月由が聞くと華白は困ったように苦笑した。
「いえ、結婚と言うのは、まあ、それで合ってはいるんですが……普通、子供を授かります、ね」
 ぱちり、と月由は瞬いた。
 確かに。
 まあ、そう、よね。普通、そうよね。別に、子供を産みにくい体質とか、そういうわけでも、ないし。子供がいなくても一緒になりたいとかそういう関係でもないし。そもそも政略結婚って、その為にあるのよね。
 などという一般常識がぐるぐると頭を渦巻く。しかし、だ。長らく斎女として過ごしてきた月由はいまいちその手のことに詳しくない。とりあえず同じ寝台で寝なくてはいけない、ということぐらいしか分からない。分からないのだがしかし、何故か婚儀から現在まで、彼女とその夫は別々の部屋で寝ていた。月由が言ったのではなく、來燈がそのように手配したのである。
「……華白」
「はい」
「これって、とても、おかしくないかしら」
「はい、おかしゅうございます、月由様」
「そうよね。おかしいわよね。……でも、どうすればいいのかしら」
 というかもっと早く自覚するべきだったのだわ、と月由はちょっと反省した。瑯家の、というより來燈の屋敷の使用人達は皆穏やかで親切で、別々の部屋でも咎められることもなく、この一ヶ月のほほんと暮らしてしまっていた。朝夕の食事は一緒に食べるし、來燈の暇があれば双六や碁などをすることもある。のんびり夜まで話すことだってある。だが何故か、部屋は別々だった。
(……わたくし、嫌われてしまったのかしら)
 それにしては態度の変化がない。來燈は相変わらずちょっと子供っぽいくらいにこにこ呑気だし、始めの頃などは、月由が普通の暮らしに上手く馴染めなくて失敗してしまっても苛立ちもせず心配して、さらには教え直してくれる。変わらずとても善い人だ。庭のことも月由に任せてくれた。最近は仕事が忙しいとかで逢うことも少ないのが少々淋しいがそれは仕方ない。何より特にこれは問題ではない。
「……あの、月由様。そんなにお悩みにならなくても。もう少しお待ちになってはいかがですか? きっと旦那様にもお考えがあるのでしょう」
「そう、ね。変に空回ってご迷惑をおかけしてはいけないわ」
 そう、無理矢理自分を納得させ、月由は渋い顔で頷いた。



 けれども。
 けれどもそれはそろそろ二ヶ月目に差し掛かりそうになっても変わらなかったのだ。

 斎女というのは禊という霊水に浸かり、身を清めて神と相対するのに不要なものを削ぎ落とす行為が必要不可欠で、それもあってかたとえ如何ばかり高位の貴族の娘であろうと一人で沐浴なり何なりをこなすことが出来る。なので、月由は大抵一人で湯に入り、暫し頭を空にするのが常だった。
 今も桶で頭から湯を被り、体の汚れを洗い流していた。ぽたぽたと毛先から水滴がこぼれ落ちる。はたりと睫毛を一度だけ瞬かせて、彼女は憂鬱に俯いた。————どうして。
 どうして、來燈様は、わたくしに何も仰らないのかしら。
 子供を授かりたくないというのならそれで良いし、月由をそのように見れないというのなら、それでも良い。兎も角、何かしら言って欲しかった。……我が侭、だろうか。けれども月由は今まで、自分のほとんどの時間を斎女として使ってきたのだ。こんな風に、ただのうのうと過ごすのは、少しだけ気まずくて、何故だかとても悪いことをしているような気分になる。
(わたくしは、皇女だったのだもの)
 民の血の上で生まれた。だから自分は自分以外の人間が少なくとも日々を脅かされることなく暮らせるように、その為に生きるべきなのだ。痛みは全てわたくしの民の命の為に。心は全てわたくしの民の幸福の為に。月由の手も口も髪も足も爪の先まですら、そのように出来ている。そのようにあるよう、生きてきたから。
 ……だけど、やはりこれは甘えなのかもしれない。自分は最早斎女ですらなく、今はただ瑯家若当主の妻だ。まず第一に己を捧げるべきは來燈で、従うべきも彼だ。そも瑯家の者として成さねばならぬことを、新参者の自分に任せるのはあまりいただけないことなのかもしれない。
 月由はもう一度湯を被って立ち上がった。もうそろそろ上がらなくては。布で髪を薄く拭い、裸足で歩き出す。
(……だったら、)
 そう、ならば任せられるまで、彼女は世の奥方と同じように、辛抱強く毅然と待たなければいけない。月由はぐっと拳を握りしめた。——まだ、負けませんわ、來燈様。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 何枚か袿を羽織り、内庭を見通せる縁側でほうと息をついていると、聞き慣れた足音が届いた。
「あ、ここにいたんだ」
 月由は飛び上がった。慌てて振り返る。もう來燈様が帰っていらっしゃる時間?! なんてこと。
「申し訳ありません! そんな時間だと気付かず……お出迎えもしなくて、」
「え、いいよいいよ」
 月由の夫はぶんぶんと子供のように首を振った。次いで、にへらー、と笑う。その春が解けるような穏やかな笑みに、月由はついつい和んでしまう。
「ただいま、月由」
 淡い声だった。柔らかくて、きっと、絶対に対面する相手を傷つけない声。月由もふわりと笑った。
「はい。おかえりなさい、來燈様」
 返すと來燈はやたら嬉しそうに相好を崩した。うん、と頷き、大きな手をぽんと寄越す。月由のちっさな頭に。思わず目を閉じてから、彼女は少しばかり頬を染めた。もう、まるで子供扱いだわ。來燈ときたら結婚してからこの方、一事が万事この調子なのだ。猫の子にするように頭を撫でたり、子供を引っ張るみたいに手を繋ぐ。自分の方が子供みたいなくせに。
「そうだ、今日はね、なんとかっていう髭の長いひとに美味しそうな蜜菓子をもらったから、一緒に食べよう」
 にこにこと來燈は言った。月由はちょっと呆れた。なんとかって……また忘れたのか。
 來燈という人間は意外と薄情で、興味も関心もない相手のことは、どれほど熱心に取り巻かれようとさらりと忘れてしまう。だというのに絶えず貢ぎ物をもらってくるのだからおかしな話である。そんな彼は月由が沈黙したのを取り違えたらしくあからさまに哀しげに仰け反った。
「え、い、嫌?! でもさ、月由蜜菓子好きだったよね? って、あ、気分じゃない? それなら」
「いえ、喜んでご一緒させていただきますよ。ありがとうございます」
 來燈はぱっと嬉しそうになった。あ、そう? などと機嫌が良い。何だかなぁ、と月由は複雑な気分になる。当人がこれだから、何も聞けなくなるのだ。

 ……本当は、まだ、どなたかを想っていらっしゃるのでしょう、などとは。

 




 


BACK TOP NEXT 

 

 

  

inserted by FC2 system