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 月由は危うく麻布を落としかけた。
 どくどくと心臓が嫌な音を立てる。その音が万が一にも壁一枚隔てた向こう側に伝わってしまわないように、そっと胸元を押さえつけた。僅かに開いた扉から逃げるように歩き出す。きっと、もし今顔を合わせてしまったら、月由は酷い顔を見せてしまう。來燈を、困らせるような顔を。
『僕は、きっと、月由が嫌がることをやる。……それで一生顔を合わせてもらえなくなっても』
 たった今聞こえたばかりの言葉が頭の奥で渦巻いた。何度も何度も反芻する。それ以前の声は遠過ぎて聞こえなかったけれど、丁度あの部屋の前まで来た時に、これだけは届いたのだ。無心にとにかく足を進めて、不思議そうな使用人には柔らかな労いの言葉を口にし、奥庭まで直行する。お速いですな、と驚く海裡に曖昧に笑って月由は真っすぐ部屋まで戻った。幸いなことに侍女は誰ひとり居ない。華白もだ。月由は衣が乱れるのも構わずぼすんと寝台に突っ伏した。
 どうしよう。
 耳鳴りがする。喉が引きつって、指が震えた。さむい。どうしよう、寒い。もう春、なの、に。
(來燈、様)
 嫌がることをやると言った。顔を合わせてもらえなくても、とも。顔、を、合わせない。それはどういうことだろう。嫌がること。わたくしが嫌なこと。顔を合わせない————離れるような、こと?
「……っ、」
 瞼が熱くなって、慌てて目を擦る。ぎゅう、と枕に顔を押し付けた。
 いや、と子供みたいに思った。いや。來燈様。嫌です。愛人だって、妾だって、構わないんです。あなたが望むならずっと、ちゃんと目立たないようにしています。あなたの大切なひとを悲しませたりなんてしないから。だから。
 そんなこと言わないで。
(はなれたくない)
 離れたくないんです、來燈様。
 なんて酷い我が侭だ、と月由は自嘲した。もう、押し込めると決めた、掘り返さないと決めた、はずだったのに。
 來燈に想う相手がいると気付いたのは、確か彼が十三歳の時のことだ。月由は祭事で少しだけ皇城を留守にしていて、久しぶりに会った時のこと。——いや。会う、直前。遠くを眺めるあのひとを見た時。
 いつもちょっと子供っぽくてたまにばつの悪い顔で泣きそうになっていた彼は、今まで見たこともないような、やさしくて、だけど苦しい表情をしていた。……例えれば、夕焼け、の、ような。
 どうしてそれがそうなのだと分かったのかは、自分でも未だに分からない。けれどもそれは恋だった。特別なひとを想う目。恋い慕う色。ため息すら花の匂いをする。こぼれおちたそれが爪先に蕾を芽吹かせる。そのような感情。
 だからその時月由は叩きのめされたのだ。
 話しかけるなんてとても出来なかった。けれど供の者が声を上げ、彼の名を呼ぶ。振り向いた双眸は驚きに見開かれ、もう甘い感情の色はない。 
 はじめて、月由は気付いた。気付いて、それから、泣きそうになった。あんな風に必死に笑ったのは、あの時が初めてだった。
 ——自分は、このひとを。
 幼いふりをしていた。気付かないふりをしていた。だけども來燈の決してこちらに向かない眼差しの熱に引きずり出された。躊躇いなく自覚させられたのだ。ずたずたに、容赦なく。
 そういう風に、好きだったのだと。
 けれどもあの時まさか自分がこんな早くに結婚するとは思わなかったし、まさか來燈と祝言をあげるとも思わなかった。だから密かに応援しようと決めて、もう浮き上がってこないように押し込めたはずだった。
(わたくし、馬鹿だわ)
 通常、皇族との婚儀において離縁などはありえない。けれどもその通常をひっくり返すようなことをあの頭の良いひとはこの二ヶ月弱で考え、そして進めていたのだろうか。……いいや。それとも考え過ぎで、ただ、妾を入れるだけだろうか。それならいい。その方がいい。眼差しはいらない。けれども自分は元皇女で、容易に妾など入れられないだろう。だとしたらやはり何らかの方法で傍を離れるしかない気がする。だけど、ひどい。だって結婚してしまった。こんなに長く、傍にいてしまった。これ以上遠くに離れるなんて無理だ。それだけは無理だ。出来ないことはないだろうけれど、それは考えうる選択肢の中で何よりも堪え難いことだった。
(でも、)
 でも、それが、あのひとの望みだろうか。窒息しそうなほど枕に顔を押し当てる力を強くして、その内側で彼女は息を吐いた。ああ、それでも。未練がましく思う。
 それでも、離れたくないんです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 月由は一度だけ、ごくんと無理矢理唾を飲み込んだ。苦い味が口内に広がる。けれどもそれだけで表情は戻る。荒波は凪に。嵐は微風に。そっと窓の外を窺うと、はらりはらりと桜が散っていた。月由はふっと目を細める。この家の桜は花が多くて、散り際は潔くて、泣きたくなるほど綺麗だ。瑯家若当主の屋敷はどんな窓からも、古木のように居を構える桜を目にすることが出来る。嫣然と、傲然と、清らかに勁く、潔く、そしてあざやか。生き様も性根も笑みも企みも、その全てが。月由もそのように相成りたかったものだと、ほんのり苦笑する。正座のまま寝台の上で暫し瞑目する。そのままじっとしていると慣れた様子で誰かが部屋に入ってきた。誰か、は分かっている。月由はゆったりと微笑んだ。入ってきたそのひとはまだ彼女に気付かない。けれど欠伸をしながら近寄ってきた、その眠そうな目が彼女を捉える。
「…………————え、月由?!」
「お待ちしておりました、來燈様」
 驚愕に眠気も吹っ飛んだらしい夫に向かって、妻は小さく、けれどはっきりと呟いた。
 來燈の寝台の上で。

 
 

 


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